第拾伍章
深夜二時。
街は眠りに落ちていたが、地下鉄の最終便が通り過ぎたあとも、主人公は駅前の防犯カメラの死角に立ち続けていた。
ここでは名前も過去も意味をなさない。
社会に溶け込むことをやめた人間が唯一持つのは、“次にどこへ行くか”という選択だけだ。
だが、彼にとってはその選択すら、すでに終わった復讐の延長線上にある。
――生き延びること。それが、“赦し”ではなく“証明”になるのだ。
ふと視線を上げると、向かいのコンビニの前に若い男が立っていた。
サラリーマン風だが、何かを探るような目をしていた。
(……見たことがある)
胸の奥で、かすかな警報が鳴る。
人違いかもしれない。だが、その“かもしれない”は過去に何度も命を左右してきた。
そのまま背を向けて駅の構内に入る。
無言のままエスカレーターを下りながら、鏡面パネルに目をやる。
――ついてきている。
距離を保ち、あからさまではないが、確かに“それ”は後ろにいた。
足音のリズムが、主人公の歩調にわずかに同期していた。
•
「――あんた、七尾悠を知ってますか」
無人のベンチ。
主人公が振り返ると、背後の男はその名を口にした。
名前は出さないはずだった。
けれど、誰かが今、明確にその名前を掘り起こした。
「大学で少しだけ関わりがあった。あの事件、どうもおかしいと思ってて」
主人公は答えない。
ただ、表情ひとつ動かさずに男を見つめた。
「加害者が全員死んでる。しかも……“君”の周囲から順番に消えてる。気づかないほうがどうかしてるだろ」
「……偶然だ」
「偶然? 五人だぞ。誰が信じる」
男の目は、真実を確かめに来た者の色をしていた。
軽薄なジャーナリズムではない。これは、疑念と怒り、そしてどこかに“正しさ”を求める者の顔だ。
「俺は、誰にも言わない。言うつもりもない。ただ――確認したかった。それだけだ」
主人公は、その言葉の中に“本音”を探った。
言わない? 本当に?
男の手の震えは、感情の昂りを抑えきれないことを示していた。
理屈ではなく、“倫理”に火が点いた人間は、時として最も危うい。
秘密を知ってしまったその瞬間から、彼は“選別”される立場になった。
「……君は、何を望んでここに来た?」
「赦しがほしいんだ」
その言葉に、主人公の瞳がわずかに動いた。
「七尾が死んだあと、何もできなかった自分が許せなかった。俺は何もできなかった。だからせめて……君を止めたかった」
赦しを求める者に、赦しを与える権利はない。
ましてや、“赦し”を自分の感情の救済に使う者に、主人公が心を動かすことはなかった。
「その“赦し”は、誰のためだ?」
その言葉に男は答えられなかった。
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翌日、その男は失踪した。
警察は動かない。ニュースにもならない。
ただ、ひとつの匿名掲示板で、小さな書き込みが残された。
『真相に触れた男が消えた。これは偶然じゃない』
だが、その声はすぐに埋もれていく。
真実を語ろうとする者がいなくなったとき、世界は沈黙を選ぶ。
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それから数日後。
とある地方都市のカフェで、ノートパソコンを開いている一人の男がいた。
彼は画面に映るニュース映像に目を止める。
『昨年から続く一連の不審死について、警察は依然として犯人の手がかりを掴めていない模様です』
通行人の誰もが、そのニュースに無関心な様子で通り過ぎていく。
男はホットコーヒーをひとくち飲み、ゆっくりと口角を上げた。
画面の中で報道される犯人像は、どれも“仮説”に過ぎない。
彼の顔がその中に映ることはない。
赦される必要などない。
必要だったのは、ただ果たすことだけだった。
そしてそれは、もう果たされた。
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コーヒーが冷めかけたテーブルに、ひとつの小さなメモが置かれていた。
《次は誰が赦されるのか》
男はそれを見つめながら、再び街に紛れ込んでいった。