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90. 暗転02

 チリアン隊長が執務室から出て行くと、リーンは俺に向き直った。


「夜盗団の残党に殴られたところはもう大丈夫なのか」

「チリアン隊長から聞いたの?」

「ああ、さっきな」


 俺が伯爵邸へ乗り込んだときには、既にポーションで治した後だったらしい。

 まだ何があるかわからないからポーションを取っておきたいと言ったリーンに、チリアン隊長が見るに堪えないと言って使わせたそうだ。

 やはりチリアン隊長には、もう少し言葉の選び方を覚えてもらわなくてはならない。


「もうポーションで治したから大丈夫よ」

「そうか、チリアン隊長が失礼なことを言ったみたいで悪かったな」


 そう言うとリーンは困ったように笑った。


「あれは私にポーションを使わせるためでしょう。あそこは真っ暗で、チリアン隊長が小さな火を出してくれていたけど、まともに顔が見えたわけじゃないもの」

「だとしても、女性に向ける言葉じゃない」

「優しいのね」


 褒められたはずなのに、不安が先立って素直に喜べない。


「話って?」


 そんな焦りからか、聞きたくないと思うのに自分から切り出してしまった。

 リーンはポケットから折りたたんだ紙を取り出し、差し出してきた。


「これは?」


 何も答えてくれないので、仕方なく受け取った。

 紙を広げるとそこに書いてあった文字に目が釘付けになる。


『婚姻解消届』


 その下には離婚について回りくどく文章が記されている。署名欄にはリーンが既に名前を書き込んでいた。


「どういうことだ」

「もう終わりにしましょう」


 返す言葉が出て来なかった。なぜ、どうして、唐突すぎる申し出に頭が追いつかない。


「お互いの目的は達したはずよ」

「目的?」


 ばくばくと心臓が音を立てて動き始める。リーンは本気か。本気なのか。冗談でこんなことを言い出すような女性じゃない。


「あなたはポーションの供給。私は、錬金術室に所属していても、外で暮らせるという証明。もう十分な時間を過ごしたわ」


 なぜリーンは微笑んでいるんだ。笑ってこんなことが言えるほど、俺たちの仲は浅いのか。


「本気か?」

「もちろん」

「俺は」


 体中の血が引くような感覚に襲われる。否定出来ない。リーンの言ったことは間違っていない。


「確かにポーションは欲しかったけど、それだけじゃなかった。それだけで結婚したいと言った訳じゃない」

「責任を感じたからでしょう」

「それだけでもない!」


 おもわず口調が強くなるとリーンが頭を横に振った。


「もう、私に結婚を続ける意思はないの」


 真っすぐに、あまりにも真っすぐにリーンに見つめられ、何も言葉が出て来なかった。


「ごめんなさい。今までありがとう」


 これまでの生活を締めくくるには、呆気ない言葉を置いて、リーンは執務室から出て行った。

 俺は後を追うこともできず、その場に立ち尽くすしかできなかった。




 しばらくするとチリアン隊長が戻ってきたが、事情を聞かれたくなくて、書類整理に没頭する振りをした。たぶん俺の様子がおかしいことに気づいていただろうが、何も言われることはなかった。


 そうして一時間も経った頃、新たな出動要請が下った。


「ブラックスライムが二体出現した、ただちに現場へ駆けつけよ!」


 昨夜の騒ぎも収まらないうちにと言うべきか、昨夜の続きがまだ終わっていなかったと思うべきか、とにかくすぐに出立の用意をしなくてはならない。

 場所は王都から離れている。発生の時差はそのせいかもしれないな。


「これで行方不明になった者たちと数が一致したな」

「はい」


 他の隊長たちとも相談し、俺と第二隊の副隊長がそれぞれの隊を率いて現場へ向かうことになった。隊長たちは事件の後処理があるため居残り組だ。


「ブラックスライムの倒し方は単調だが、今回は二体もいるのだ。決して油断しないように」

「はい!」


 私生活で何があろうとも仕事に支障をきたすことは許されない。護国騎士団がしくじれば、その土地に暮らす者たちに危険が及ぶ。チリアン隊長に見送られ、俺たちは王都を後にした。






 ブラックスライムは問題なく二体とも退治できたが、王都へ戻ってくるまでに二日を要した。その間、リーンのことは考えないようにしていた。

 あの出来事が夢だったらいいのに。家に帰ったらリーンが食事を作っていて、おかえりと出迎えてくれる。

 しかし、そんな現実逃避も長くは続かなかった。


 家に帰ると、リーンの荷物が一つも無かった。代わりに置いてあったのは、この家の一切の権利を手放すという証書だけ。

 そんなものいらない。俺が欲しいのは、そんなものじゃない。

 握る手に力がこもり、証書は音を立てて潰れた。

 リーンは本気で別れるつもりなんだ。


 俺はどこで間違えたんだろうか。

 リーンと結婚することで、あわよくばポーションの数を増やせるかもしれないと考えたのは事実だ。最初から相談しておけば良かったのか。それともただ単に、俺に愛想が尽きただけなのか。

