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39. 幼馴染の訪問

 リビングではなくキッチンから人の気配がしたので、足音を消して近づくと、また別の男の声が聞こえてきた。


「お二方とも、コルク副隊長が戻られましたよ」

「えっ」


 リーンがキッチンから飛び出してきた。どうやら気配の読める奴がいるようだ。


「おかえりなさい」

「うん、ただいま。お客さんか?」

「そうなんだけど」


 ちらりと背後を振り返ったリーンが、気まずそうに肩をすくめた。こんな遅い時間にいったい誰がやって来たというんだ。


「悪いな、留守中に上がり込んでしまって」


 彼女の背後からひょっこりと現れたのは、王宮で働く者であれば誰もが知っている顔だった。


「国王陛下!」


 まさかの人物の登場に条件反射で膝を折って頭を垂れた。


「おいおい、顔を上げてくれ。ここには私用でやって来たんだから堅苦しい挨拶は無用だ。何より貴公の家でそのような格好をされてはリーン、いや貴公の奥方にどやされてしまう」


 エリオット陛下の言葉に従い頭を上げると、困り顔で頬をかいていた。首の後ろで一つに括った黒い髪と、理知的な黒い瞳が印象的である。


「だからさっさと帰れって言ったのに」

「挨拶ぐらいしても良かろう、減るもんじゃなし」

「神経がすり減ります。ただでさえ遅くまで仕事をして疲れてる人にどんな仕打ちですか」

「そうは言っても、俺もこれでなかなか忙しい身なので、そうそう抜け出すことはできんのだ」

「そもそも抜け出さないでくださいよ、周りが大変なんですから」

「その言葉、お前にだけは言われたくないぞ」


 ぽんぽんと交わされる言葉の応酬に唖然としてしまう。

 え、今さっさと帰れって言った? 国王陛下に?


「とにかくノアは立って。食事にしましょう」

「食事って、しかし」


 ちらりとエリオット陛下を仰ぎ見ると、なぜか嬉しそうに頷かれた。


「もちろん俺も馳走になるぞ。国王になる前はたまに錬金術室で一緒に食事をとっていたんだが、最近はまったく行けなくなってしまってな。あそこの食事は王宮の料理人が作ったものとはまた違った美味さで癖になるのだ」


 嘘だろ、国王陛下と同じテーブルで食事をするのかよ。味が分かる気がしないんだが。


「申し訳ないけど、今日はあきらめて。言い出したら聞かない人だから」


 リーンに謝られたが、ここで断るという選択肢などあるはずがない。


 キッチンを覗くと驚いたことに護衛が一人しかおらず、慇懃に頭を下げられた。

 見たことのある顔だ。名前はローガン・メイズ。エリオット陛下の側近で近衛師団長という、俺にとってはこれまた雲の上の人間である。


 その後、俺は荷物を置くために一旦席を外した。

 戻るとメイズ近衛師団長がテーブルにカトラリーを並べていて肝が冷えた。さすがにエリオット陛下はテーブルについて待っている。


「私が用意をいたしますのでどうぞお座りになってお待ちください」

「いえ、私どもは招かれざる客ですので、これくらいは当然です」

「俺も手伝うと言ったんだが、邪魔になるから座っていろと言われてな」


 エリオット陛下は笑っているが、誰が邪魔だと言ったのかは怖くて聞けない。


「まあ準備ができるまでの間、貴公は俺の相手でもしてくれ」


 その誘いを断れるわけもなく、よりにもよってエリオット陛下の真正面に座るはめになってしまった。しかも小さな食卓なので距離が近い。

 護衛のはずのメイズ近衛師団長は、なぜか陛下から離れてリーンがいるキッチンへ行ってしまったし。


「本当はもっと早く来たかったのだが、なかなか抜け出す時間が取れなくてな。先日までは錬金術室も護国騎士団も忙しくしていただろう。落ち着くのを待っていたらずいぶん遅くなってしまった」


