シーン6局面
シーン6 局面
染矢が万智子の棲家、麻布十番に向かっていると携帯電話が振動した。染矢のスーツの胸元にチラリと視線を送った万智子と、染矢の視線が合って万智子は微笑みを返す。そしてドア側に置いてあったセリーヌのバックに手を伸ばし、Bose QuietComfort Ultra Earbuds LE ・完全ワイヤレス ノイズキャンセリングイヤホンを取り出して、右耳を傾けると左手でイヤホンを差し込み、同じ仕草で右耳には左手でセットすると、左手首のapple watchを操作して音楽を聴き始めた。
その身のこなしの艶麗さに魅入っていた染矢は、万智子は動作で“聞いてない““知らない“と知らせたのだとわかった。万智子はそういう気遣いのできる女だった。行動には人柄が出る。柄は人となりを雄弁に語る。そしてそれを見る側は選択する、好ましいか否かと。人間とは勝手なものだ。逆を言えば人の心象はコントロール可能で、いくらでも、どうにでもとなるという事で、一皮では足りない世界で生きる染矢は、それを熟知していた。染矢が育った環境は、第六感とも言える染矢の嗅覚を育てもした。
助手席に座る染矢の腹心・椎田は振り返って染矢の顔を見ていた。
一方、運転席の若竹は大好きなマイケル・ジャクソンに合わせて、いつものようにビートに合わせて首を振っている。情報漏れを防ぐ為に染矢は自分が乗車している時、若竹にヘッドフォンを付けさせていた。耳には心がある。心があるから聞き取った情報を無意識に思考する。律していなければ思いと考えに欲望は左右される。どうみても至誠心の無い若竹を染矢は信用していなかった。
椎田のまなじり涼やかな目を見た染矢は、椎田が振動音の差別化に気づいているとわかった。舌打ちしそうになる。腹心といえど、誰よりも使えるとわかってはいても、椎田だろうが、かん子だろうが、誰であろうが、染矢は自分の行動パターンや癖、好みを知られるのを何よりも嫌っていた。振動音を変更する事と頭に刻んで、染矢が通話をオンにする。「はい」と応じた途端に、「わてや、今井に逮捕状が出た。罪状は脱税や。機動隊が自宅を囲んでらしい。行って状況を納めてくれるか」と言ったかん子の声が、やけに冷静なのが気になりつつも「承知しました。代行、事と次第によってはどうなるかわかりません。私が帰るまで本家から出ないで頂たく」と染矢が言うと、笑うかん子が「わかってる。心配せんでも大丈夫や、わてはここから動かん」と言った。
それでも染矢は本部長の難が代行に飛びかねないと考え「約束ですよ、代行」と言わずにはいれなかった。電話を切った染矢の顔つきが青く、険しくなったのに気づいた万智子は「ねえ、ここで降ろして、若竹さん。パンを買って帰るから」と若竹の左肩をトントンと叩き、「あっ!はい!」と言うや急ブレーキを踏んだ若竹を染矢は気に入らず、気づいた時には運転席の背を蹴っていた。運転席もろともつんのめった若竹が「すみません!」と張り上げる。椎田が「染さん、私からの言い聞かせが足りませんでした。すみません」と言い、運転席から降りた若竹が万智子がわの後部ドアを開け、こんな時だけ迅速な若竹の小狡さに染矢は「あべこべな奴」と呟く。
その間に万智子は車から降り、窓越しに「染矢、またねーー」と手を振る。染矢は電話すると右手を右耳にかざそうとしたが、車が走り出して中途半端になった。
事のタイミングをズラす若竹の持っていなささはなんなのだろう。そもそも持ってない奴は厄介事を招き入れる。私は悪くありませんと平気で言う。誰々さんがと他人の名を上げて言い訳したりもする。結局は向いていないのだ。最下層の末端に飛ばすか、汚れ仕事の道具として使うしか無い。・・・いや、・・・中途半端な始末しか出来ず・・・結局は露見させるのが関の山だ。・・・不良でしかない甥っ子を引き取った代行も・・・口添えしてケツを拭こうとする椎田も古い。無作法とわかっているから下には預けられず、目の届くところに置いときたい代行の気持ちはわかるが、若竹は本家の器ではない。主線だからこそ阿修羅道を歩く覚悟と、運を持っていなければならないのだ。染矢は若竹の後頭部を睨みつけたまま「今井本部長の本宅に向かえ」と言った。
ダンボールを持った捜査員が出入りする玄関を抜け、応接間へと続く廊下で4課の内藤に呼び止められた染矢が、どこの誰が出張っているのか聞き出していると、駆けつけたのであろう赤松が廊下に入ってきた。赤松は染矢を見ようとはせず、ガン無視ですれ違い、染矢は赤松の身体に纏わりついたDIORの香水に顔をしかめ、お前は兎かよと思う。その顔を見た内藤が「もう3〜4年、お前ら仲違いしてるよな?」と言い、「ああ」と短く答えた染矢に、内藤は「今回のこの件、タレコミがあったんだよ」と耳打ちした。染矢が「どの話だ?」と聞く。「今井が管理しているマネーロンダリングの裏帳簿のコピーが、警視庁に送られてきた」、「なんだって!」と染矢は言ってしまっていた。周りに鋭い視線を走らせた内藤が「声落とせ。本物かどうかはこれからだ。経済班主導のガサだ」と囁く。
「どうなってる」と呟いた染矢は視線を上げ「どの裏帳簿なのか、わかってるのか?」と聞く。内藤は「不動産屋」と短く答え、染矢は眉を顰めた。コロナ以降、都内の不動産は高騰している。取引件数も増え、おのずと組のフロントと不動産屋の取引も増え、今では屋台骨となるしのぎの一つになっていた。今井本部長は大河原組本家の金庫番だ。コピーが本物であれば害は本家まで及ぶ。
ふと染矢の心に不安がきざす、さっき高橋は…代行に組を畳むつもりかと…聞いていた。代行が……!!!使用者責任で懲役を打たれる覚悟か!!…。……、違う。代行じゃ無い…あの人は狭いところが苦手だ。ならば…誰が……、何処から漏れた…⁈
「うちの上が赤松と繋がるか、この件を調べろと言い出した。だから俺がここにいる。今井は今日中に引っ張られるぞ。経済班は保釈させないつもりでいる。準備しとけ」と内藤が潜めた声で告げた。
染矢は半歩前に出てスゥーと細めた目で中庭を見た。ソメイヨシノが咲き誇っていた。「どうしておたくの上は赤松の名を出したんだ?」と聞いた染矢に、「知らねえよ」と言った内藤も庭を眺め始め、染矢はソメイヨシノに視線を置いたまま「調べてくれないか?」と内藤に頼む。意味ありげな目で自分の横顔を見た内藤に、染矢は「なんだ?」と聞く。「そろそろ昇進したいんだ。手柄をな」と内藤が言う。「わかった」と返して染矢はその場を離れた。
電話で椎田を呼び出し、椎田を今井の家に残して染矢は本家に戻った。