シーン14 微笑む赤松
シーン14 微笑む赤松
ここは是枝のセーフハウスだった。合板の応接テーブル越しに3人掛けソファの中央に座る赤松は、心情に塩からくも渦巻く因果に隠し、加虐を発動させながら上着の内ポケットから婚姻届を取り出すと「これ」と言ってテーブルに置いた。記入済みに歓喜の時子が迸る。
「半年やったかな、そしたら受理されるらしい。それまで時子さん、あんたが持っといてや」と言った赤松の声は聞いている方が息苦しくなるような、重苦しく感じるような、喉の渇きを覚えるような生真面目な男の低音だった。そんな声色で話しておきながらも赤松の面差しは穏やかで、男前で、見る者を魅了してやまない顔つきで、その顔をトロンとした目で見つめる時子は“どうして、あの時“と見惚れながら後悔した。
時子が是枝と知り合った時、赤松も一緒だった。是枝の運転する車が自転車に乗った時子と接触事故を起こしたのだ。時子に是枝は一目惚れした。入院している時子を毎日見舞い、最初は赤松も一緒に訪れていたがそのうち、時子を赤松に取られるのではないかと邪推した是枝は、妄想に駆られて一人病室を訪ねるようになった。あれこれと手を尽くして口説いた是枝だったが、それだけでは安心できず、最後は平凡な男の仮面を剥ぎ取って犯すように抱いて時子を我がモノとする。
抱き潰して「ヤクザだ」と明かし、「俺の物にならなかったら殺す」と真に迫った言い方をして泣く時子を説き伏せ、時子は時子でその凄みにキュンとして、是枝から差し出された愛に頷いた。しかしそれは“愛されている“に満足しただけの承諾で、時子は是枝が欲するほど是枝を愛してはいなかった。是枝を帯びただしくも散々たる浮気に走らせたのも、そんな時子の胸中に薄々気づいての事だったのかもしれない。歪な一方通行の愛に是枝は壊れたのだ。時に愛は人の心を惑わせる誤解から始まる。
時子は情というものが是枝のそばにいても湧かなかった。是枝か死んだ今、なぜだろうと考えれてみれば是枝がもたらす金であり、待遇であり、姐と呼ばれる立場であり、浮気を繰り返す夫を寛容に許して受け入れて見せる自分への評価が気持ちよかっただけで、何もかもが愛じゃなく嫁という立場が心地良かっただけで、されど時子はそんな自分を恥ずかしいとは思わない厚顔の持ち主で、だからこそ是枝の思いを踏み躙る事ができ、故に赤松と対等に話が出来る自分を自賛する余裕を持っていて、あの時やっぱり赤松を選べば良かったと後悔できるのだ。
そんな時子が「お葬式が終わったら…、相談に行こうかと思っていたのよ。これからどうすればいいか…、わからなくって」と甘えるような艶かしい女の声で赤松を見つめ、赤松は熱を帯びる目でその目をみつめ返し「そういえば3ヶ月前やったかな、是枝さんが溜め込んでる金は24億で、からくりやら何やらの一切合財を教えたのは時子さんやったな。約束通り、あんたの事はこれから俺が守るし、是枝組は俺の配下に置く。先の話しよか」と誠実に語り、その声色と語り口調に半年前から始まった赤松との合瀬を思い出し、時子ははしたなく濡らしていた。そうなりながらも時子は「すぐでなくてもいいでしょう。代行ともお話してねぇ、執行部の皆さんにこれからの私の立場をね、言い付けてもらってからにしたいの。ねぇ、何か食べに行かない?」あっけらかんと言った。「そやな、行こか」と微笑で頷いた赤松が、突然、時子を見つめ貫き破壊的にはにかむ。その表情に撃たれた時子が「うんん」と女のうわ滑った声を発し、赤松に尋ねるように首を傾げた。恥ずかしげに下を向いた赤松が「うちへの振り込みを約束通りに今してくれへんかな。ちょっとピンチで不渡りだしそうなんや」ときまり悪く呟いた。
「しょうがないな、これからは私が管理するから」と言った時子に、進み出た水沢が平伏し「よろしくお願いします!!姐さん!」と這って持参してきた通帳と印鑑を差し出す。慣れた手つきで受け取った時子はスマホを操作しながら「まずは3億でいいかしら」と言いつつ是枝組が管理する口座から金を移すと、「後で取引先の帳簿を見せてね、処理しときます」と言って通帳と印鑑をシャネル23Aのハンドバックに収めた。その様子を見ていた赤松が「これであんたは俺のもんや。代行に是枝組の後目は青木に譲ると時子さんからも言ってや。月々の手当は20万くらいでええかな?」と優男の口利きで言うと、突如の時子が「な、何言ってんの!!た、たったの!!2、20万!!約束が違うわ!何も不自由は!!させないって言ったじゃない!!」とカナギリ声を上げる。ふと振り返った赤松が水沢に頷くと、水沢は廊下に出るや隣部屋に「おーーい」と呼び掛けた。
