開幕:追放ッ!婚約破棄ッッ!!【偽り聖女は劫火に巻かれる】
「ルイジアナ・ティンパーノ! この俺、グドゥル・ジエランは今日この時を以て貴様との婚約を破棄する!!」
シャンデリアの魔石光が乱反射する、煌びやかなホール。
それは、王立魔術学園の卒業パーティーの最中のことだった。
卒業生の一人として参加していた王太子の声が、門出の喜びに浮き立つ空気を切り裂いた。
しん、と静まり返るホール。
耳目を集める先で、秀麗な相貌を歪め、グドゥルは己の婚約者を睨み付けていた。
射殺すような視線の先、ルイジアナ・ティンパーノは、きょとん、と首を傾げた。
「何も分からぬといった貌をしおって、白々しい……!」
王太子の苦々しげな呻き声に、はっと我に返った者があった。
王太子の側近候補として共に学園に通っていた宰相子息である。
引き攣れた喉から無理矢理絞り出したような、悲鳴じみた声が上がる。
「何を仰られているのですか……?! 殿下、直ちに撤回なさってください! 彼女は我が国の聖女なのですよ!?」
「何が“聖女”だ馬鹿馬鹿しい!! いい加減限界だ!
此奴を“聖女”として崇め立てる老人たちも、“聖女”を王太子の正妃たらしめんとする形骸化した制度も!」
「で、殿下……!」
青褪めた唇をはくはくと開閉する宰相子息と、貴人としての体裁すら置き去りに怒りを顕わにする王太子を、ルイジアナは透徹した眼で見つめた。
――――なにを言っているのだろう。
ルイジアナには、目の前の二人の言うことが、まるで分からなかった。
ルイジアナは齢十六。婚姻適齢期に入ったばかりの、つぶらな瞳が愛らしい乙女だ。
まだ幼い頃に、聖獣伝説を国興の礎とするこの国の“聖女”として見出され、養育されてきた。
将来の王太子妃として王宮で育てられたルイジアナは、王太子グドゥルの幼馴染とも竹馬の友とも言える。
それが変わってしまったのはいつ頃からだったろうか。
秘密の庭園で、額を寄せ合い、黒と青、瞳に映る互いの姿を覗き込んだ。
あの夏の日――――。
輝かしい思い出は、瞼の裏の光のようにいまや遠く。
「“聖女”!? ハッ! 其奴のどこが聖女だと!?
知性の足りぬ面相、振る舞いには品性の欠片も見えぬ……!
誰ぞ答えよ、聖性の寄る辺は那辺ぞや!?
否! 其奴は“聖女”などではない……!
獣臭い単なるメスよ!!」
か細い悲鳴が王太子と聖女を取り囲む人垣のあちこちから上った。
いずれは国を統べる身の、余りの暴言。赦されざる暴虐。
「何ということを……! 殿下、お願いですルイジアナ様に謝罪を……!!」
宰相子息の悲痛な嘆願を皮切りに、動揺と騒めきが白石の広間に広がっていく。
正気か、信じられない、聖女様に……。さざめきの中には王太子の乱心を疑う声すらある。
グドゥルのひりついた精神は、あえかなそれにも敏感に反応した。
「正気!? 正気かだと!?
それはこちらの台詞だ、節穴どもが……っ!
見るが良い、貴様らが“聖女”と呼び奉る其奴の正体を……!
