第五章⑧
シノブとカナデが向かったのはお店脇の路地裏に入り、五分ほど歩いた先にあるウルトラマリンという名前の五階建ての古びたホテルだった。白く塗られた外壁には無数のひび割れがあり、それらの隙間からは蔦が生え、肌に浮き出る血管のように方々に伸びていた。
ウルトラマリンの三〇五号室はビジネスホテルのシングルよりも狭かった。トイレもない。シャワールームには浴槽はなく、やっぱり狭い。二人だと窮屈だったが、この狭さには意味があるのだろうとシノブはなんとなく思った。カナデに体を洗われながらそう思った。カナデはスポンジやタオルを使わずに手の平でシノブの体を洗ってくれた。誰かに体を洗われるのって幼稚園のとき以来だよな。悪くないな、と思う。というか気持ちがよくってシャワールームの中でシノブは終始笑顔でしゃべりっぱなしだった。くすぐったい、というのも少しある。恥ずかしい、というのもちょっとだけある。
「どうしてそんなにハイテンション・ガールなの?」シャワールームから出て、カナデは自分の体を拭きながらシノブに聞く。
「カナデだってずっとニコニコしてるじゃない?」シノブはベッドの上に腰掛けカナデの裸を見つめていた。カナデの裸はほっそりとしていて無駄のない造形。肌の色は透き通った白。そこに綺麗なピンクがあたりする。
「私の場合は、」カナデはタオルを綺麗に畳みかごの中に入れ、ニコリと笑ってからシノブの隣に腰掛けた。「嬉しいから、」カナデはシノブにキスをする。ピンク色の柔らかい唇はすぐに離れて、機敏に動いた。「あ、ココってね、枕が一つしかないんだよ、ベッドも狭いし」
確かにこのベッドは二人が眠るのには狭いだろう。枕元を見ると、本当に枕は一つだけしかなかった。二人で共有しろ、ということか。もしくはどちらかが腕枕をしなくちゃいけない、ということか。しかし、対した問題じゃないと思う。きっと静かにしている時間は短いと思うから。
「寒くない、平気?」カナデはシノブの腕を抱き締めて聞く。
「寒い?」
「ううん、」カナデはこちらに体重をかけてくる。「・・・・・・ねぇ、でも、本当に、シノブ君、・・・・・・枕木君と何かあったの?」
「別に何もないよ」
「本当に?」カナデはシノブの顔を上目で見る。
「本当に何もないんだって、ただ今夜、急に女の子を抱きたくなっただけ、カナデって都合のいい女の子なんだよね、だから会いに来たんだよ、別に不思議なことは何もないよね、今夜はちゃんとお金も払ったんだし、そうだよ、お金を払ったんだからサービスしてよね、カナちゃん」
「最低、思っていてもそういうこと言っちゃ駄目だと思う、」カナデは一瞬むっと怖い顔をして片方の頬を膨らませた。怖い、と言ってもその顔には可愛らしさが溢れていたし、その顔でカナデはシノブの柔らかい部分を触ってその中心を舐めて吸った。その部分からいやらしい音が立って、シノブの口からも変な声が漏れる。勝手に出たんだ。「可愛い声で鳴くじゃないの、」カナデはクスリと笑う。「ああ、やっぱり、シノブ君って可愛い、凄く好きっ」
それからシノブは終始、カナデのなすがままに、という感じだった。
前回と一緒。いや、今回はお金を支払っているせいだろうか、カナデは凄く、激しくシノブのことを攻めてきた。信じられないくらい気持ちよくって、本当に、もぉ、破裂しそう、って思った。シノブはジンロウの二万円に、とっても複雑な気持ちで感謝した。複雑というのはジンロウに今夜がシークレットという意味もあるし、本当は今日、シノブはカナデを攻撃しようと思っていたのに、という意味もある。
それなのに、・・・・・・うん。
カナデの意のままに鳴いちゃっている。
ああ、こんなはずじゃなかったのにな。
でもまあ、そんなこと。
どうでもいいって思えるくらい気持ちよかったんだけど。
「も、もう、駄目っ、」シノブはカナデの肩を向こうに押し、大きく息を吐き出して言った。「もう駄目、もう無理、やばい、カナデ、僕、死んじゃう、死んじゃうって」
「死んじゃう?」カナデの声は甘くって意地悪だ。
カナデは指をシノブから抜いて、横にごろんとなってシノブの頭を抱き締めた。シノブの顔にカナデの柔らかい部分が密着している。カナデの心臓の音が聞こえる。この音が、生命体の躍動ですね。
「カナデの心臓の音が聞こえる」
「凄い汗、」カナデはシノブの髪に指を入れる。「嬉しい」
「何が?」
「私でこんな風になってくれるなんて、頑張ったかいがありました」
「・・・・・・くせになりそうです」シノブの声は甘くなって漏れた。自分でも、自分の声が可愛く聞こえた。勝手に可愛くなったんだ。コントロール出来なくて。ああ、柄じゃないんだけど、まあ、きっとそういう状態なんだろう。完全にカナデのペースに流されてしまっているんだ。そういう状態だって自覚している分、まだ格好は付いているかな。恥ずかしいんだけどね。本当に、恥ずかしいんだ。なんでだろう?
