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骨の髄まで  作者: 國生さゆり


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14/40

シーン14 微笑む赤松


ここは。


是枝の。


セーフハウスだった。


合板の応接テーブルを挟んで。


三人掛けソファの中央に。


赤松は座っている。


穏やかな。


面差しだった。


胸中に。


塩辛い因果を。


渦巻かせながら。


赤松は。


微笑んでいた。


上着の内ポケットへ。


手を入れる。


取り出したのは。


一枚の紙。


「これ」


テーブルへ。


置く。


婚姻届だった。


記入済み。


時子の顔に。


歓喜が迸る。


「半年やったかな」


赤松が言った。


「そしたら。受理されるらしい」


婚姻届を。


指先で。


軽く押す。


「それまで。時子さん。あんたが持っといてや」


低い声だった。


聞いている方が。


息苦しくなるような。


重苦しく感じるような。


喉の渇きを覚えるような。


生真面目な男の低音。


それなのに。


赤松の面差しは。


穏やかで。


男前で。


見る者を。


魅了してやまない。


時子は。


トロンとした目で。


その顔を見つめた。


そして。


思った。


――どうして。


――あの時。


――赤松を選ばなかったのだろう。


     *


時子が。


是枝と知り合った時。


赤松も一緒だった。


是枝の運転する車が。


自転車に乗った時子と。


接触事故を起こした。


是枝は。


時子に。


一目惚れした。


入院している時子を。


毎日。


見舞った。


最初の頃は。


赤松も一緒だった。


けれど。


時子を赤松に取られるのではないかと。


邪推した是枝は。


そのうち。


一人で。


病室を訪ねるようになった。


花を持って。


果物を持って。


あれこれと。


手を尽くして。


口説いた。


それでも。


安心できなかった。


最後は。


平凡な男の仮面を。


剥ぎ取った。


犯すように抱いて。


時子を。


我がモノにした。


「ヤクザだ」


そう明かした。


「俺の物にならなかったら。殺す」


泣く時子を。


説き伏せた。


怖かった。


逃げたかった。


けれど。


そんな凄みに。


時子は。


胸キュンした。


こんなにも。


自分を欲しがる男がいる。


それが。


心地よかった。


けれど。


是枝を。


愛したわけではない。


愛されている。


それに。


満足しただけだった。


是枝が欲するほど。


時子は。


是枝を愛してはいなかった。


是枝を。


おびただしい浮気へ。


走らせたのも。


そんな時子の胸中に。


薄々。


気づいていたからなのかもしれない。


歪な。


一方通行の愛に。


是枝は。


壊れた。


時に。


愛は。


誤解から始まる。


時に。


愛は。


人を窒息させる。


     *


是枝が死んでも。


時子に。


情は。


湧かなかった。


なぜなのか。


考えてみれば。


答えは。


簡単だった。


金。


待遇。


姐と呼ばれる。


立場。


浮気を繰り返す夫を。


寛容に許し。


受け入れてみせる。


そんな自分への。


周囲の評価。


姐という立場が。


もたらすものが。


好きだった。


けれど。


そんな自分を。


恥ずかしいとは思わない。


だから。


是枝の思いを。


踏み躙ることもできる。


今になって。


後悔することもできる。


――あの時。


――やっぱり。


――赤松を選べばよかった。


     *


「お葬式が終わったら……」


時子が。


甘えるように。


赤松を見る。


「相談に行こうかと思っていたのよ」


艶めかしい。


女の声だった。


「これから。どうすればいいか……分からなくって」


赤松も。


熱を帯びた目で。


見つめ返した。


「そういえば」


微笑む。


「三ヶ月前やったかな」


「……」


「是枝さんが溜め込んでる金は。二十四億」


時子を見る。


「からくりやら。何やら。一切合財」


一拍。


「教えてくれたんは。時子さんやったな」


「……うん」


時子は。


頷いた。


その時。


胸の奥に。


小さな違和感が。


生まれた。


婚姻届を。


出したばかりなのに。


赤松は。


金の話をしている。


その違和感を。


時子は。


無視した。


「約束通り。あんたのことは。これから俺が守る」


赤松が。


誠実に言う。


「是枝組は。俺の配下に置く」


「……」


「先の話。しよか」


その声。


その目。


その語り口。