其奴は……其奴は……………………」
「チンパンジーだろうがアアーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!?!!!!」
“それはまあ、そうなんですけども。”
その時、群民の心が一つになった。
*
いまはむかし
緑絶えし不毛の地
哀れや思し召し豊穣神
神徒たる獣に恩寵与えり
形て聖獣と呼ばれし獣
聖獣の歩む道 あまねく緑とす
*
とかいう話が建国記として伝わっているこのジェイン国には、王太子が生まれると“聖獣”を探し正妃に据えるというトンチキな慣習がある。
いつから始まったのか定かではないが、人の世にあっても尊き存在として聖獣を遇する意味があるとかないとか。
聖獣は不思議と必ず雌であるのもあって(これは豊穣神が女神だからと考えられている)、王太子が未成年の内はその婚約者に据えられ、獣ではなく人同様、丁重にお迎えしたことを顕すため“聖女”と呼び慣らわす。
正妃の座にあるのは生涯変わらず聖獣で、これは王太子が王になっても変わらない。
つまりこの国の“王妃”は代々動物で、側妃制度があるのもこのためである。
さすがにワンワンやらニャーニャーやらに“王妃”の務めは果たせないので、人間の妃が“側妃”として嫁ぐ、と。
ちなみに現在の王妃、つまりグドゥルの父の正妃は、赤い丸ほっぺが可愛いインコちゃんである。
羨ましい、とグドゥルは心の底から思った。
侘しくなり始めた後頭部を執拗に狙われ10Gハゲが出来ようが、他国使者との謁見の時に限って王冠の上に糞を落とされようが構わない。自分も父のように無害な小動物が良かった。
いや歴代の王の中には王妃が肉食女子(生物学)で、家系図に記載された王の死因が“事故”という空恐ろしいぼかされ方をされている事例もあるのでそれよりはマシなのだが……。
何せ、自分の正妃は“これ”である。
グドゥルは、ギッと青眼を吊り上げ、自らの“婚約者”を睨み付ける。
ルイジアナ・ティンパーノ、(名無しの“ケモノ”とは婚姻できないため聖獣として見出された時点で氏名が与えられる)
哺乳綱霊長目ヒト科チンパンジー。
まごうことなきチンパンジー、真正のチンパンジー。
チンパンジーに生まれ、チンパンジーとして育ち早十六年。
おしりもピンクな繁殖期である。
「ウキィ?」
ルイジアナは、イケてるオスもイチコロなキュートなピンクのぷりりんヒップを王太子グドゥルに突き出し、毛深い指でぼりぼりと掻いた。
「ウワアァーーーーッ!! やめろやめろピンクの尻をこちらに向けるなぁーーっ!!」
王太子は恐慌をきたした。
「どっ、どうしたんですか殿下!? とうとう気でも狂ってしまわれたのですか!?」
「うるさいうるさい狂ってるのはお前らだばかあ! 妻がチンパンジーって何だよおかしいだろが!?
せめて普通のペット程度の動物にしてくれよ!
“チンパンジーですし……王太子×聖女の御子、ワンチャンあるかも?”
みたいな目で見てくるんじゃねえよ教会の狂信者どもがあああああ!!」
ぎょっとする宰相子息へだいたい全部を一息で説明し、至尊の身にあって国の一大勢力に獣姦を期待されるという懊悩を思い出したグドゥルは、頭を抱えのたくった。
「キャッキャッ」
激しく頭を振りたくるさまが面白かったのか、ルイジアナは両手を打ち鳴らして喜んだ。(たぶん)
「ギーーーーーッ!! コノヤローーーッ!! 性悪猿がぁあーーっ!?
子供向けのシンバル人形かオメェわぁあーーーーっ!!!」
ルイジアナはチンパンジー界でも屈指の性格の悪さだとグドゥルは信じている。
幼い頃に引き合わされ、共に育った一人と一匹だが、とにかく相性が悪かった。
長い歴史の中でもチンパンジー聖女は初めてのことで躾を失敗したせいだと教会の有識者は述べている。
躾というか順位付けに失敗しているというのが動物学者の見解で、ルイジアナは自分をナメ腐っている、というのはグドゥルの実感だ。
「ウキーッ」
「アッ!? 聖女様!?」
びよん、とルイジアナは跳び上がった。
チンパンジーの跳躍力は3m! ウキーッ!
「きゃあっ! シャンデリアに……!?」
「危のうございます、聖女様! お降りください!」
「う、うわーっ! シャンデリアが振り子のごとく!?」
「いやーっ!! 落ちる、落ちるっ……ああっ!?」
「総魔石造り時価2億Gのシャンデリアがーーーッ!?」
わあわあとかしましいニンゲンどもを眼下に、ルイジアナはシャンデリアにぶら下がって揺れながらキャッキャッとご機嫌な声を上げた。
ぶぅん、ぶぅん、と揺れるシャンデリアの重い遠心力の最高地点でぱっと手を離す。
「きゃーっ!」
女生徒の悲鳴もなんのその、軽やかな着地を見せるルイジアナ。
チンパンジーは脚が強い! ウキーッ!
