4.全治三週間の診断結果
目の前に座る医者は、デスクに乗った大きなディスプレイを見ながら、はっきりした口調で言い切った。
「捻挫ですね」
「捻挫……」
「全治三週間です」
「三週間……」
思わず唱えると、医者はようやくディスプレイから視線を外し、仁の顔をじろりと見た。
「あくまで安静にした場合です。無理に動かした場合は、もっと酷くなって、長引きますからね」
「…………」
押し黙った仁の横に座っていた母が、「仁くん、動かしちゃだめなんだって」と念押しするように言う。わかってる、と返事をするように肩を竦めた。
今後の通院や治療方法について話している母と医者の間にぽつんと座りながら、仁は三週間という長さを想像し、げんなりとした気持ちになった。がちがちに固定された右足を見下ろしながら、小さくため息を吐く。憂鬱なのは、期間の長さだけではなかった。
『ご、ごめんなさい……』
保健室で応急手当を受け、親の到着を待っている間、鈴子は終始、今にも泣き出しそうな顔をしていた。怪我をしていない彼女の方が、怪我人たる仁よりも痛そうだった。あんな顔をさせるつもりはなかったのに……。
「――で、しばらくは松葉杖を」
「ま、松葉杖!?」
大袈裟な!
ぎょっとして背筋が伸びた仁に向かって、医者は「大袈裟じゃありません」とぴしゃんと言った。
「いや、でも……」
そんなのを使ったら、まるで『大怪我』をしたようではないか。
「でもも何もありませんから」
取り付く島もなかった。
必要なことだから仕方がない、とはわかっている。わかっているが、松葉杖を片手に持った時の周囲の反応を想像し、仁はがっくりと肩を落とした。
なんだか、非常に疲れそうな予感がした。
「うわあ、なにそれ、どうしたの仁兄!」
――案の定だった。
第一号だ、と仁は心の中で唱える。
物珍しさに目を輝かせる末弟に、「階段で滑った」とだけ伝えると、「猿も木から落ちる!」と騒がれた。仁は別に階段下りのプロになったつもりはない。だが、使いどころが間違っているだろう、という指摘はあえてしないでおく。今は何を言っても、尊臣を喜ばせるだけに終わりそうな気がした。
「ねえ仁兄、それ使って歩いてみてよ!」
「尊臣くん、お兄ちゃんを困らせちゃだめよ」
めっ、と母が窘めると渋々引き下がったが、あの顔は諦めていない。なんなら、勝手に松葉杖を持ち出し、自分がそれを使って歩こうとするかもしれない。さて、寝る時にはどこかに隠しておかないと。ベッドから手が届いて、かつ尊臣には取りにくいところ。……ベッド下だろうか。
かつん、と松葉杖の先端が床を叩き、音を鳴らす。その音が、やけに気になった。慣れるまでにどのくらいかかるだろう。慣れる前に不要になってくれたら、それが一番なのだが。
背後で、がちゃり、と玄関ドアが開いた。
「ただい、まぁ、って、じ、仁!? どうしたんだよ、それ。怪我? 大丈夫なのか!?」
貴一は仁の姿を見るなり、口をあんぐりと開いた。第二号だ、と呟く。
「さっき携帯に連絡入れた」
手に持っていた携帯をトン、と叩くと、貴一は慌てた様子で自分の鞄に手を突っ込み、少々危うい手つきで自分の携帯を引っ張り出した。
「捻挫、全治三週間!? え、ちょっ……学校、大丈夫なのか? 部活は? 足、動かせるの? あ、俺、明日から学校送っていくか!?」
「大丈夫、しばらくバス使うから。部活は明日、顧問と相談して決める予定」
普段は自転車通学をしているが、バスを乗り継いで学校近くまで行くことはできる。これまでも雨の日はそうしていたから、勝手はわかっている。部活は――運動は禁止されているから、足を使わない筋トレができれば、といったところか。しまったな、と緩く後悔する。せっかく通院したのだから、医者にどこまでがOKなのか、確認しておくのだった。
――そんなことを聞いたら、動かさないことが一番です、とぴしゃりと切って捨てられそうだが――。