「くせになっていいよ、カナちゃんに依存しちゃっていいよ、奏ジャンキになってもいいよ、」カナデは嬉しそうに笑う。「シノブ君だったらいつでもOKだよ、ああ、本当に凄く楽しい」
カナデはシノブにキスをした。
最初は短いキス。
次第に激しくなって、舌が入ってくる。
呼吸が苦しくなってお互いに唇を離す。
二人とも息が荒い。
一つの枕の両端に二人の頭が乗っている。
笑い合って。
何も言わないで。
シノブはカナデの目を見た。
愛らしき目元。
うっすらピンク色の頬を指の腹でなぞって。
シノブはおもむろにカナデの額にかかる前髪に触り、持ち上げた。額が露出する。シノブはカナデの体温を感じている。暖かいと思う。カナデはじっと、真っ直ぐ、シノブの目を見続けている。
真っ直ぐに見つめてくるんだ。
すべてを僕になげうっていて。
いいや、僕だけじゃなくて。
世界中の女にきっと。
彼女は身をなげうって生きているんだ。
感じている。
僕はカナデの強さを思う。
なんて強い人。
暖かい人。
愛らしき顔。
そこに表現されている女は深く、尊く。
強さと満ち溢れたエネルギア。
ああ、本当に。
「・・・・・・んふふっ」
シノブは莫迦らしいと思って笑った。
なんて、野暮だ、と思って笑わずにはいられなかった。
「どうしたの、シノブ君?」カナデはいぶかしげにシノブの顔を覗き込んでくる。「何が、そんなに面白いの?」
「カナデのことが好きだよ」シノブはカナデを優しく抱き締めた。
「うん、分かってるよ、」カナデはニコニコと微笑んでいる。当然、そうに決まっているって思っていたみたいだ。分かっていたみたいだ。「言わなくても分かるもの、シノブ君の気持ち、よく分かるもの」
「でも僕は言葉にしたい、カナデことが大好き」
カナデは照れた風に笑って舌を見せる。「私もシノブ君が大好き」
結局、シノブはベッドの中でカナデにスズメの件を聞かなかった。それとなく本心を聞き出そうと考えていたが、そんなことは不要だとシノブには思えた。それはもちろん、確信を掴んだからだ。彼女はストーカをする人格ではないという確信だ。彼女の愛の形って捻れなんて一切なくて真っ直ぐだ。ヒステリックだって、おそらく嫉妬心だってなんだって、彼女は真っ直ぐのスピードを加速させる起爆剤に変えてしまうんだ。
エクセル・ブルーのマナミはきっと。
彼女の情熱的なストレートにビビっているんだと思いますよ。
「ふぅ、それで?」クルリと椅子を回転させてこちらを向いたチカリコの指は煙草を挟む形をしていて、もちろん煙草は吸っていないんだけど、そして露骨に彼女の表情はシノブの報告に不満そうだった。「まさか、それで終わり?」
「ええっと、はい、」シノブはにっと笑顔を作って頷いた。「それで、終わり、です」
次の日の月曜日の夕方、シノブは枕木邸の自室に、フミカの部屋で一人、ガンダムのプラモデルを作っていたチカリコを呼び出し、日曜日の夜のカナデとのことを赤裸々に話して、そう結論付けて報告したのだった。「もうこれで、その件は終わりだと思います」
「シノブ君、」チカリコは足を組み首を急な角度に傾け言った。チカリコはデスクの前のキャスタ付きの椅子に座っていてシノブはベッドに腰掛けているから自然にお姫様に見下されている。本当に、ナチュラルに、お姫様はシノブのことを見下している。「それってあなたの主観よね」
