後始末
8月17日 11時 カノウ・エコロジクス本社
加納由香さんに呼び出された私は、彼女に連れられてカノウ・エコロジクスの本社内を練り歩いている。
それはいつぞやに加納省吾から受けた強制的社内ツアーにも似ていて、その途中でこれは私の名誉回復のための行動なのだと気付いた。
どれ程の社員が私の事を覚えているかは分からないけど、『常務取締役が執務室に連れ込んだ後で、副社長にビンタされて引きずられる様に出て行かされた馬鹿女』と認知されていた私が、副社長に接待されながら再登場したのだから驚いたことだろう。
私はそのままあの加納省吾の執務室がある大部屋へと案内されてしまい、ちょっとしたざわめきを聞くことになった。
絶妙な居心地の悪さの中で視線を泳がせると、スーツではなく作業着姿の加納省吾が、皆と机を並べる様にして作られたデスクに座ってその身を小さくしているのに気付いてしまう。
あんな事さえなければ、「そっちの方が素敵ですよぉ★」とか言ってあげれたかもしれない。
「省吾さん。少しいいかしら」
「はい。なんでしょう副社…」
額に汗を貼り付けた顔を上げた加納省吾が、私の姿を見て凍り付く。
「少しお話があります」
由香さんはそのまま私を連れて執務室に入る。
その室内にはあのゴルフセットも黄金のミニカーも残されていたが、ワインセラーは空になっていた。
彼女は気もそぞろな様子でこちらを窺っている社員らへと鋭く視線を走らせて、彼らの頭を下げさせてから、執務室に入って来た夫を迎え入れる。
「お呼びでしょうか」
「雫さんに言うことがあるでしょう?」
自らが扉を閉めるのを待ってから発せられた妻の一言に顔を歪めた中年男性は、ビシッと姿勢を正し、それからカクっと背中を90度前倒して、大きな声で叫んだ。
「この度は…誠に、申し訳ありませんでした!!」
昨日の夜に二人で練習したなコレ…。
いや、まあ、謝られてもね…って感じではあるので、うーん…と私は悩む。
ふと、また何人かの社員がこちらの様子を窺っているのに気付いて、手を振ってみると、彼らは慌てて顔を引っ込める。
「ごめんなさいって、それだけ?」
「う…いや…しかし…いえ、お怒りはごもっとも…ですが」
しどろもどろになった彼は助けを求める様に由香さんの顔を見始める始末。
「どうにかしてこの人を許してあげてくれないかしら」
由香さんのしたい事もいまいちわからない。
この男を許してあげて欲しいなんて思ってもないだろうし…。
まあでも、ただの体裁であれなんであれ、許したっていう形にはしたいんだろうな。
私は二人に聞かせるために大きくため息をつき、「失礼します」と言って加納のデスクの上にあるブラインドのリモコンを手に取って、「閉」ボタンを押す。
そして全てのブラインドが下りた後で、加納夫婦を前に腕を組んだ。
「ちんちん蹴ってもいいですか?」
「「え?」」
なんかこの二人実は仲良くなったりしたんだろうか、完全なシンクロニシティを見せながら聞き返してくる。
「私もね、許してあげたいですよ。でもね、そう思っていてもこのままでは許しますとは言ってあげられないの。だ・か・ら、ちんちん蹴ってもいいですか?」
「…だそうです。省吾さん」
「そ、それでお許しいただけるのであれば…」
こうして私は加納省吾の謝罪を受け入れることになった。
彼は壁に手をつき、足を広げて立っている。
私は勝手に加納さんのゴルフクラブの多分ドライバーと呼ばれるゴツイ奴を手に取り、その背後に立って、ビュンビュンと二度三度素振りを披露した。
「え? あの、蹴るんですよね? 雫さん!?」
「ん??雫さん?」
「あ、いえ、泉美さん」
「そうだった。蹴るんだった」
私は彼に呼び方を改めさせた後で、ゴルフクラブを所定の位置に戻して、改めて彼の背後に立つ。
「じゃあもう一度、さっきの謝罪をしてください。思いっきり蹴っ飛ばしたら、まあ……手下に襲わせたこととか、DRDを飲ませて超わいせつな事をしたのとか、とりあえず警察には訴えないでおいてあげます」
「あ、ありがとうございます! この度は…誠に、申し訳ありませんでした!!」
「ちょっと! フライングしないでください。謝罪は私が『どうぞ』って言ってから!」
「はい!」
やばい。少し楽しくなってきた。
「一回練習ね。蹴らないからね」
そう言いながら、キックの軌道を確認する。爪先をめり込ませるように行くのがいいのか、足首に引掛ける様に叩くのがいいのか。
ゆーっくり足を持ち上げて、加納省吾の作業ズボンの中に収められたタマ袋の大体の位置をちょんっと持ち上げる。
「ヴ」
男はビクリとつま先立ちになった。
え? もしかして今のでも痛いの??