半年前から始まった。


赤松との逢瀬を。


時子は。


思い出した。


はしたなく。


身体が。


熟れた。


それでも。


時子は。


涼しい顔をしている。


「すぐでなくても。いいでしょう」


「……」


「代行ともお話してねぇ。執行部の皆さんに。これからの私の立場をね。言い付けてもらってからにしたいの」


そして。


あっけらかんと。


「何か食べに行かない?」


「そやな」


赤松が。


頷く。


「行こか」


微笑んだ。


時子の胸が。


緩む。


突然。


赤松が。


時子を。


見つめ貫いて。


破壊的に。


はにかんだ。


「うんん」


時子の喉から。


女の。


上滑った声が出た。


どうしたの。


そう尋ねるように。


首を傾げる。


赤松は。


恥ずかしそうに。


下を向いた。


「……時子さん」


「なぁに?」


「うちへの振り込み」


言いにくそうに。


口元を歪める。


「約束通り。今。してくれへんかな」


「今?」


「ちょっとピンチで」


きまり悪そうに。


呟く。


「不渡り。出しそうなんや」


時子は。


笑った。


「しょうがないな」


その声には。


もう。


妻の響きがあった。


「これからは。私が管理するから」


その瞬間。


水沢が。


進み出る。


平伏した。


「よろしくお願いします!! 姐さん!」


這うように。


通帳と。


印鑑を。


差し出す。


時子は。


慣れた手つきで。


受け取った。


スマホを。


操作しだす。


「まずは。三億でいいかしら」


是枝組が管理する口座から。


金が。


動いた。


「後で。取引先の帳簿も見せてね」


スマホを閉じる。


「処理しときます」


通帳と。


印鑑を。


シャネル23Aのハンドバッグへ。


収めた。


赤松は。


それを。


見届けた。


「これで」


微笑む。


「あんたは。俺のもんや」


ぷるりと。


時子の官能が。


震える。


「代行に」


赤松が続ける。


「是枝組の後目は。青木に譲ると。時子さんからも言ってや」


「……え?」


「月々の手当は」


優男の。


口利きで言った。


「二十万くらいで。ええかな?」


時子の顔が。


止まった。


「な」


「何っ!! 言ってんの!!」


声が。


裏返る。


「た、たったの!! 二、二十万!!」


赤松は。


微笑んでいる。


「約束が違うわ!!」


時子が。


金切り声を上げた。


「何も不自由は!! させないって言ったじゃない!!」


赤松は。


答えなかった。


ふと。


振り返り。


水沢へ。


頷いた。


水沢が。


廊下へ出る。


隣の部屋へ。


「おーーい」


呼び掛けた。


     *


青木だった。


是枝夏生の右腕。


是枝組若頭。


青木修二。


そして。


その右手には。


若竹がいた。


ズタボロだった。


青木に。


引き摺られている。


時子は。


言葉を忘れた。


時を忘れて。


青木を見る。


青木も。


時子を見ていた。


爬虫類のような。


目。


感情の抜け落ちた。


体温の感じられない。


瞳孔の狭い目。


そんな目で。


時子を。


射抜いた。


青木は。


おもむろに。


左手に持っていた。


ジョウロを。


若竹の口へ。


突っ込んだ。


中身を。


ゆっくりと。


流し込んでゆく。


コンクリートだった。


若竹の身体が。


跳ねる。


喉の奥から。


濁った音が。


漏れる。


時子の顔から。


血の気が引いた。


赤松は。


笑っている。


時子の背筋が。


凍ってゆく。


それを。


存分に。


楽しみながら。


赤松は。


「やる時は。徹底せなな」


聞こえるような。


聞こえないような。


声。


「舐めた口を。聞くもんやから」


微笑む。


「後ろ盾の亭主が。死んだんやから」


また。


微笑む。


「しゃあないな」


言葉でも。


時子を。


刻む。


ヤクザである。


ヤクザなのだ。


その道の。


純粋培養の。


サラブレッドなのだ。


タイミングも。


言葉のチョイスも。


間違えたりしない。


     ★


時を失った。


時子の目先で。


若竹が。


奇妙な音を立てながら。


三杯目のコンクリートを。


飲まされていた。


時子を。


観察していた。


赤松の目が。


スゥーと。


細くなる。


「人間の口はな」


笑った。


「なんとでも。いくらでも」


時子を見る。


「なんだって。言えるんやで」


一拍。


「時子さん」


血の気の引いた。


時子の目が。


吸盤のように。


赤松へ。


吸い寄せられる。


赤松は。


その目を。


真っ直ぐ。


受け止めた。


「愛してるよ」