 そういえばエリオット陛下には婚姻届に署名をしてもらっていたことを思い出した。


「とんでもございません。本来ならこちらから窺うべきでした。婚姻届に署名していただいたのに、お礼にも参らず申し訳ございません」

「そういえばそんなこともあったな」


 エリオット陛下はおおらかに笑ってくれたが、呼び出され叱責されてもおかしくはない話だ。

 リーンと暮らし始めて挨拶どころじゃなかったということもあるが、これはかなりの失態のような気がする。


「貴公が気にすることではない。必要ならリーンがその場を設ける。必要がないから設けなかったのだ」


 たしかにリーンからは何も言われなかった。じゃあいいのか。いや、良くはないよな。


「本当に気にしなくてよいのだぞ。王宮ではたいした話ができないから、こちらも声をかけなかったのだ」


 つまりこれから王宮では話せないような話をされるわけだ。

 緊張する俺とは裏腹にエリオット陛下はあくまで笑顔だ。


「それはそうと婚姻届のサイン、あれはなかなかのやり口だったぞ」


 くつくつと笑うエリオット陛下に嫌な予感しかしない。


「突然リーンが執務室へ入って来たと思ったら、証人のサインが欲しいと婚姻届を突き付けてきてな」


 どうしよう。その様子が想像できて怖い。


「このタイミングで誰と結婚するのかと思ったら、堂々と貴公の名前を出されて、側に控えていたローガンが口を開けて固まっていたからな」


 ということは、あの時点で既に俺の名前は王宮の上層部に知れ渡っていたわけだ。本当にリーンが結婚を受けてくれなかったら、どうなっていたか分からないな。


「動揺する我らをまくし立てるように言い負かし、俺にサインをさせると、颯爽と風のように去っていったのだ。あれは見事だった」


 うん、まったく笑えない。

 たしかにあのとき、すぐに戻ると言ってはいたが、力技にも程がある。


「リーンはなかなかに気が強いから苦労しているであろう」


 エリオット陛下の問いかけに我に返る。


「いえ、そのようなことはございません。私などのことを気遣ってくれる優しい女性です」

「ほう、模範的な答えだな」


 エリオット陛下はにやりと口角を上げた。その瞳にどこかいたずらめいた光が宿っている。

 歳はたしか俺やリーンとそう変わらなかったはずだが、見た目はもう少し上に見える。王族の威厳だろうか。


「俺の前で取り繕う必要はないぞ。あの気の強さは幼い頃からの付き合いでよく知っている。俺も近衛師団長も昔から手酷く叱られたものだ」


 リーンさん、国王陛下どころか近衛師団長にも怒るんですか。そりゃ俺がリーンに勝てるわけがない。

 気が遠くなりかけたところで、陛下が表情を引き締めた。


「冗談はさておき、貴公にはどうしても会って伝えねばならないと思っていたのだ」


 なんだろう、まさかこの前の貴族議会でのことだろうか。実は後でお叱りを受けるのではないかとドキドキしていたのだが、リーンが問題ないというので深くは考えないようにしていた。

 いや、それともリーンを大事にしろとかそういう話だろうか。彼女の話を聞いているかぎり、陛下とは気心の知れた仲のようだし、釘を刺されてもおかしくはない。

 しかし陛下の口から出てきたのはまったく予想外の言葉だった。


「俺の母が大変なことをしてしまって本当に申し訳なかった」


 まさか国王陛下に頭を下げられるとは思わず、すぐさま立ち上がった。


「お止めください、臣下に頭を下げるなど」

「いや、本当なら皇太后を糾弾しなくてはいけないところを、そなたらに辛酸をなめさせることになったのは、ひとえに俺の力量不足だ。まだ代替わりをしたばかりで、他の貴族どもに弱味を見せるわけにはいかず、だがそれは二人には関係のないこと。それなのに大事にはせず丸く納めてくれて本当に助かった。ありがとう」


 陛下が苦労人と前にリーンが言っていたが、まさにその通りなのだろう。なんの不自由もなく育ってきたのだとしたら、俺のような平民に頭を下げようなどと思うはずがない。


「陛下、そのお言葉は私よりもリーンにかけてあげてください。彼女の方がずっと辛かったと思いますから。私はむしろ彼女と出会えて幸運だったと思います」

「リーンにも謝った。その上で貴公にも謝らねばなるまい。たとえ俺の自己満足だとしても」

「もったいないお言葉です」


 まさか俺にまで心を砕いてくださっているとは思わなかった。


「リーンとは上手くやっているのだろうか」


 はい、とすぐには答えられなかった。


「知らない者同士でしたので、すれ違うことも少なくありませんが、少しずつ距離を縮めているといったところです。しかし先程も申し上げましたが、彼女は俺のことをよく気遣ってくれますし、俺の方に結婚への不満はありません」


 国王は俺の顔をじっと見つめていたが、やがて優しい笑みを浮かべた。


「それは何よりだ。利かん気が強く頑固な娘だがどうかよろしく頼む」


 まるで娘を嫁に出す父親のような台詞に、リーンを心配してくれる人が錬金術室以外にもいたことが分かって、なんだか胸に沁みるものがあった。


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