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 霧生蒼太きりうそうたは、机の上に置かれた小さな透明ケースを見つめていた。

 掌にすっぽり収まるほどの大きさのそのケースの中に、薄く光を反射する何かが静かに沈んでいる。

 透明なレンズの外縁には、微細な回路を思わせる幾何学模様が縁取られており、それが高級感とどこか近未来的な雰囲気を漂わせていた。

 見た目は視力矯正用のコンタクトレンズとほとんど変わらない。

 だがそれは、これまで物理的な制約のため不可能とされてきた――「瞼の裏に収まるサイズ」への小型化に成功した、最新式の投影デバイスだった。


 小さく息を整え、蒼太は自分の手を見下ろす。指先にわずかな緊張と期待が宿っている。


「よし……」


 囁くようにひとこと。

 ケースを開け、指先で慎重につまみ上げたレンズを、片目ずつ丁寧に装着していく。柔らかい素材が瞳に触れる瞬間の、わずかな圧迫感と、すぐに馴染んでいく感触。そこまでは普通のコンタクトを入れるときと同じだ。

 まっすぐ前を見据え、二、三度ゆっくりと瞬きをする。すると両目にひやりとした感覚が走り、涙膜から熱がすっと抜ける。微かな潤いがレンズの縁で光を撫で、視界がわずかに霞み――次の瞬間、くっきりと鮮明さが戻った。


「よし……次はこっちだな」


 蒼太は首元のチョーカーに触れる。薄い帯は肌に吸い付くように密着していて、指を滑らせると内部の微細な素子が応える。軽い振動。皮膚の温度がわずかに攫われ、そこから装置が暖機する手応えが走る。

 起動音はない。ただ、首筋の奥で神経の線が一本、静かに結線される気配。――視覚の投影はコンタクトが担当、接続と演算はこっちが握る。役割分担がからだの上で嚙み合っていく。

 視界の端に、淡く光るポップアップウィンドウがふっと現れた。シンプルなデザインの通知枠が、「同期完了」の文字と共にゆるやかに揺れている。


「同期はできてる。よしよし……!」


 蒼太は短いメッセージを確かめると、しばし動かずに待つ。

 内部処理が静かに進行し、ほんの数秒後、ポップアップがすっと消える。その瞬間、視界の中に新しい層が重なる感覚があった。現実の空間に、半透明のアイコンや文字が、ホログラムのように浮かび上がっている。

 以前使っていたメガネ型デバイス――ホログラスの操作感に慣れてはいたが、この新しい感覚はまったく別物だ。


 視線を左右に移すと、アイコンが自然に追従してくる。

 試しに手を軽く動かすと、遅延もなくメニューが滑らかに反応した。情報が視界を覆い尽くすこともなく、必要な項目だけが的確に表示される。操作感は驚くほど洗練され、直感的だった。


「最初からこんなにスムーズに動くなんて、信じられない」


 感嘆の声を漏らしつつ、視界の端にあるメニューを指先でスワイプする。アイコンやウィンドウが空気を切るように流れ、淡い光が残像となって消える。視界の隅から隅までがディスプレイになったような感覚に、胸がわずかに高鳴る。

 現実の光景と未来的なインターフェースが、違和感なく溶け合っていた。


 そのとき、手首に装着した光沢のある黒い腕輪が、小さく短く震えた。

 蒼太は視線を落とし、口元にわずかな笑みを浮かべながら指先で軽くタップする。すぐに、耳元で落ち着いたトーンのAIの声が響いた。


「連携モード、起動中です」


「ありがと」


 自然に返事をし、腕輪がコンタクト型デバイスと同期していく様子を見守る。

 次の瞬間、視界に並んでいた情報が整列し、必要なデータや通知が思考の流れに沿うように配置された。まるで自分の脳内を直接補助するために、見えない誰かが背後で作業しているかのようだ。


「さて、他にはどんなことができるかな?」


 蒼太は興味をそそられるまま、いくつかのコマンドを試す。

 腕輪のAIは、その動きに合わせて簡潔な提案を囁きかける。蒼太はそれに軽く応じ、時折短く笑みを含んだ返事を返す。会話は必要最低限だが、そこには長く連れ添った相棒とのやり取りのような、心地よい距離感があった。


