第拾漆章
静かな午後だった。
雲は分厚く、空を覆い隠し、街の明かりすら早くともり始めていた。
主人公はビジネス街を歩いていた。就業時間前、訪問先の会社へ向かうふりをして。
その歩みに迷いはない。だが、心はふと、今日という日付に目を向ける。
――一年前の今日、最初の計画が練られた。
親友が、あの夜、大学の屋上から落ちた日。
いじめの証拠はなかった。目撃者も、遺書もない。ただ“自殺”として処理された。
(あのとき、あの人はなにを思って落ちたのだろう)
誰にも知られることのなかった問いが、主人公の中で冷たい形を取っていた。
それを追うように、一歩一歩、確信へと踏み込んでいった一年。
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駅前の雑居ビルに入り、五階のカフェへ。
時間調整という名の無意味な滞在。客は少なく、窓際の席に座ると、外の景色が反射で見えた。
――視線。
鏡のようにガラスに映る誰かの視線。
背後のテーブルには、見覚えのない若い女がひとり。
スマートフォンをいじるふりをして、彼女の動きを観察する。
何かが“普通”ではないと、直感が告げていた。
(警察……ではない。だが、誰かの“代理”か)
再び、あの警官の言葉が脳裏に蘇る。
「あなたみたいな人が、“誰か”だったとしても、誰も気づかない」
裏を返せば、気づいた者がいれば、それは“本物”だ。
女が立ち上がり、出口の方へ歩き出した。すれ違いざま、一言、囁く。
「……あなたのこと、知ってる」
主人公は表情ひとつ変えなかった。
だが、心の奥で、何かが確実に軋んだ。
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その夜。アパートに戻った主人公は、ノートPCを開いた。
過去に保存していた大学時代のグループチャットを読み返す。
親友が、最後に発言をした日。――いじめた5人に囲まれた、その前の日。
何気ない一言が、そこに残されていた。
「おれ、たぶん、みんなに嫌われてるなって思ってたよ。ごめん、変なこと言って」
たったそれだけ。
だが、その“変なこと”に気づいた者は、ひとりもいなかった。
気づいていた者すら、沈黙した。
――だから、あの夜、彼は飛び降りた。
誰も彼を助けなかった。
誰も、名前を呼ばなかった。
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数日後、主人公は退職届を提出する。
机の中を空にし、誰とも話さずオフィスを出る。
エレベーターの中で、一人だけ顔見知りの社員と目が合った。
「あ、やめるんだ?」
「ええ……まあ、ちょっと事情があって」
「……なんか、君って、たまに“消えそう”な感じするよね。昔の誰かに似てる気がする」
その言葉が、喉元に鉛のように沈む。
昔の誰か――それは、もしかすると、あの親友のことかもしれない。
だが主人公は笑わない。頷きもしない。
ただドアが開くのを待って、一歩外に出る。
――過去は、背後にしかない。
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帰宅後、テレビがついていた。ニュースでは、再び山中での事件が報じられていた。
「焼けた建物跡から、新たな骨片が……」という内容。
いまだに事件の全容は解明されず、警察も情報提供を呼びかけている。
画面越しに、主人公は目を細める。
そこに写るのは、火に包まれた山の廃墟。
そして、最後の一人を終えた、あの夜の記憶。
「……だれのための、赦しだって?」
小さく呟いた声は、誰にも届かない。
だが確かに、その言葉は、彼の奥底で、何かを締めつける。
赦しは求めない。
だが、終わらせるためには、まだ“続き”が必要だ。
窓の外を、パトカーのライトがかすめていった。
音はない。
ただ、次に近づく“音のない足音”だけが、彼の中で鳴り響いていた。




