9.積極的、存在感の無さ
その日の帰りのことだった。仁が鈴子と、校門でばったり出くわしたのは。
「あ」
「あ」
お互いそれ以上の言葉が続かず、さりとてそのまま「じゃあ」と去ることもできずに、立ち尽くす。二人で話す機会がなくて寂しいとは思っていたが、いざその立場に立たされると、いったい何を話していいのかわからなくなる。気持ちを自覚した直後の突然の対面は、勘弁願いたかった。
無難な世間話でも振ればいいのだろうか。いや、自分が彼女と話したいことはそれではないだろう。じゃあどれだ、と訊ねられると困ってしまうのだが。
(せめてもう少し心の準備を……)
治まっていたはずの顔の熱が再燃しそうで、仁は肩に掛けたタオルで顔を拭った。
ちらちら様子を窺っていると、カア、カア、と鴉が鳴いた声が聞こえた。オレンジ色に染まった空を、黒い影が通り抜ける。太陽が目に突き刺さるくらいに眩しくて、仁は思わず目を細めた。
……そういえば。
「鈴木、今日は何か用事だったのか? 部活?」
部活終わりの自分と同じ時刻になるなんて。特に大会前だから、剣道部はいつもよりも練習時間が長いくらいだ。
他者との関わりを断ってきた彼女が、積極的に部活動に参加しているイメージは、正直に言うとあまりない。とはいえ、部活動の入部は半ば強制なので、わざわざ退部していなければ、何かしらの部活動に所属しているはずなのだが。
放課後にあまり時間的余裕が無かったり、部活動に打ち込みたくなかったりする人間は、ひっそりとした文化部の幽霊部員になっているというのが常套句だが……。はて。
「部活は園芸部で、それは水をやって終わったんですけど、今日はその後に先生のお手伝いをしていたんです。あの、えっと、プリントを作ったり、とか」
「先生?」
「保健室の……」
そこで彼女は一度、周囲を素早く見渡した。
「妖怪絡みでお世話になっている先生なんです」
「そうなのか」
保健室の先生、というと、ほわんとした雰囲気の女性だった、気がする。記憶が曖昧なのは、あまり世話になったことが無いためだろう。
「それで、いろいろお喋りしていたら、こんな時間に。古市くんは部活ですよね。来週末が大会だって聞きました」
「鈴木も月原たちと応援に来るって聞いたけど」
「うん、行きます、応援!」
両手で拳を固め、ついでに何かしらの決意も固めたような表情を作った鈴子に、仁は首を傾げる。応援、なのにまるで自分が試合に臨むかのような顔だ。
いや、彼女にとっては試合くらいの意味合いがあるのかもしれない。休日に友人と出掛けるというビッグイベントだ。
「頑張れ」
「頑張ります!」
元気よく答えた後、鈴子はどうやら、このやり取りの内容に疑問を感じたようだ。ぎゅっと握った拳を緩め、軽く頭を傾ける。黒く長い髪が、肩からさらりと流れた。
「あの……頑張るのは、古市くんでは?」
「そういえばそうだった。鈴木が気合入った顔してたから、つい」
「え!」
鈴子の肩が跳びはねた。
「そ、そ、そのようなことは、決して!!」
何が彼女をそこまで動揺させるのか。見るからに挙動不審だ。鈴子は一通りあわあわしてから、勢いよく歩き出した。
「それでは! 私はこれで!」
「あ、うん。じゃあ、また明日」
ぴた、と動きが止まる。
「は、はい。また明日……」
それから少しの逡巡を経て、彼女は小走りで仁の前に戻った。
「大会、頑張ってね。私も応援、ちゃんと、頑張るから!」
結局頑張るのか。などと無粋なことは言わず――言えず、という表現の方が心境に近しいか――、仁はふわりと笑った。わざわざ戻ってきてまで、自分に伝えてくれたことが純粋に嬉しかったから。
「ありがとう」
鈴子はきょとんとした顔をして、それから小さく、こくんと頷いた。その表情が柔らかく、嬉しそうに見えたことが、見間違えでなければいいなと思った。
「それじゃあ仁くん、家族総出で応援に行くからね!! いってらっしゃい!!」
「いや、総出じゃなくていい……。いってきます」
大会当日、仁は喜色満面の母にそう告げながら家を出た。
毎度、毎度喜び勇んで試合観戦に来る母と、何を考えてついてきたのかわからないが、仕事が休みなら母の隣にいる父。それから応援に来たのか揶揄しに来たのか、それとも特に用事が無いから暇つぶしに来たのか、とにかく集まる兄弟たち。
会場では、兄弟の数が多いこともあって、目立つのだ……。
そこになんとなく月原たちが加わることが最近の常であったが、今回はその中に鈴子もいる、らしい。
(そういえば、善は一兄と尊臣にバラしたんだろうか……)