「はい、そうです」
「フーミンほど猥褻な話は好きじゃない、でも私は嫌いじゃない、けれどその夜のお伽噺をシノブ君は、」チカリコは自分の右手の爪を見ながら小さく言った。「論文に出来るかしら?」
「いいえ、出来ませんね」
「レポートとしては?」
「微妙ですね」シノブはほころんだ。
「綺麗に笑っちゃって」
「笑ってなんて、」シノブは笑顔を消去。首を横に振る。「ないです」
「まあ、自明よね」
「ええ、きちんと分かってはいるんです」
「いつの間にか敬語」
「今はそういう気分なんですよ、お姫様」
「しししっ、」チカリコは口元を手で押さえ目を狐にして笑う。「まあ、ええけど、調査は暫時的に行ってゆくさ」
「まだカナデのことを信じられないんですか?」
「そうじゃないよ、別にシノブ君に決定的なことは求めてはいない、最初からね、そう、」チカリコは自分の肩に掛かる髪を摘み持ち上げて離して踊らせている。「最初から暫時的に、おもむろに、私という人間のペースで彼女のことを知っていくつもりだったさ、當田カナデのことを私はまだよくは知らない、そんな状況では明解は出来んよね、知らない、無知というのは怖い、妙に縁を結ぶこととなる、だから私は慎重に彼女のことを知っていくつもりよ、レッツ、ビィ、フレンズ、仲良くなるよ、とりあえず、近い未来が予告できるくらいまではね、もちろんシノブ君の意見は尊重するよ、尊重する、シノブ君が予告した未来を私は大事にしたい、でもそれは結論にはしない、あらゆる支えが不十分だから結論は急がない、急がないでこうやってゆったりと椅子に座って回転するのは、この問題は今のところ急務ではないからだ」
月曜日の夜、お姫様は椅子に座ったままクルリと回転してそう言い残し、最愛のガールフレンドの部屋に、てててっという具合で軽やかに戻っていった。
独り部屋に残されたシノブに、特に不満はなかった。そのまま中世史研究にスムーズに脳ミソを移行することが出来た。全くその通りだと、思うからだ。何もかもお姫様の言う通りでシノブに異論はなかった。
そもそも最初から、シノブは感情的に主観な自分の報告をお姫様が聞き入れてくれるなんて思っていなかった。注釈も引用もない、自由気ままなエッセイというべきものだった。戯れ言に限りなく近い。むしろ戯れ言。微睡んだ戯れ言。その集合。そう思われても仕方がない種類のもの。そんなものだったのに、むしろお姫様はシノブの推理の域を出ない言説に理解をしてくれたのだ。尊重するとはそう意味だ。その取り扱いの仕方は正しい。バランスの取り方が絶妙だ。シノブだってきっと、同じような扱い方をするだろう。けれどお姫様の方が丁寧で慎重で、深く、さらに奥行きと広がりを持っている。普通の十七歳の少女には、なかなか出来ることじゃない。お姫様にはおそらく、先天的に備わっているのだと思う。高度な処理能力が確実に備わっている。だから頼もしい。安心出来る。ほっと息を吐きながらシノブはお姫様のように、風雅でありたいな、と思う。
さて、しかし……。
しかし、とは少し接続詞の誤用かもしれないが。
事態が急になる出来事が、この月曜日の夜の後に起こった。
それによって、僕たちは少し、急がなければならなくなったのだ。