「いやでも、大変だろ。バスだって、全部が全部バリアフリーってわけでもないしさ。午前に授業無い日だけでも送ってくから」
「良いって。見た目ほど痛くもないから」
あたふたしている貴一の様子を見ていた尊臣が、よからぬことを思いついた顔で、にんまりと笑う。
「一兄さあ、そんなに心配なら、仁兄をお姫様だっこでもしていったら?」
「断固拒否する」
されてたまるか、そんなこと。
仁が本気で嫌そうに顔を歪めたのがわかったのだろう。貴一もむっと眉を寄せる。
「言っとくが、俺だって嫌だからな、それは!」
「なら良かった」
そんなやり取りを玄関でしている間に、二階から善が下りてきた。階段の半ばでひょっこりと顔を覗かせる。
「おかえり。仁兄、思ったより元気そうで良かった。もう痛くないの?」
「痛く……なくはない」
「うん、痛そうだもんね」
「やっぱり痛いんじゃないか」
ほら見たことか、と貴一がふんと鼻を鳴らす。
「はいはい、そこまで! とりあえず仁くん、お母さん心配だから、せめて一週間くらいは私か貴一くんの車で学校に行きましょうね」
「……大袈裟だって」
「憎まれ口は、怪我を治してから受け付けまーす」
そう言ってから、母は仁の頭を、こつん、と軽く叩いた。母の手に掛かれば、自分はまるで小さな赤子のようだ。母に対する反発心と羞恥心から、仁はふいっと顔を背けた。貴一だってそうだ。肝心なところで、年上ぶる――実際、年上なのだが――。自分だって子どもではないのだから、放っておいてほしい。
……心配を掛けたことは、まあ、悪いとは思っているけれど。
翌日、教室の入り口で星崎とばったり会った。偶然ではなく、彼は仁を待ち構えていたらしい。星崎は挨拶も忘れて目を見開き、「うお、まじか」と呟いた。
「何それ、治んの?」
「治るし、治す」
慣れない松葉杖に手こずりながら、椅子に座る。
「後遺症とか……」
「ないから」
いつもの明るさは鳴りを潜め、深刻そうな顔をしていた星崎は、少しだけ安堵したように張りつめた声を解き、そっか、と呟いた。彼にも随分と心配を掛けていたようだ。
「だってさ、お前、あん時の顔、やばかったぜ。なんか、……ドラマのワンシーンみたいだった!」
その喩えは如何なものか。
とにかくすごかった、ということを伝えたいのだろう。「ほらよくあるじゃん、改心した悪人がこれから真実を告白するって時にナイフで腹を刺されて倒れるシーンとかさぁ!」と熱弁を振るう星崎に、「刺されてないし、なんでそんな限定的な場面設定を持ち出してくるんだ」と突っ込む。
にしても、腹を刺された人間と同じ顔とは。それはそれは、かなりの苦悶の表情を浮かべていたことだろう。
そんなにひどい顔をしていたのか。仁はこめかみを押さえた。確かに尋常でないくらい痛かったが、傍目から見て、そんなにもわかりやすかったとは。むしろ耐えていたつもりだった。
(鈴木、責任感じてないかな……)
頭をもたげた不安に糸を引かれるように、きょろりと教室内を見渡す。いつもより多くの人間と目が合うのは、松葉杖効果で目立っているからだろうか。その中で、今にも泣き出しそうな顔をした鈴子の姿を見つけた。
「す――」
「おっはよ~!」
俺の言葉を遮り、教室に飛びこんできたのは、月原だった。星崎とは幼稚園からの幼馴染らしく、その関係でよく喋る、快活な性格をした女子生徒だ。もう少しお淑やかな方がモテるぞ、とは星崎の談。彼は、そう口にする度に月原に肘鉄を喰らっている。その流れは、もはや一種の様式美と化しており、今日も今日とて、星崎は床に沈んだ。
すっきりした顔で額の汗を拭った月原が、こちらに向き直る。
「古市もおはよー、って、何それぇ!? えええ、なになに、大丈夫? いったい何があったの!?」
会う人、会う度に驚かれることに、だんだんと慣れてきた。
「階段で――」
「滑った!? あほじゃん!!」
「…………まあ」