 新しい通知が視界に浮かぶと、蒼太は指先を動かさず、意識をそちらに向けるだけで関連情報が展開される。瞬時の反応と状況に応じた補助が、自然と笑みを引き出した。


「これはいいね……かなりいい」


 しばらく新しい操作感を楽しんだ後、ふっと窓の外に目を向ける。

 立ち上がり、窓際へと歩み寄った。ガラス越しに広がるのは、今まさに建設が進む高層ビル群と、それらの隙間を埋めるように整然と並んだ街並みだった。


 ここは、技術実証都市「白雲しらくも」。

 世界で初めて「減重力」テクノロジーを都市設計の初期段階から組み込み、更なる開発を通じて「反重力」技術へと発展させることを目的に築かれた街だ。都市全体を反重力機構で宙に浮かせてしまう――そんな計画すら、政府の正式な計画書に記載されている。


 世界中から専門家や技術者を集め、成果を実証と同時に実装していく。野心的という言葉すら生ぬるい、壮大なプロジェクトだ。まだ街そのものは地上にあるが、整然と並ぶ建物の造形や、街全体の空気感には確かに未来の匂いが漂っていた。


「いつか……本当に浮く日が来るのかな」


 つぶやきと共に、5年前に家族と移り住んで以来、日々変わっていく街の姿を思い出す。

 高層ビルの間を縫うように、無数の機械人間――ドロイドたちが動き回っていた。インフラや交通、日常の雑務に至るまで、この街のあらゆる仕組みが彼らによって管理されている。


 コンタクト型デバイスの視界には、外を行き交うドロイドや建物の名称、機能が、まるでゲームのUIのように重なっていた。


「センサーもよし……それにしても便利だな。前のホログラスより、ずっと直感的だ」


 街のあらゆる要素が視線の動きに合わせ、即座に情報を返してくれる。

 遠くのビルに目をやれば、その高さや建設年が表示され、さらに注目すれば管理者の名前や内部の情報まで引き出せる。手を動かす必要すらない。ただ見るだけで、知りたいことが瞬時に現れるのだ。


 しばらくは新しい操作感に夢中になって、時間の経過を忘れていた。

 指先で空気をすべるようにスワイプすれば、半透明のウィンドウが軽やかに入れ替わり、視線で項目を拾えば、必要な要素だけが前へせり出してくる。

 余計な影もノイズもない、磨き上げられた応答。ほんの数ミリ、眼球の動きが滑っただけでも、それをなぞるようにインターフェースが追随してくるのが分かった。

 ――自分の視線を、システムが「学習している」。そんな感覚さえあった。


 ふと、手首の黒い腕輪が、二度だけ短く震える。


「蒼太様、父上よりメッセージが届いております」


 AIの声は、相変わらず落ち着いている。彼は反射的に視界の端へ意識を寄せ、届いたばかりのメッセージを開いた。小さな封筒のアイコンが弾け、文面が滑り出す。


『準備が整った。『ヴァスト・フロンティア』へログインしろ。赤樫の木公園で待つ』


 簡潔で、父らしい短文だ。文章の冷たさの裏に、微かな高揚が滲んでいるようにも見える。


「……いよいよ、か」


 胸の奥で、心臓が一拍ぶん強く跳ねた。

 『ヴァスト・フロンティア』――現実世界と区別がつかないほどの没入感で知られる、全感覚型のオンライン世界。公開から十五年、累計で八千万人以上がアカウントを持ち、今もなお“住んでいる”人々がいる。その中に、父はいた。こちらで研究者として働く傍ら、何年も向こう側の生活を続けている、と。