真摯だった。


声も。


顔も。


実直を。


絵に描いたような。


男だった。


「お前を。側に置いておきたい」


囁く。


「いつでも。お前は俺を滾らせる」


「……」


「この気持ちは。本物や」


「……」


「お前を。俺のもんにしたい」


そして。


少し。


寂しそうに。


「もう。離れるのは嫌や」


水沢が。


馬鹿ウケして。


笑い出した。


赤松は。


水沢を見もしない。


時子だけを。


見つめている。


「俺はな」


意地の悪い。


声に変わる。


「うちのモンに。あんたを付け狙わせて」


「……」


「引きこもりにすることだって。出来るんやで」


時子の唇が。


震えた。


「それに」


赤松が。


微笑む。


「あんたが消えても」


「……」


「世間様には。青木が。寝込んでますと説明すれば。済む話なんや」


水沢が。


まだ。


笑っている。


そのまま。


時子の前へ。


進み出た。


ファイルを。


差し出す。


時子は。


反射的に。


受け取った。


その瞬間。


水沢が。


身を翻しつつ。


時子の膝にあった。


ハンドバッグのチェーンを。


引いて。


するりと。


手元へ。


収めた。


時子は。


ファイルを抱えたまま。


きょとんとしている。


赤松は。


それを見て。


呆れた。


こんな時でさえ。


与えられることに。


慣れきっている。


「めくってみ」


アゴで促した。


時子がファイルを開く。


青山にある。


是枝の自宅。


組事務所。


ハワイ。


軽井沢。


二つの別荘。


愛人との密会用に使っていた。


二つのマンション。


いくつものフロント企業。


法人名義の口座。


是枝の個人口座。


その諸々の。


名義変更。


そして。


青木へ。


譲渡するための。


書類。


時子は。


紙面を見つめた。


「青木」


赤松が呼ぶ。


青木は右手から。


使い捨てのビニール手袋を外し。


ゆっくりと。


椅子の背に掛けてあった。


上着へ。


歩み寄った。


右ポケットへ右手を入れる。


出てきた掌には。


三つの。


実印。


時子の目が釘付けになった。


「……金庫の番号」


呆気に取られた。


声。


「知っていたの?」


場違いな


声。


青木は。


冷め切った目で時子を見る。


「ほんの少しで。よかったんです」


無味無臭。


人畜無害の。


声だった。


「オヤジを。大切にしてくれていたら」


「……」


「こんなことは。しなかった」


実印を時子の前へ置く。


「サインしてください」


青木は。


是枝の無念を。


知っている。


――俺には。


――もったいない。


常々。


そう口にしていた。


青木は。


是枝の一途を知っている。


     *


時子は。


サインした。


一つ。


また。


一つ。


自分のものだと。


思っていたものを。


自分の手で。


手放してゆく。


すべてを書き終え。


虚ろな目で青木を見上げた。


赤松が冷笑する。


「俺らの恐ろしさが」


「……」


「骨身に沁みたようやな」


「両手。上げて」


「……」


「ジョウロに触れ」


冷酷な声だった。


時子は頷いた。


青木が。


ジョウロを差し出す。


時子が触れる。


水沢が撮影を始める。


言われるまま。


時子は。


若竹へ。


馬乗りになる。


その首へ手を掛けた。


絞める。


若竹の身体が。


わずかに跳ねた。


乱れた。


衣服を整えた。


「頭を振れ」


青木が指示した。


時子は頭を振る。


DNAを付着させるためだった。


「もっと」


時子が髪を振り乱す。


「振れ」


馬鹿みたいに。


何度も。


何度も。


青木は。


その姿を見ていた。


そして泣いた。


是枝を思って泣いた。


水沢は。


何も言わず。


泣いている青木の手へ。


時子のハンドバッグと。


スマホを握らせた。


     *


時子は。


床に座り込んでいた。


テーブルの上に。


婚姻届が。


残っている。


さっきまであれ一枚で。


人生が。


変わると思っていた。


赤松も。


婚姻届を見る。


そして。


時子を見た。


穏やかな。


男前の見る者を。


魅了してやまない。


その顔で微笑んだ。


     *


この日から。


時子は。


この部屋で暮らした。


是枝の葬式には療養中として参列しなかった。


青木は。


是枝のようには甘くない。


小遣いなど渡さない。


そして二度と時子には会わなかった。


時子は組が招いた。


賓客のおもてなし係となった。



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