滑ったわけではないが、それでいいか。大筋は間違っていないし、詳細を説明しようとすると、少し困ってしまう。
適当に頷くと、「うええええ、痛そーう」と月原は顔を歪めた。
「どのくらいで治るの?」
「全治三週間って言われた」
「三週間? あれ、剣道部って、一か月後、大会じゃなかったっけ?」
「……それまでに治す予定だから」
星崎と月原が顔を見合わせる。そして同時に口を開いた。
「無理しない方が良いって」
「無理すんなよ、悪化するぞ」
「……善処する」
「善処て」
責めるような四つの目を前に、仁はばつが悪くなり、逃げるように顔を背けた。視線を向けた先は、先程まで鈴子が立っていた辺りだ。意識してそこを見ようと思ったわけではない。たまたまだ。しかし、目を向けると探してしまう。だが、もうそこに彼女はいなかった。
ああ、しまったな。話し掛ける予定だったのに。
気にしなくていいから、と言うつもりだった。
今日は話す時間が無いかもしれない。黒板の隅に書かれた日直当番に、自分の名前を見つけながら、肩を竦める。
――しかし、思いがけず早くに、仁は彼女と話す機会を得た。
休み時間、片手でひょいひょいと黒板の文字を消していると、どこからともなく鈴子が現れ、仁が立っている場所の反対側からせこせこと黒板消しを動かし始めたからだった。いつぞやと、逆のパターン。鈴子は、黒板の上部に書かれている板書を消そうと、つま先立ちの状態で小刻みに手を左右に動かしている。危なっかしい。
「俺がやるから、大丈夫」
声を掛けると、彼女はびくっと身体を震わせてから、脇に抱えていたスケッチブックを捲り、仁の面前に突き出した。
『手伝います』
まるっこい字で綴られた言葉には、どこか責任感のようなものが滲み出ていた。
「昨日のことを気にしているなら、必要ない。この通り、ぴんぴんしているし。そもそもあれは事故だったんだから」
鈴子は唇を尖らせると、スケッチブックを何枚か捲り、なにやら書き始めた。少ししてまた俺の方へ向ける。
『全然、ぴんぴんじゃないです』
……容赦ない一言だった。
仁は一瞬押し黙り、そしてそれを誤魔化そうと話題を変えた。
「というか、なんで筆談?」
彼女はぱちぱち、と瞬きをしてから、スケッチブックを捲る。今度は手前から奥ではなく、奥から手前に紙を戻している。数枚戻り、目的のページを見つけたのか、それを突き出した。
紙面の中央に、堂々と鎮座することばは――
『私は喋れません』
「……。昨日普通に喋ってたじゃないか。それに掃除当番の時も」
があん、とショックを受けたかのような顔。……忘れていたのだろうか。見るからにおろおろし始めた彼女は、同じページの右隅に、小さな文字でそっと言葉を付け加えた。
『筆談が趣味です』
嘘吐け、と思ったが、黙っておくことにする。これ以上突っ込むと、追い詰められた鈴子は逃げ出しそうだったから。声は聞けないけれど、彼女と言葉を交わすことができるのは、多分、少し、嬉しい。
「でも、字を書いてたら、黒板消せないな」
意地悪く指摘してやると、ハッとした顔をして、スケッチブックをぱたんと閉じた。彼女はいそいそと黒板消しを手に取り、再度構え直す。
心の奥の方からこみ上げてくる笑いを噛み殺しながら、仁は鈴子につられるように黒板消しを動かした。
仁は今、こんなに目立つ姿なのに。
鈴子はスケッチブックを片手に、筆談まで持ち掛けてきたのに。
誰も二人の存在など見えていないかの如く、時が流れていく。
これは普通ではない。
でもまあ、いいか。そう思えた。
とん、と黒板消しを置く。
そこに通りがかった星崎が、「お?」と意外そうな声を上げた。
「なんだよ古市、なんかいいことあったのか? いつになく上機嫌だな。怪我人のクセして」
「そうか?」
自然と顔に出てしまっていたらしい。誤魔化すように咳払いをして、口元を隠す。
気付けば、鈴子の姿は近くになかった。
ああ、だから星崎に見つかったわけだ。仁はするりと理解した。