 起動条件はすでに満たしている。

 視界に残るメッセージの末尾へ指を伸ばしかけて、ふと手を止める。

 小さく折りたたまれた「補足」というラベル。軽くタップすると、淡い灰色の追伸が伸びた。


『追記:並列起動のことは知っていると思うが、最初はやめておけ。まずは世界に馴染むことだ。それに――』


 蒼太はほんの一瞬、続きを読むか迷い、肩をすくめる。


「……後でいいか」


 小声でそう言って、ウィンドウを閉じる。灰色の文字は視界の隅に退き、見なかったことのように日常の色に紛れた。


 窓辺から離れ、ベッドの縁に腰を落とす。深呼吸を一度、二度。肺の奥まで空気を満たしてから、手首のデバイスに指先で軽く触れた。


「よし、やってくれ」


「データを受信します」


 即答と同時に、メールボックスに格納されていた『ヴァスト・フロンティア』のロゴが、封筒の中から浮かび上がる。半透明のまま、ゆっくりと手前へ。眼前の空気にふわりと据え付けられると、呼吸と歩調を合わせるかのように淡く明滅を始めた。脈動。受信中。

 受信ゲージのようなものはない。ただ、ロゴの輪郭に走る微細な光の回廊が、周回ごとにわずかに速度を上げていく。やがて、光の輪郭線がひときわ強くなり、その瞬間、明滅が静まった。


 ポップアップが一枚、短く開く。――受信完了。

 驚くほどの速さだ。巨大なソフトウェアを取り込んだとは思えない。


「これも、白雲の恩恵……いや、デバイスのおかげかな」


 苦笑まじりにひとりごちる。

 白雲では市内の中核施設に高速回線の直結が許可されている。だが、体感として今の“滑らかさ”は、回線だけの話ではない。

 従来のモデルと比較して、究極と言えるまでに小型化されていながらも、倍にも値する性能を有している、このチョーカー型デバイス。

 処理能力もさることながら、あらゆるハード、ソフトと最良とも評価される相性をみせる互換性の高さ。

 小等部の頃から余さず貯めてきた小遣いは、そのほぼ全てをこいつに費やされた。後悔は――ない。たぶん。


 ロゴの背後に、透明な書類がすっと差し込まれた。ページの右上には、小さく「同意のお願い」。淡い枠が、チェックボックスをいくつか並べる。


「なになに……プレイヤーの神経領域を使用、ね」


 表示された文言を追って、思わず声に出す。

 『ヴァスト・フロンティア』の特徴は、リアリティと世界の広さ――それだけではない。噂の域を出ないとされてきた、もう一つの仕組み。

 ――ゲーム側が、プレイヤーの現実の脳の一部、主として空間想像や身体図式をつかさどる領域へ干渉し、そこからフィードバックを受けて、世界の地形や法則を生成・維持する。


 読み進めるにつれ、文面は丁寧に、その核心へと近づいていく。

 現代の主要都市では、視覚にAR能力を付与するデバイスはほぼ生活必需品だ。さらに、神経接続のインプラントや感覚チップの普及で、演算の一部を人間の脳に委ねて高速化する手法も珍しくなくなった。

 ただし、それらはあくまで「自分の意思で」補助するものだ。自分以外の何者かが、自分の脳の一角にアクセスし、知らぬ間に“使う”。それを不快だと感じる人もいるし、危険視する声もある――そう、文面は逃げずに明記している。


 同意項目は、読み飛ばせない長さで続いた。

 リスクと対策、匿名化、負荷の分散、身体への影響についての長い注記。末尾には、十五年の運用の中で、神経接続に起因する重篤な障害報告は確認されていない、という統計。もちろん、統計は統計だ。将来の無事を保証するものではない。それでも――