仮にそうだったとしても手加減する気ないけど。
「じゃあ、本番いきまーす。3…2…1…はいっどうぞ!」
「この度は…誠に、申し訳あオッ!!んんんぐぅうううんんんんんん!!!」
私は「どうぞ」の後、一拍あけて力を溜めてから思いっきり足を振り上げ、結果的に脛のあたりで彼の股間を不完全に蹴った。
加納省吾は某マイコーみたいな声を上げた後、股間を押さえて蹲り、反吐を吐き脂汗と鼻水を流しながら、兎に角顔中を汁っぽくさせてうんうんと切なく唸っている。
これで許してあげるとか…私は人間が出来過ぎているよね。うんうん。
暫く猶予を与えた後で、由香さんは加納に「立ちなさい」と命じ、生まれたばかりの仔馬のようになっている彼を無理やり立たせて常務取締役デスクに座らせた後、ブラインドを持ち上げる。
「では雫さん、行きましょうか」
「はい…」
執務室を出た由香さんは、大部屋に居る社員らに「省吾は今から30分ほどの作業をしなければならないので、用事があるのならその後にして下さい」と告げたのだった。
さようならカノウ・エコロジクス。もうここに来ることはないでしょう。
12時
その後私は由香さんの車で移動して、白金台にある彼女のマンションへと招かれた。
「前にもお話したでしょう? 今度の依頼のお金。私費だけど金額が大きいし、何よりも社内不正の調査だともいえないから、ちょっとした別件って事にしたいのよ」
そう言えば…そんな口ぶりだった気がする。
「なんだっけ…名目の為に少し所用をして貰うかもしれませんが…だっけ」
記憶を掘り起こすと、彼女は驚きの表情を浮かべた。
「凄いわね。会話の内容を…覚えているの?」
私は肩を竦め、正直あまり良い思い出の無い特殊能力ですよと伝えた。
実際、これなんかの病気だと思う。
気にしないでいい事を気にしてしまうし、忘れたい事を忘れられないで、何時まで経っても思い出してしまう。そんな感じなのだ。
「で。合計500万円のお仕事の名目に、私は何をすればいいの?」
「所要時間は55分。10分ごとに1分の休憩で。裸婦モデルになってください」
由香さんの趣味が写生なのは知っていたけど…これは予想外。
私は彼女の自室で裸になり、用意された椅子に座る。
そのまま10分ごとに合計5つのポーズを取る羽目になった。
これ普通にめちゃくちゃ疲れる。そしてこんなことになるなら昨日ラーメン大盛りなんて食べるんじゃなかった。
3回目と4回目の合間の休憩を少し延長してもらって、なんとかリカバリーをする。その間に彼女は席を立ち、新品の筆とボディオイルの容器を持って戻って来た。
「4回目と5回目には、身体の凹凸をクッキリさせるためにこれを塗らせてちょうだい。見ての通り、ただの植物性オイルだから」
「そーゆーの、ちゃんと最初に言わないとダメですよ…?」
ボディオイルをタダで塗って貰えて得したと思う事にして、仕方なく塗布を許可する。
彼女はさも楽しそうに笑った後、筆を使って私の首から下にまんべんなくスキンケアアイテムを塗りたくり始めた。
「んっ」
ボディペイントされているような変な気分の中、不意に乳首に触れた際の彼女の筆使いから…違和感みたいなものを感じ始める。
最初は勘違いかと思ったけど…その筆先が下腹を這い、愛撫するようにクリトリスを掠めた時、私にはわかった。
それは…今度の依頼に残されていた、ちょっとした「謎」の答えだった。
再びイーゼルの前に座って、私の姿を描き始めた由香さんに、ポージングを維持したまま話しかける。
「由香さん…あの日、私をビンタしたじゃないですか。覚えていますよね?」
「ええ、覚えているわ」
「私の無駄な記憶力が間違っていたら、そう言って欲しいんだけど…。あの時私を酷く冷たい目で見ながら、アイツに無理やり飲まされたワインをハンカチで拭ってくれましたよね。口元から首筋、鎖骨、そして胸の谷間と」
「ええ」
「あの時…私の肌の感覚を確かめてました? 」