好きな人の容姿や名前までは知らないはずだが、母と尊臣は鈴子と面識がある。それだけの情報で結び付けられるとは思わない。しかし、そもそもどうして善が勘付いたのかわからないので、バレないとも断言もできない。
できれば、そっとしておいてほしい、というのが本音だ。
ふー、と息を長く吐く。
「どうした、珍しく緊張してんの?」
星崎が肩を回しながら、仁の顔を覗き込んだ。
「そう、かもな……」
「いつになく弱気だな!」
「別に試合に負ける気は無い」
「そこは強気! ってことは、別のことか」
にやり、と笑った星崎が、観戦席の方へ目をやる。
「あ、月原たちだ。おーい」
星崎は軽く手を振りながら、仁の背中をぽんと叩く。
「ほら、鈴ちゃんもいるぜ」
素直に従うのも癪だ、と思いつつも視線を上方へ動かす。手を大きく左右に動かす月原の隣で、鈴子が肩を縮め、ちんまりと立っていた。白いブラウスに、淡い青のロングスカート、それから――眉の辺りで切り揃えられた前髪に、いつもよりも視界が開けているためなのか、落ち着かない様子で動く瞳。
「なんだかいつもと雰囲気違うなー。こう、気合が入った感じで、あー、ひょっとして好きな人の応援とか、かなあ――」
若干棒読みっぽい星崎の言葉を全て右から左に聞き流す。試合前に変に心を惑わせるのはやめてほしい。
でも……。
(『ちゃんと頑張る』って、このことかな)
以前に月原たちと、前髪をあげるだの恥ずかしいだのと話していたことを一緒に思い出しながら、ふっと笑う。程よい具合に、肩から力が抜けた。
確かに、鈴子も彼女なりに頑張っている。あの時、応援してよかった。
だから彼女にも、応援してよかった、と思われたい。
応援してくれてありがとう、と言いたい。
仁は鋭く息を吐き、手ぬぐいをぎゅっと縛った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「えー、今回の団体戦は惜しくも優勝を逃すという結果に終わりましたが、個人戦で勝ち進み、明日も試合がある選手もいます。今日はゆっくり身体を休めて、明日、ないし次の大会に向けて英気を養ってください。ただし、無事に自宅に帰るまでは気を抜かないように。では、解散!」
顧問の声を合図にして、部員全員、若干重い足取りで歩き始めた。
仁の隣に、星崎が並ぶ。しばらくはお互い無言のまま歩いていたが、ついに星崎がぼそりと口を開いた。
「勝ちたかったなぁ……」
「ああ」
「お前は勝っただろ。で、俺が勝ててりゃ、優勝だった」
「それは、他のやつだって、誰だって同じだろう」
「……だな」
力なく笑う星崎の背中を、ばしんと強く叩く。辛気臭い顔は似合わない男だ。さっさと元気になればいい。
「あー、くそ。個人戦もなあ、古市が当たったの、西高のエースだろ?」
「ああ。強かった。でも次は勝つ」
「……割とショック受けてないのな」
指摘されて、ふと黙る。受けていない、とは言えない。負けて悔しい。その気持ちは当然のようにある。星崎と同じだ。あそこで一歩下がっていれば。あるいは、あそこで踏み込めていたら……。でもそれは、誰だって同じだ。負けたら誰もが思うことだ。
自分の手を胸の高さまで持ち上げ、眺める。
「出し切った気は、してるから。応援もしてもらったし」
次は、勝ちたいけれど。……勝ちたいからこそ。
ぎゅ、と拳を固める。その向こうに、見知った姿を発見した。
「あ」
あちらも仁の姿に気づいたようだ。ぺこん、と頭を下げた。スカートの裾がふんわりと揺れる。
「なるほど、なるほど。応援ねー」
訳知り顔で星崎はにんまり笑うと、「じゃあ俺は先に行くわ」と走り去った。鈴子の隣を通り過ぎる時に「鈴ちゃん、まったね~」と声を掛けながら。
「鈴木、一人か? 他の人は?」
一瞬、忘れ去られてしまったのか、と不安が募ったが、そうではないらしい。鈴子の表情は思ったよりも明るかった。
「ゾノちゃんたちは、駅のカフェに寄るって言ってました。古市くんのご家族は先に家に帰るそうです」
「そうなのか。月原たちと一緒に行けばよかったのに」
「あ、や、私は……っ」
特に他意は無かったが、そう告げると、鈴子はわたわたと手を左右に振り始めた。瞳には焦りが見える。やはり、目は隠れていない方が良い。
「ふ、古市くんとお話をしたい、と思って!」
ストレートな発言に、どき、と心臓が跳ねた。
「えっと、じゃあ、一緒に帰ろう」
仁が口ごもりながらなんとかそう言うと、彼女もこくこくと頷いた。
じゃあ、とぎこちなく二人で並んで歩き始めると、隣でふわりと揺れる髪が、いつもと違うことにようやく気づく。前髪の長さだけではなかった。普段ストレートで流してあるのとは違い、ハーフアップにセットされた髪は、全体的に緩くカールさせてある。