青木だった。現れたのは時子の死んだ夫、是枝夏生の右腕で是枝組若頭・青木修二だった。青木は右手でズタボロの若竹を引き摺ってもいる。その登場に時子は言葉を忘れ、時を忘れて、見開いた目で青木を見ていた。対する青木の目は爬虫類の如き目で、感情が抜け落ちた体温の感じられない瞳孔の狭き目で時子を射抜いている。
青木はおもむろに左手に持っていたジョウロを若竹の口に突っ込み、中身をゆっくりと流し込んでゆく。コンクリートだった。笑う赤松は時子の背筋が凍ってゆくのを存分に楽しみながら、時に「やる時は徹底せなな」とか、「舐めた口を聞くもんやから」とか、「後ろ盾の亭主が死んだんやから、しゃあないな」などと、時子の耳に届くような、届かないような舌妙な音量で囁き時子を刻む。ヤクザである。ヤクザなのだ。その道のエリートなのだ。タイミングと言葉のチョイスを間違えるはずがない。
★
時を失った時子の目先で、若竹が奇妙な音を立てながら3杯目のコンクリートを飲まされていた。時子を観察していた目をスゥーと細めた赤松が「人間の口はな、なんとでも、いくらでも、なんだって言えるんやで、時子さん」と笑う。血の気が引いた時子の目が吸盤のように赤松に吸い寄せられる。その目に視線を合わせた赤松が「愛してるよ」と真摯な口調で告白する。実直を絵に描いたような面差しの赤松が時子を見つめてささやき出す。「お前を側においておきたい。いつでもお前は俺を滾らせる。この気持ちは本物や、お前を俺のもんにしたい。もう離れるのは嫌や」と。
水沢が馬鹿ウケして笑い出した。
それでも赤松は「俺はうちのモンに付け狙わせて、あんたを引きこもりにする事だって出来るんやで。それにあんたが消えても、世間様には青木が寝込んでますと説明すれば済む話なんや」と意地の悪い声で言った。笑い声を上げながら、時子の前に進み出た水沢が時子にファイルを差し出す。時子が受け取った瞬間、水沢は身を翻した。もちろん時子の膝の上にあるハンドバックのチェーンを引っ張って、手元に収めるのも忘れない。差し出されたファイルを無造作に受け取った時子はきょとんとして、こんな時でさえ与えられる事に慣れきった女かと赤松は呆れつつ「めくってみ」とアゴでも促す。
ファイルの中身は青山にある是枝の自宅と組事務所、ハワイと軽井沢にある別荘、愛人との密会用のマンション2つに、フロント企業の法人名義の口座と是枝の個人口座、そんな諸々の名義変更とその全てを青木に譲渡する書類だった。
「青木」と赤松に呼ばれた青木は使い捨てビニール手袋を右手から外しながら、ゆっくりと歩み寄った椅子の背に掛けてあった上着の右ポケットに、その手を突っ込んだ。出てきた手には3つの実印が握られていた。時子の目が青木の掌を凝視する。呆気にとられた時子が「金庫の番号、知っていたの?」と場違いな声で聞く。青木は冷め切った目で時子を見据え「ほんの少しでよかったんです。オヤジを大切にしてくれていたら、こんな事はしなかった。サインしてください」と無味無臭・人畜無害の声で応えた。青木は是枝の無念を知っている。「俺にはもったいない」と常々口にしていた是枝の一途を知っている。
サインし終えた時子が虚ろな眼差しで青木を見上げた。冷笑の赤松が「俺らの恐ろしさが骨身に沁みたようやな。両手を広げてジョウロに触れ」と冷酷に言うと、時子は頷くや青木が差し出したジョウロに触れた。その様子を水沢が撮影し始め、言われるがままに馬乗りになった若竹の首をしめ、乱れた若竹の衣服を整える時子に、青木が「頭を振れ」と指示した。DNAを付着させる為だった。
馬鹿みたいに髪を振り乱して頭を振る時子を見て、青木は是枝を思って泣いた。水沢が泣く青木の手にハンドバッグと時子のスマホを握らせる。
この日から時子はこの部屋で暮らし、もちろん青木は時子に対して是枝のように甘くはなく、小遣いなんてモノは渡さず、是枝の葬式には療養中として参列させず、2度と会わず、組が招いた賓客のおもてなし係としている。