「……」
「それから突然ビンタしてきた由香さん、ちょっと呼吸を乱しながら、眉間に深く皺を寄せて私を睨みつけていたんですよ」
「そうだったかしら」
「あの男を愛してもいないし、蔑ろにされた事を怒ったわけでもない。男社会で戦っている女として、身体を使って男にすり寄っている同性に心底嫌悪したわけでもない。なのに私を結構本気で殴った理由。ずーっと気になってたんです。今ここで言い当てちゃってもいいですか?」
「それは…」
いつも冷静な彼女が、少しだけ苦しそうな表情を見せていた。
時々「あれ?」なんて思っていた事だけど、私はもう確信してる。
彼女はレズビアン…同性愛者なのだ。
あの時私に触れ、惹かれ、思わずその本性が漏れ出そうになってしまい…それを誤魔化すために、咄嗟に私の頬を打ったのだ。
「あの男とは何一つとして重ならないと思っていたのにね、まさか女の子の趣味が一緒だとは思ってなかったわ」
加納由香はキャンバスに走らせる鉛筆を止めないまま、私の指摘を受ける前に白旗を上げて、全面的に同意した。
「意外とお似合いなんじゃないですか?」
「よしてちょうだい」
そんな軽口を叩きながら、ヌードデッサンは最後のポーズへ。
私の身体はもうヘトヘトだった。
そのため最後は彼女の方にお尻を向けて横になり、片足を上げて、上体を起こし、片手にリンゴを持たされるポーズとなる。
もしかしたら…エッチな写真を撮りたかった旦那さんと、ヌードデッサンしたい奥さん、このお二方、ここでも地味に趣味が被ってません?
そんなこんなで合計50分のモデルを終えた私は着衣を整えて、紅茶を淹れて貰いながら、出来上がった絵を見せてもらった。
以前も見たけど彼女の腕前は相当なもので、描き出された私の裸体はなんとなく生々しさがあるものの、私への好意が滲んでいて、綺麗に描いてくれている。
それだけでまあいいかと思えてしまうのだった。
「じゃあ…ちゃんと入金お願いしますね」
「ええ、明日には」
改めて少し高い位置にある彼女の顔を見上げて、「この人、私のこと好きだったんだ」と心の中でつぶやく。不思議な感覚だわ…。
同時にここはちょっと甘えてみてもいいかな? なんて思った。
「あらどうしたの? なにか言いたそうな顔して」
「わかります? 一つ気になることがありまして、由香さんにお願いしようかな? って考えてたんですよ。でも結構お金かかる話なんです」
こうして私は、とある計画を彼女に打ち明けたのだった。
16時
「全部買い取ってくれるって…本当?」
「ええ、本当」
私は約束通りにやって来た設楽杏奈に歩調を合わせて、銀座の通りを歩き出す。
「でもまだ400万円分ちかくあるけど…」
「それはお昼の時点で確認済みよ。あのね、ヤツの奥様が、設楽さんの話を聞いて、全部買い取ってあげたいって言ってくれたのよ」
彼女は、自らが顧みなかった女性からの慈悲に、ハッとその表情を引き締めた。
そしてこの申し出を受けてもいいのかと迷いを見せ始める。
そりゃそうでしょう。妻子のある男なのを知りつつ、加納省吾に近づいてお金を使わせたのだから、本当ならその奥様に対して会わせる顔なんてないはずなのだ。
「それとね。まあこれは私の功績なんだけど、あの『黄金の車』の中身は全部消去させたから。もう安心して」
「うそ…」
これも彼女の予想を大きく超えたサプライズだったのだろう。
突然身に降りかかった善意に対して、喜ぶことも出来ずに立ち尽くしている。
私は固まってしまった彼女の顔の前で手を振って見せる。
だめだ、視線はピクリとも動かない。
騙されているんじゃないかとか、夢じゃないかとか、そんな感じなのかもしれない。
「私も似たような事されちゃってね。で、色々あって、戦って、全部消させたって訳」
かなりはしょったけど、嘘ではない。
…と言うか、設楽さんの分は消してくれるように頼んだけど、私の分は特に何も言ってない。言ってないけど…消してくれたよね??