立食用のテーブルへ降り立ったルイジアナは、そのままムシャムシャと皿の上の料理を手づかみで貪り始めた。
わがままお転婆ホーリィガールなルイジアナがうろつき易いように、テーブルは広く、皿はかなり間隔を開けて配置されている。
王侯貴族が参加する卒業パーティーと言えど、全ては“聖女ファースト”。
料理だってルイジアナが口にすることを前提に準備されていて、つまり、飾り切り等で見た目は豪華に装ってあるが、単なる生の野菜と果物だ。
チンパンジーは虫や生肉も食べるが、繊細な令嬢たちを慮ったのか今回は用意がなかった。ウキーッ!
ルイジアナが「ウキャキャッ」と歌いながら目についた皿を適当に貪り散らかした跡が、テーブル上にゴキゲンな散歩道をつくっていた。
一応は卒業生たちのための料理でもあったが、最早“料理”としての体裁は見る影もなく、“餌”と成り果てている。
はしたなくも卓上に開脚座り込みをかまし、料理人渾身の豪華絢爛複雑繊細な飾り切りの果物タワーを無残に食い散らかすルイジアナ。
ギリギリと唇を嚙み締めたグドゥルの脳裏に、幼い日の悲しく辛い記憶が蘇っていた。
グドゥルは果実が好きだ。
中でもとりわけ、“ファイナルマスカット”と呼ばれる大粒の葡萄が大好物だった。
農業国家たるジェイン国には、女神の恩寵ゆえか、この国でしか育たない植物がいくつかあり、ファイナルマスカットはその一つだ。
希少な超高級葡萄で、主に国家間の贈答に使われ、一般の市場に出回ることは余りない。
うっとりするような美々しくつやつやした黄金色の皮に歯を立てれば、ぷつりと身がほどけ、舌の上にとろりと広がる濃厚な甘みがたまらない。
まさに“ファイナル”の名を冠するに相応しい、妙なる美味、天上の美酒のごとき葡萄だ。
お値段の方も、何と“一粒”1万Gという、“ファイナル”っぷりだった。
グドゥルは初めて食べたとき、この世にこんな美味しいものがあったのかと、子ども心に衝撃を受けたのを覚えている。
けれども、実際グドゥルがファイナルマスカットを口にできたのは、片手で足りる程度の回数しかない。
王侯貴族は毎日贅沢三昧で遊び暮らしているなどと、下界の低俗な情報紙は書き連ねているらしいが、見当違いも甚だしい。
王家の一粒種とは言え、いや、なればこそ。
王家としての威厳は保ちつつも奢侈は慎む――王太子としてそう教育されてきたグドゥルにとって、大好物を口にできる機会は滅多になかった。
それは、グドゥルが六歳を迎えた日のこと。
誕生祝いとして、両親が夕食後のデザートにファイナルマスカットを用意してくれたのだ。
「ちちうえ、ははうえ、ありがとうございます!」
青い瞳をキラキラさせて、グドゥルは王太子としての振る舞いも忘れ、年相応の子どものように喜んだ。
まろい頬を歓喜の興奮でりんごのように紅潮させた息子と、微笑み彼を見つめる両親。
あたたかい家族の風景――――それは、大嵐の前に訪れる、束の間の凪だったのかもしれない。
「ウキャッ?」
どしん、と天から黒い影が降り立った。
家族団欒のテーブルを襲う漆黒の急降下爆撃機こと聖女ルイジアナ。
彼女は他の果物には目もくれず、芋虫のように太い指で、稚い手のひらからむんずと最終兵器葡萄をむしり取った。
むしゃあ。
“一粒1万G”の有難みもゼロの様相でかぶりつく。
「アーーーーーッ!?」
幼い子どもの悲鳴が響き渡った。
「やめて! やめてルイジアナやめて!
