第五章⑨
「なぁ、ユウ」
八月十二日、今年何度目かの朝から猛暑の水曜日。
朝食後、ユウが暑さに猛然とうんざりしながら洗面所で歯磨きをしていると鏡の自分の背後にジンロウの姿が映った。洗面所の戸口にジンロウが柱にもたれるようにして立っている。寝癖とうっすらと生えている無精髭のせいで、朝のジンロウは通常よりもワイルドに見える。よれよれの深緑色のタンクトップを着ているから鎖骨部分の凹凸と締まった肉体がハッキリと確認出来た。思春期のユウはそういうのに少し敏感になっていたし、歯磨きの途中は覗かれたくないなと思った。
「ちょっと聞きたいことがあるんだ」鏡の中のジンロウは腕を組む。
「え、ちょっとまっへよ」ユウは歯磨きのスピードを速め、コップに水を注いだ。がらがら、ぺっと口を濯いでからタオルで口元を拭いてユウは振り返る。「……何?」
「シノブ君のことなんだけど」
ジンロウは深刻そうな表情を作り洗面所に入ってきてユウの傍に立った。ユウはジンロウの過度な接近が嫌だったので手を伸ばして距離を取る。ジンロウはユウの手の平の先で立ち止まり、やっぱり深刻そうに息を吐いた。目の下にはうっすらと隅を確認。そう言えば、なんとなく、直近のジンロウは元気がないな、とユウは思った。「シノブ君が、どうしたの?」
「シノブ君ってさ、本当に髪切ったのかな?」
「はあ?」ユウは質問の意図が分からなくてジンロウを睨み見た。「シノブ君が髪を切ったのかって?」
「うん、シノブ君、髪切った?」
「いや、切ってないっしょ、」ユウは朝食時に向かいに座って納豆をかき混ぜていたシノブを思い出しながら首を横に振った。「何も変化ないじゃん、ちーちゃんが髪を伸ばせって命令してから髪は切ってないっしょ?」
「やっぱりそうだよなぁ」ジンロウはなにやら難しい顔をして顎をさすっている。
「そうだよ」
「でも、シノブ君がさ、この辺を透いたって言うんだよ」ジンロウはユウの後頭部を触った。
その触り方がなんだかとても嫌でユウは「ぎゃ!」と悲鳴を上げジンロウの手を叩いた。「ぎゃあ、キモい! 触るなよっ!」
「……あ、すいません、」ジンロウは悲しげな眼差しをユウに向け、うっすらとピンク色になっている手の甲をさすっている。思いの他、強く叩いてしまったらしい。「ごめんなさい、ユウさん、その、許して下さい」
「別にいいけど、」ユウは腕を組み、口を尖らせる。「その、ユウさん、ってなんなのさ」
「ユウさんの見立てでは、シノブ君のこの辺、」ジンロウは自分の後頭部を触り言う。「透いた感じありますか?」
「シノブ君がそう言ったの?」
「ええ、はい」
「うーん、」ユウは二秒目を瞑り悩む素振りを見せた。でもユウの見立てに変化は訪れない。どう見たってシノブの髪に変化はないからだ。ユウはシノブのことに少なからず関心があるので、髪の毛の些細な変化を見逃すほど愚かじゃない。髪のボリュームの減りに気付かないようなら、ユウはシノブのファンを止めてしまうことでしょう。「とにかく僕はシノブ君は髪切ってないと思うけど」
「やっぱりそうだよな、」ジンロウは額に手をやり目を瞑った。「やっぱりどう見ても切ってないよなぁ」
「切ってないよ」
「切ってないのにどうして切ったなんて言ったんだろう?」
「どうしてシノブ君はジンロウにそんな嘘を付いたわけ?」ユウは手の平を天井に向けて首を竦めた。
「え、俺、シノブ君に嘘付かれてるの?」ジンロウは目を見開いて苦笑する。
「そうでしょ、違うの? 嘘付かれてるんじゃないの?」