「同意っと」


 思考より先に、指先が動いた。

 興味が、怖れを上回っていた。未知の世界へ踏み出す興奮が、懸念よりも濃かった。

 もとより、蒼太にそのような怖れが存在していたかはわからないが……。

 チェックを入れると、「次へ」のボタンが柔らかく点灯する。軽く触れると、かすかな振動が指の腹へ返ってきた。


 次の書面は、健康状態と年齢に関する宣誓。医療法規に配慮した定型句が並ぶ。項目を一つずつ読み、確認し、チェックを入れる。

 最後の欄外に、薄いグレーで短い追記があった。

 ――本アカウントは、アクティブランチ可であると「認定」されています。

 視線がそこに触れ、意味だけが脳内を掠める。じっくり読む前に、ウィンドウは自動で流れ、次の画面へと切り替わってしまった。


「……今の、なんだ?」


 自分で出した疑問を、すぐに笑って打ち消す。こういうものは、後から思い返しても大抵どうにかなる。――たぶん。


 視界が暗転し、すぐに淡い光が戻る。

 鏡のように静止した画面の中央に、自分が立っていた。正確に言えば、自分のアバターが。

 無地の白いTシャツに、同じく無地の短パン。肌の色、目の形、頬の輪郭。顔の左側の目立たないほくろまで、再現されている。


 全身を回転させてみる。首を少し傾げると、映像の中の人物も同じ角度で首を傾げ、そのまま固まった。

 動きは滑らかで、遅延はない。だが、鏡の前で下着姿を見られているような、なんとも言えない気恥ずかしさが背中をくすぐる。視線をわずかに逸らしたくなる感覚。


「すごい……けど」


 口の中で言葉が転がる。

 服装のタブを選ぶと、選択肢が幾つか現れた。革の上衣、布のローブ、軽い鎖帷子。色、質感、細部の縫い目まで、思わず指先で触って確かめたくなる。髪型や眉の濃さ、身長や体格――スライダーを動かせば、アバターの体が即座にわずかずつ変化していく。


 だが、どれも通り一遍に感じた。

 目の前の自分は、自分だ。わざわざ別人になりたいわけではない。変えた姿で父に会うのも、なんだか違う気がする。


「変になっちゃうよりは、このままで良いかなぁ……?」


 自嘲まじりに呟いて、しばらくアバターをくるくると回し続ける。光の当たり方で肌の陰影が変わり、瞳に小さな白点が走った。

 結局、スライダーは初期位置のまま。髪を一段階だけ短くしてみようかと指を伸ばし――やめる。今のままの方が、きっと落ち着く。


「ま、いっか」


 確認ボタンに触れる。アバターの輪郭がひと息ぶんだけ淡く膨らみ、次の画面へ転じた。

 タイトルのロゴが、空中で弧を描くように漂い、音もなく中央へ収束する。背景は朝焼けに似た薄い橙。遙かな地平線の先に、見たことのない地形の影が重なっている。


 手首を軽くタップすると、起動の手順が圧縮されたように短く表示され、ウィンドウが一枚ずつ自動で閉じていく。

 空気が、わずかに軋む。部屋の空気ではない。視界の奥――頭の奥で、何かが位置を合わせる音がした気がした。

 重力の向きが、ほんの数度だけ傾ぐ。床が遠ざかるのではなく、身体の内側が柔らかく持ち上げられるような、奇妙に安心感のある浮遊。


「じゃあ、行ってみようか」


 ごろりとベッドに背をあずける。枕に後頭部を沈め、呼吸を整え、瞼を下ろす。

 コンタクトとチョーカーのうち、どちらが主導しているのかは分からない。ただ、二つのデバイスが同じ方向へ向かって滑っていくのが、輪郭だけで分かる。感覚が合わさる。境界が薄くなる。


 手首のデバイスが、ほんの一瞬だけ強めに震えた。

 AIの声が、耳元で囁く。


「ヴァスト・フロンティア、起動します。行ってらっしゃいませ」


 続けて、別の短いテレメトリがかすかに重なる。

「演算安定率+12%。神経同期、正常。隣接プロセス――待機に移行」


 言葉を返す前に、意識の面がするりと裏返った。

 部屋の天井が遠ざかったわけではない。視界の光が暗転したのでもない。ただ、現実の手触りが薄紙になる。音も匂いも感触も、まったく消えはしないのに、指先が届く位置が変わる。

 たとえば、眠りに落ちる寸前、身体がびくりと跳ねる、あの瞬間。落下の夢の揺らぎと、布団の温もりが同時に存在する、とても短いあいだ。今、その「短いあいだ」が、長い階段になった。


 足音が、自分のものではない地面に、まだ落ちていない。

 それでも、歩幅はもう決まっている。


 ――行く。


 思考とも決意ともつかない合図が胸の内側で灯り、ふっと重力がほどけた。

 そしてその意識は、もう一つの世界へと潜っていった。

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