第四章②
錦景市は空は真夏の装い。遠く南西に膨らんで今にも弾けてしまいそうな入道雲。濃いブルーの宇宙の手前。それを斜めに横断する飛行機雲。
枕木フミカは自室の窓から顔を出し晴天を見上げ、それにしばらく感動してから「何かが変わりそうな空ね」なんて誰もいないのに言っちゃって、文学を気取って、錦景女子高校のセーラ服に袖を通した。
この白を基調とした紺色に縁取られた、全国的にベーシッックなセーラ服が錦景女子の正装だ。
部屋の扉がノックされる。
「準備出来た?」中島シノブの声にフミカは反応して扉を開けた。シノブはストライプが入った灰色のスーツ姿。きちんとネクタイを締めている。細い深緑色のネクタイで模様はない。「どう、似合うかな?」
「うん、」フミカは頷く。「でもスカートじゃないんだ」
「スカートはね、」シノブは苦笑しながら言う。「ステージに立つんじゃないんだから、勘弁して」
「せっかく髪も伸びて、綺麗になったのに、もったいないよ」
シノブはステージに立つようになった春から髪を伸ばしていた。ロックンローラは髪が長くっちゃあかん、とチカリコが命令して伸ばさせたのだ。シノブの髪は肩を隠すくらいまで伸びていて今はそれを後ろで一つに縛っている。
「まあ、いいじゃない、」シノブは優しい顔をしてネクタイの結び目を触る。「それにしても真夏にネクタイって苦しい」
「おーい、」階下、玄関の方から枕木ジンロウの声がした。「そろそろ行くぞ」
「はーい」フミカは返事をしてシノブの後に続いて階段を降りた。
錦景市は八月五日の水曜日。
今日は上州松平家の邸宅で会同が開かれる。毎年この八月五日の会同には松平家の親類縁者、また市議会議員や錦景市に拠点を置く企業の取り締まり役など、総勢百名以上の人間が集まるのだ。その集まりに枕木家の三人とシノブも参加する。会同中は座敷の後ろの方で佇んでいるだけだが、お姫様に招待されてしまったので行かなければならない。お姫様を大人たちの中で孤独にさせるのも可哀想だし。
ガレージに停まる紫色のムーヴにはすでにエンジンが掛かっていた。運転席にいるのはジンロウだ。一週間前に免許を取ったばかりの超初心者ドライバのジンロウだった。運転席のウインドウを下げ、自信あり気な顔をフミカとシノブに見せた。「さあ、乗って」
そんな風に格好付けるジンロウを見てフミカは不安だった。
「大丈夫かな、」シノブもフミカと同じ気持ちみたいだ。苦笑しながら助手席に乗り込んだ。「安全運転で行こうぜ」
フミカは後部座席に乗り込む。すでに妹の枕木ユウはムーヴの中にいた。ユウは膝の上に三毛猫のぬいぐるみを乗せて、やっぱりぼんやりしていた。やっぱり、というのは、あの日から、フミカとチカリコがエッチなことのやり方を教えて上げておそらくキティ・ローリングと実践したであろう、あの日から、ユウはなんだかぼんやりしてしまっているのだ。謎の猫のぬいぐるみを片時も離さずに、なんていうか、ぼんやりしている時間が多くなって、腑抜けてしまっているんだ。ユウに何があったのか、細かいことはよく分からないんだけれど、フミカはミスちゃったのかな、と思っていた。キティとは上手くいかなかったのかな、って。特別、二人が変わってしまった、ということは感じないんだけれど、それくらいしか理由は見当たらなかった。
「前から気になってたんだけど、」前でジンロウとシノブが発進の手順について口論している中、フミカはユウに聞く。「その猫の名前、なんて言うの?」
「スーベニアだよぉ」ユウはぬいぐるみの猫をいじりながら言う。
「ああ、スピッツのアルバムね、スーベニアってなんて意味なんだろう? 花の名前とか?」
「違うよ、お土産って意味だよぉ」
「へぇ、知らなかったな、でも、その猫、可愛いね」
「え?」ユウは口を尖らせて言った。「お姉ちゃん、センス悪いんじゃないの、この猫、可愛くないっしょ」
「え、じゃあ、なんで? なんでユウはスーベニアといつも一緒なの?」
「教えない」ユウはフミカから視線をぷいっと背けた。
「あらま、ユウちゃんってば、まさか反抗期?」
ユウはフミカのことを無視した。
前ではまだジンロウとシノブが発進の手順で揉めている。シノブは教習所のマニュアルを持っていて、ジンロウの駄目駄目な部分を指摘している。「ジンロウ、お前、才能ないぜ」
「ねぇ、ユウちゃんってばぁ」フミカは甘い声を出して、ユウの背中を触り振り向かせようとする。
しかしユウは振り向いてくれません。
私のユウは、素直に振り向いてくれなくって、彼女の背中はとっても反抗的なんです。
それって悲しいことです。
涙がこぼれそう。
私の瞳には事実、涙が薄く広がりました。
でもなぜでしょう?
嫌な気がしないというか。
なんだか、新しい気持ちが芽生えてしまったというか。
いい気持ちになっているんです。
とにかく。
私の胸にあるのは、今まで感じたことのない、トキメキです。
ぐにゃりと捻れてクリスタルの中で屈折して全方位に開いたような、トキメキでした。
「ユウ?」
フミカはユウの膝の上のスーベニアに手を伸ばす。
すると、ユウはフミカの手をパチンと弾きました。「これに触んないで」
「……ごめん」
フミカは叩かれた左手の甲を右手でさすりながら、自分の心に芽生えてしまった屈折した感情をどう処理すべきかと苦悩した。