急に不安になって来たわ。
その後設楽杏奈は、港区女子として過ごした日々への後悔を口にし始め、自分は被害者なだけでなく、加害者だったのだ、と力なく笑った。
「……私さ、秋田の奥の方の出身でね。大潟村って言うんだけど、知らないでしょう?」
知らなかったけど、秋田で大潟というからには、あの八郎潟の近くとかなのだろう。
彼女にとっての故郷は、見すぼらしくて、寂れていて、陰鬱で、汚くつまらない…そんな場所だったと云う。彼女の両親は米農家で、母親はブランド物なんて一切持たず、いつも土の匂いをさせていて、手はまるで祖父のように固く、実年齢よりも明らかに老けて見えたのだそうだ。小学生の時は目まぐるしく働く母の身体を心配して手伝いもしていたが、中学生になってそんな姿を見るのが嫌で嫌でたまらなくなり、SNSやTVや雑誌の世界に浸り、家族との会話も満足にせず、家から逃げるためだけに勉強をして都内の大学に合格して、仕送りを受けながら生活を始める内に、このような状態になってしまったのだという。
「元来性格も悪いしね。見栄っ張りだし…収まるべき所に収まっちゃったんだと思う。そんなしょーもない私だからさ、あれだけ家をバカにしてたくせに、こんな事になって…もうどうにもならなくなって、電話して泣きついたんだ。そしたらさ、お母さんは喜んでくれて、お父さんも帰ってこいって言ってくれて…」
私は父も母も知らない。そんな身の上からもし言えることがあるとすれば、それは「絶対お家に帰らないとダメだよ」って事くらいだった。
でも、そんな野暮なことを言うまでもなく、彼女はもう全てを分かっていたようだった。
「決めたよ。買い取ってもらう…でも、私からちゃんと…奥さんに頭を下げてお願いしたい。そうしないと、家に帰れない」
彼女が今欲しいのは、逃げた先で豪遊するための資金じゃなくて、家族へのせめてもの罪滅ぼしの為のお金なのだろう。
そんなお金なくても、大丈夫だとは思うけどね。
「じゃあ。私から由香さんにそう伝えます」
私は彼女の傍らで通話を繋ぎ、由香さんに杏奈さんの申し出を伝えて取り次ぐ。
私からスマホを渡された設楽杏奈は、人目も憚らずに涙を流して頭を下げながら、由香さんとの5分程のやり取りを終えた。
どうやら無事に話は纏まったようだ。
半ば放心状態の彼女からスマホを受け取るとバッグにしまい込んだ。
「じゃあ私まだ仕事があるから。設楽さんも元気でね」
「雫さんも…」
ありがとうが言えない位に喉を痙攣させている彼女に笑顔で別れの会釈をする。
彼女は私にも深々と頭を下げ、そして私の姿が見える限り、ずっとその姿勢を保ち続けていた。
これで本当に、加納省吾のメールから始まった依頼にかかる『事件』の全てが畳まれたのだった。