「……髪、いつもと違うな」
ぴょん、と鈴子の背筋が伸びた。
「あ、はい。二人が編み込みしてくれたんです。髪も巻いてくれて。……ストレートが強くて、上手く出なかったらしいんですけど」
指で髪の先っぽを摘まみながら、鈴子がへにゃりと笑う。
「似合ってる。前髪も無いし」
「ま、前髪はあります! ちゃんと!」
ほら! と主張してくる鈴子には悪いが、……よくわからない。ただ、彼女にとっては重大な問題らしい。よく見てください、と言い募る彼女の顔を見、やっぱりわからない、と思った。辛うじて、それは口にしない方が良い、というところまでは判断できたが。
「でも、綺麗な目だから、隠さない方が良いと思う」
それに、遠くの観戦席からでも、やはり目が合った方が嬉しかった。綺麗な目だから、だけじゃないけれど。
――ああ、そういえば応援の御礼を伝えていなかった。
「鈴木、今日は応援に来てくれて、ありが…………とう?」
ふっと横を見ると、鈴子の姿が無かった。ぱち、と瞬きをした仁は、彼女を探して後方へと視線を動かす。鈴子は、随分と後ろで立ち止まっていた。固まっていた、と言い換えた方が良いかもしれない。それくらい、微動だにしていなかった。
見れば、真っ赤な顔をしてふるふると打ち震えている。
「ど、どうした? 大丈夫か?」
慌てて駆け寄ると、黒々した瞳できっと睨まれた。なるほど、目が隠れていないというのは、こういう感情もダイレクトに伝わってくるのか。無意味に感心する。
「古市くんは、いつも、誰にでも、そういうことを言うんですか……?」
「そういうこと?」
「無自覚……!?」
があん、とショックを受けた顔をしている。
何が、と訊ける空気ではなかった。
「その、お、女の子に可愛いとか綺麗とか言うとですね、勘違いしちゃうこともままあるわけでして……っ!! 私だって一応女の子の分類に入るので、さすがに何度も言われるとやっぱり期待しちゃうことだってあるかもしれないわけで!!」
矢継ぎ早に捲し立てる鈴子に「勘違い? 期待?」と首を捻ると、見るからに肩を落としてしょんぼりされた。どうしてわかってもらえないのだろう、と彼女が考えていることを、当然仁は知らない。
「俺は本当にそう思ったから口にしただけで、ただ鈴木以外にはあんまりそういうこと思わな……い」
そこまで言って、ふと我に返った。なんだかそれでは、まるで、相手のことが好きだと言っているみたいだ、と。
仁の顔がぼっと火がついたように赤くなる。それこそ、鈴子に負けないくらい。
二人揃って茹蛸状態になっていると、仁たちが歩いてきた方向から、自校の先輩たちが歩いてくるのが見えた。ぼんやりしていた所為だろうか、距離は既にかなり近い。
何か言われるかもしれない、と肩を強張らせた仁の隣を――彼らは何も見えていないかのように素通りした。
無視された、わけではない。
本当に認知できていないのだ。
「見られないのも……助かるな」
仁が本音を漏らすと、鈴子はふふっと笑った。
「その……ごめん、ちょっとの間、黙っていてもらっていいか?」
鈴子はぱちぱちと瞬きをしてから、わかった、と言うように微かに顎を引く。
それを受けてから、仁は、はー、と大きく息を吐いた。吐き切って、今度は大きく息を吸う。どちらにせよ、もう半分は伝えたようなものだ。やけくそになったわけではない。ただ、伝えるなら、もっとちゃんと伝えたい。
上手く言える、自信は無いけれど。
ゆっくりと、不格好に震えた音を紡ぐ。
「今日、鈴木に応援に来てもらって嬉しかった。これからも来てくれたら嬉しい、と思ってる。今回は負けたけど、次は勝つから、見ていて欲しい。これも、別に、誰にでも言うわけじゃない。可愛いとか綺麗とかも。俺がそう思う相手は、……一人だから。だからその、さっき鈴木の言ってた、勘違い……とかではなくて」
つまり、と言葉を繋げる。仁は黒曜石のように不思議と透き通った瞳を、真正面から見つめた。
「好きだ」
「……はい」
せっかく、目が見ることができる状態になったのに。
今日はこれ以上、まともに顔を合わせる余裕が無さそうだ。
どちらからともなく歩き出して、こっそり、そうっと繋いだ手の熱さに、今はまだ、お互い俯くことしかできないから。
――なお、善はちゃっかり家族全員にばらしていたらしい。
ことの次第を知った尊臣に「仁兄の好きな人って、鈴子ちゃんでしょ」としたり顔で出迎えられるのは、この後、すぐの話である。