それ僕んだよ! やめてったら!! 返して!」
「ウ~キャキャッキャッ」
大きな瞳を涙でひたひたにして衝動のままルイジアナに飛び掛かろうとしたグドゥルを、母妃が抱き止めた。
“聖女”への暴力は例え幼子といえども、そう、王家の子であっても許されない。
「グドゥル……。聖女様がお気に召したのなら仕方ないわ……」
グドゥルは歯を食いしばった。
母のあたたかい腕に抱かれて、幼い彼の宝物が目の前で無残に散らされゆくのを見ていた。
ぽろぽろと、我慢しきれなかった涙がいくつも流れて。
「……ひどいよ、ルイジアナ……どうしてこんなことするの……?」
思わず零れた悲痛なかすれ声に、聖女は黒目がちな眼をグドゥルへ向けた。
きょとりと首を傾げる。
「ウキャッ」
まるでそれが返答だとでも言うように、皴じみた唇を尖らせて。
ぷっ、と。
吐き出した種が、グドゥルの白い額に当たって落ち――――
――――――号泣。
グドゥルは泣いた。泣きに泣いた。母の教えも父の教えも王太子としての矜持も忘れて声を張り上げ力の限りに泣き喚いた。
泣きすぎて死ぬんじゃないかというほどに全身真っ赤になるまで泣き、実際ひきつけを起こして侍医が呼ばれた。
ちなみにその間、ルイジアナはテーブルの上で鼻をほじり尻を掻いていた。
聖女と崇められようとも、ルイジアナは正味クソチンパンジーなので。
「赦さぬ……!」
幼き日から積み重なった怨嗟が犬歯の間から溢れ出た。
嚙み締めすぎた唇が切れ、ぷつりと真っ赤な血が流れる。
目は血走り、金髪を振り乱し、悪鬼の如き形相でグドゥルは叫んだ。
「貴様のようなクソチンパンジーが“聖女”であってたまるかッ!!
ルイジアナッ! 貴様が“聖女”など何かの間違いよ! 貴様を追放し、“聖女”選定をやり直す!!
衛兵ッ! これへ!」
「なっ!? 殿下、おやめください! お戯れを……!」
「戯れ!? 戯れと言ったか!?!
王太子の婚約者がシャンデリアでジャンピングアクティビティのち料理を無茶苦茶に食い散らかすチンパンジーである現状以上に戯れであることがあるか!?!」
“まあそれはそう”
またしても下々の心は一つになった。
「こやつを捕らえよ! 追放しろッ!! 追放だ、追放っ!!」
呼ばれて集まってきた衛兵たちは、真っ赤な目で唇から血を垂らしながら腕をぶんぶん振り回す王太子の尋常ならざる様子に戸惑い、手を出しあぐねていた。
ざわざわと困惑の声が広がっていく。
「で、殿下!? いったいどうされたのですか! おかしいですよ! いつもの貴方とは思えない!」
「おかしい……!? ああ、そうだろうとも!」
宰相子息の引き攣った細面へ、グドゥルはギラッと血走った眼を向けた。
「何せこの一週間まともに寝ていないのだからなァ!
聞いて驚け、七徹明けよ!!」
ざわっ、と聴衆が揺れる。
「な、ななてつあけ!?!」
七徹明け、つまりグドゥルは七日連続徹夜をガンギマリしてこの場に挑んでいた。覚悟が違う。
ことは一週間前に遡る。
グドゥルは王宮内の自室にて卒業論文の最終チェックを行っていた。
半年かけて書きあげた自信の作だ。余裕をもって締め切りの一週間前に完成させており、残すは提出のみとなっている。
休日ではあったが、このまま学園へ提出しに行こうか、と思案していたところ、父王から呼び出しを受け、グドゥルは机に論文を仕舞うと、引き出しにしっかりと鍵をかけて部屋を出た。
小一時間ほど父と卒業後の公務について話し合った後、自室へと戻ったグドゥルの目に飛び込んだ光景は。
荒れに荒れた室内。
カーテンは破かれ、引き裂かれたクッションの中の羽が舞っていた。
机からはどうやってか全ての引き出しが引き出されている。
豪奢な絨毯の上、千々に広がるのは――――……
……――――インクで余すところなく真っ黒に汚された上、びりびりに破かれた、かつて卒業論文だったもの――――――。
ぶちぶちぶちっ、と血管がぶち切れる音をグドゥルは聞いた。
「ルイジアナぁぁぁあああああーーーーっ!!!」
白亜の王宮に、怒髪衝天の絶叫が響き渡った。
ちなみに、扉前にて王太子の房室を守っていた筈の衛士は、顔をひっかき傷と噛み跡で真っ赤に腫らし大きな体を縮めてしくしく泣いていた。
ルイジアナを探し出し怒りをぶつける暇もなく。それから七日連続徹夜という狂行により一から卒業論文を書き直したグドゥルは、同時並行で卒業生代表の答辞作成に卒業パーティの準備にと駆けずり回り、畢竟その精神は限界ギリギリであった。
その、引き絞られた弓の如き精神が、世話係によってリボンとドレスでおめかしされて卒業パーティに参加していたルイジアナの、のうのうとした猿顔を見た瞬間、はち切れたのだった。
「ええい、貴様らが出来ぬと言うなら俺自ら手を下してくれるわ!