「えっと、」ジンロウは苦笑を消去。「いや、……多分、そんな気がしてた、ああ、でも、それじゃ、……俺の二万は」
「ジンロウの二万?」
「ああ、俺の二万だ」
「大金だね」
「日曜日の夜のことなんだけど、シノブ君、美容室に行くからって、二万ちょーだいって言われて、二万渡したんだけど」
「二万円も美容室で使ったら、」ユウは首を斜めに傾けて言う。「その、色々もっと、変わってると思うぜ、色も長さも形も何もかも、髪の毛透くだけにそんなにかからないもの」
「そうだよなぁ」
「うん、そうだよ」
「じゃあ、日曜日の夜、どこに行ってたんだろう?」
「シノブ君、日曜日の夜にどこかに出掛けてたの? 二万円持って?」
「うん、そうそう、二万持って、一人で」
「一人で?」
「美容室じゃなかったら、どこに行ってたんだろう? そう考えると夜も眠れなくってさ、ああ、」ジンロウはユウに滅多に見せない狼狽した表情を見せ、頭を抱えた。「ああ、ユウさん、俺は一体どうしたらいい?」
「うーん」ユウは小さく唸って腕を組み直し考えた。
これは危機かもしれないと思いました。
いわゆる破局ってやつの前触れか?
日曜日の夜に二万持って一人で出掛けて嘘付くなんて、その予兆ですか?
中学生の僕に大人な二人の細かいことは分かりませんが。
まあ、でもそれって。
兄貴の問題なので。
お姫様的に言うのなら。
好きにせぇ、という感じなのでございます。
なのでユウはその気持ちをジンロウに素直に伝達した。
「好きにせぇ、好きにしたらええやろ、ジンロウとシノブ君のことなんやから」
するとジンロウは一度この世の終わり、という絶望の顔をして。
二秒間を空けて。
そして。
不穏に不気味に微笑んだ。「……放って置いていいっていうの? この問題を、難解な問題を」
「いや、だからジンロウの問題じゃないか、」ユウは口を尖らせる。「僕の問題じゃないって」
「なあ、ユウさん、本当に放って置いていいと思っているのか、ユウさん、知らぬ存ぜぬで済ましていいと思っているのか、ユウさん」
「だからその、ユウさんってなんなんだよ、なんかムカつく」
「このままもし最悪の状況を迎えた場合、ああ、恐れ多いので、具体的なことは言わないが」
「最悪って、」ユウは口を鋭く尖らせている。「ジンロウとシノブ君が破局した場合ってこと?」
「具体的に言わないで下さいよ、ユウさん」ジンロウの薄ら笑いは止まらない。
「だからユウさんってなんやねんっ」ユウはジンロウの足をソフトに蹴った。
「シノブ君と俺が破局した場合」
「言うなって自分で言って具体的に言ってるやんかっ」
「シノブ君と俺が破局した場合、その場合、シノブ君がこのまま、このままずっと枕木邸にいてくれると思うか?」
ジンロウとシノブが破局した場合。
それってえっと……。
ああ……。
深く考える必要もなくて。
「出て行っちゃうでしょうよ、ユウさん、シノブ君、出て行っちゃうんだよ、それでもいいの、ユウさん、ユウさん、シノブ君のこと好きでしょう? ユウさん、シノブ君と一緒がいいでしょ、ユウさん」
「……それ、」ユウはジンロウを睨み、彼の腕を強く叩いて言う。「卑怯やで、卑怯やないか、卑怯やんっ!」
お姫様の関西弁が、じんわりと口元に浸透して来たみたいです。
まあ、そんなことはどうでもいいとして。
僕は親指の爪を噛みました。
僕は苛々すると、親指の爪を噛んでしまうみたいです。
別に僕は。
ジンロウとシノブ君が破局しても大丈夫。
仲がいい二人が微妙になっても大丈夫。
シノブ君が僕の家から出て行っちゃうこと以外なら、きっと大丈夫。
だから僕は……。