 積もり積もった不満が爆発した? デートの中断、中止、酷い言葉もかけた。何より出会い方が最悪だった。やっぱり許せないと思われても仕方がない。

 ずっと一緒に暮らしてきたのに、リーンが何を考えているのかまったく分からない。

 分かっているのは、リーンがもうこの家に戻ってこないということだけだ。


 握り潰した証書をテーブルに投げ出し、リビングのソファに体を預けた。

 久しぶりに、家で一人の時間を過ごす。そういえば侵入者が汚した跡もまだ片付けていなかった。


「あー、めんどくせー」


 リーンがいたら二人で一緒に片付けられたのに。

 きっとリーンは家を壊されたことを怒るだろうから、俺は宥める側に回って、片づけが終わったら二人でご飯を食べて、一緒に寝て、朝が来たら起こして抵抗されて。これからもそんな日々が続くと思っていた。


 当たり前だがその夜、リーンが帰ってくることはなかった。






 次の日、護国騎士団へ出勤すると、チリアン隊長に体調が悪いのなら休むよう言われたが、悪いのは気分だけで隊務に支障はないし、何よりこの忙しい最中に休めるはずがない。

 それにまだ心の整理がついていないので、働いていた方が気がまぎれていい。いや、半年以上も一緒に暮らしてきたリーンが出て行ったのだ、整理なんてそんな簡単につく訳がない。


 昔のことを思い出した。

 おふくろが死んだときはまだ幼くて、それでも親父がいてくれたから立ち直れた。

 親父が死んだときはどうだっただろう。既に分別のつく歳だったし、見習い騎士で忙しくしているうちに、悲しみは薄れていったのかもしれない。

 じゃあリーンは?

 リーンは生きている。しかも同じ王宮内で働いていて、また顔を合わせることもあるだろう。そのとき普通に接することができるだろうか。まったく自信がない。






 リーンから別れを告げられて五日め、いよいよチリアン隊長が動いた。

 突然に目の前にやって来たと思ったら、俺の胸ポケットに入っていた婚姻解消届を引き抜いた。


「あ、ちょっと隊長、何するんですか!」

「事あるごとに手を当てていたからな」


 取り返そうと伸ばした手はかわされ、無情にも中身を見られてしまった。くそっ、油断していた。

 チリアン隊長は紙をしばし眺めて首を傾げた。


「これは見たままの意味か」

「ええ、見たまんまですよ」

「煩雑な部分の手続きは既に終わっていて、後はお前の名前を書いて出せば離婚は成立するようになっているな」


 そういえば離婚は面倒だという話を聞いたことがある。そうか、その手続きもすべて終わらせていたのか。


「五日前にこれを?」

「そうです。もう返してください」


 しかし隊長は返してくれなかった。


「普通なら手続きに一ヶ月はかかるものだ」

「え?」


 そういえばいつだったかスレート王宮騎士隊長もそんなことを言っていた。

 それならリーンは、昨日今日別れようと思い立った訳じゃないということだ。


「ははっ、そりゃ仲が深まらないはずですよね。そんな前から離婚の用意をしていたんだったら」


 俺だけがリーンとの仲を縮めようと画策していた。全部独りよがりだった。笑うしかない。


「別れる理由は?」


 こんなときでもチリアン隊長の好奇心は鳴りを潜めない。


「お互いの目的は達したと。リーンは錬金術室員が外で暮らすための前例、俺は騎士団のポーションをあわよくば増やすことと言われました」


 いざ自分の口で語ると、やはりリーンにとっては都合の良い関係でしかなかったのだと実感してしまう。


「辻褄が合わないな」


 しかしチリアン隊長は納得できなかったようだ。


「どこがですか」

「錬金術室の者でも結婚できるのだと、外で暮らせるのだと見せたいのなら、離婚する必要はない。むしろこんな短期間で別れては悪印象を抱かせることにはならないか」


 それは隊長の言う通りかもしれない。でも、それでもリーンは十分だと思ったのかもしれない。


「お前は敏い。そのお前が、これを渡されるまで相手の動きに気づけなかったというのもおかしい」

「さすがに買いかぶりすぎです」


 事実、リーンに切り出されるまで俺は何も気づかなかった。

 もういいんです。もうこの話を終わりにしたくて、そう言葉にしようとしたところで、またしても急報が入った。


「モンデリで土砂崩れが発生! 採掘に入っていた労働者が生き埋めになっている模様。至急、救出に向かえ!」


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