キョエエーーーーッ!」
発破なのか何なのか、謎の猿叫を上げグドゥルはルイジアナに向かって突進した。
「ウキャッ」
ひらりと躱し、グドゥルに向かって歯を剥き出すルイジアナ。まるで嗤っているかのように。
はた目笑顔に見えるその表情、実はチンパンジーが恐れを覚えたときに見せるそれを、グドゥルは嘲笑と捉えた。
顔を真っ赤にしてルイジアナに飛び掛かるグドゥル。
ルイジアナはその辺に転がっていたグレープフルーツを手に取り、グチャッと握り潰した。
チンパンジーの握力は300キロ! ウキーッ!
飛び散る果汁。突っ込むグドゥル。
「目がァ!!」
青眼にグレープフルーツ果汁の直撃を受けのたうつ王太子に、キャッキャッと手を打つ聖女。
戸惑い固まる衛兵たち。ざわざわする生徒。
果敢にも躍りかかるグドゥルの頭を足蹴にし、ルイジアナは再びシャンデリア上のチンパンジーとなった。
蹴倒され、どう、とうつ伏せに倒れこむグドゥル。
シャンデリアの上から、ピンクのぷりりんヒップが顔を出した。ちょうど、グドゥルの頭上辺りである。
ぶりぶりぶりっ。
ぼとぼとぼとっ。
チンパンジーの排泄は樹上から! ウキーッ!
「ぎゃああああああ!?!?」
「で、殿下ーーーーッ!!」
「御髪に、御髪にう、うん……っ!!」
汚物は消毒だ、とでも思ったのか、混乱した一人の生徒がうっかり火魔法を放った。
幸いにも見当違いの方向へ飛んで行ったそれは、人々の頭上を越え、テーブルに着弾する。
めろりとテーブルクロスを舐めた火が、ぱっと燃え広がった。
これに驚いたのは、眼下の狂乱もそっちのけ、シャンデリアの上で鼻をほじり排泄後の尻を掻いていたルイジアナである。
聖獣と言えどもとどのつまりは獣であるからして、獣の常としてルイジアナもまた火が苦手だった。
突然の小火と糞下の王太子を何とかしようと恐慌の坩堝に飲まれるニンゲンたちを尻目に、ルイジアナはさっさとその場を逃げ出した。
ちょっと怯えた顔を見せようとも、ルイジアナは実際唾棄すべきクソチンパンなので……。
こうして、思惑にあやまたず無事“聖女”を追放することに成功した王太子だったが、その後騒動の責任を問われ、父王から蟄居を命じられることとなった。
と言っても、精神的なショックと睡眠不足による体調不良の療養を兼ねている。
病床に伏しながらも、グドゥルの心はかつてない安らぎに満ちていた。
もう、黒い天災の急襲に怯えなくても良い。理不尽さの轟雷に唇を噛み締める日々は消えた。
左様なら、クソチンパン……――――。
十何年ぶりに感じる心底よりの安らぎ。グドゥルは甘やかな睡魔に身を委ね、穏やかに眠りへと沈んでいった。
――――――――この夜が、佳き眠りの最期になるとは終ぞ知らぬまま。




