5.立場逆転、縮まる距離
その日を境に、鈴子は仁の前によく姿を現すようになった。
ある時は移動教室、またある時は掃除当番。そうして仁の周りをうろちょろと動き回って、何かできることはないかと奮闘しているようだった。怪我をする前と立場が逆転している。
逆の立場になって初めて、見えてくることがある。つまり、そう、自分はこんなにも目立つ行為をしていたのか、と。あまりの恥ずかしさに、顔面を覆いたくなる。ほとんど面識のない、話したことも無いに等しい、仲が良いわけでもない男子生徒にこんな風に付き纏われたら、それは『もう助けないで』と口にしたくもなるだろう。むしろ、かなり柔らかい表現にしてくれた方だ。気持ち悪い、と嫌われてもおかしくない。鈴子のそれは怪我をさせたという負い目からの行動だとわかるが、仁にはそういう真っ当な理由は無いのだから。
――この件については、一度ちゃんと謝ろう、とは思っている。思っているのだが、何故か周辺に出現する割に、話し掛けようとすると逃げていくので、なかなかその機会をもらえないでいる――。
だが、しかし、逆に言えば、仲良くなれば問題ないのだ。
彼女から近付いてくれている今が、絶好のチャンスであることは明白だった。
全治三週間といわれた身であるが、仁の身体は現在は順調に、順調すぎるほど順調に、それこそ当初の医者の見立てよりも随分と早く回復している。この前の通院の時には、あまりにも回復が早いがために、「いったいどうやったら、こんなに……?」と怪訝な顔をされたくらいだ。
つまり、鈴子から近寄ってきてくれる期間はそう長くないということだ。うかうかしているほどの余裕は無い。
(とはいったものの……)
距離の詰め方がわからない。
昔飼っていたうさぎのムゥ(♀)は、とりあえず人参を差し出しておけば好感度が簡単に上がったが、まさかペットに対するそれを参考にするわけにもいくまい。
机に片肘を突きながら、ううん、と唸る。怪我をする前よりも距離が縮まったような気はするが、それだけ。彼女自身と言葉を交わす機会は、未だに貴重だ。
何か正当な用事でもあれば――……
くい、と立てた肘の袖をつままれた。
見ると、緊張を前面に押し出した顔をした鈴子が、前屈みになってこちらの顔を覗き込んでいる。
何か用事があるらしい。珍しいこともあったものだ。
彼女は二度目の筆談を始めるつもりのようだった。スケッチブックを自分の胸の前に掲げる。
『お願いがあるのですが』
『無理にというわけではなくて』
『断って頂いても全く問題はないのですが』
その長々とした前置きのために、紙面をまるっと使い切っている。肝心の用件がどこにも書いていない、と不思議がる仁の顔をちらりと盗み見た鈴子は、慌ててぺらりと紙を捲った。
『古市くんのお家にお伺いしてもいいですか? 母も、私も、怪我の件を直接謝らせてほしいです』
ああなるほど、と納得する。別に気にしなくてもいいのに、と断ろうとしたが、やめた。こういう接点でもない限り、彼女と仁は、限りなく他人なのだから。
ともすれば自嘲に浸りそうになる自分を諫め、「親に聞いてみる」と返事をした。ほっと息を吐いた鈴子の表情に、自分の選択は、少なくとも彼女にとって間違いではなかったらしいことを知った。
「――という話があったんだけど」
食事の場でそう切り出すと、父はいつもどおりほとんど表情を動かさずに、無言のまま母へ目を向けた。あれは多分、自分は表に出ないからどうにかしろ、の意だ。母はその視線を受け、にこりと笑う。
「そうね、何事にも区切りは必要だものね。でも」
そこで母は、眼光をすっと鋭くした。
「お招きするにあたり、お茶請けは何が良いかしら……。悩ましいわ」
「僕ねえ、クッキーがいい。チョコの。作ろ!」
びっと勢いよく挙手した尊臣が、きらきらした目を母へ向ける。
「あら、尊臣くん、手伝ってくれるの?」
「うん!!」
普段は生意気な割に、こういう時は素直だ。歳相応の反応で、微笑ましくもあるが……。
当事者である仁を置いてわちゃわちゃし始めた家族を一瞥する。
そもそも先方は、家の中にまであがるつもりは無いのでは。
そんな考えが頭を掠めたが、意図的に無視した。今更水を差すこともし難い。もし玄関先で話が終わったら、クッキーはみんなで食べればいい。
仁はひとまず、鈴子にメッセージを送ることにした。連絡が取れないと何かと困るから、と交換した連絡先から、チャット画面を開くと、素早く文字を打ち込む。
『大丈夫そうだ。日付、どうする?』
画面を閉じて、携帯を机に伏せると、ぽこん、とメッセージの通知音が鳴った。予想以上の速さに驚きながら、再び画面を開く。
『ありがとうございます』
礼の言葉と一緒に、ぺこり、と頭を下げる和装の少女のスタンプが送られてくる。その姿は、なんだか鈴子に似ていた。彼女も着物が似合いそうだ。
『日付ですが、今週の金曜か、来週の水曜はどうでしょうか』
硬い文面も、なんとも鈴子らしかった。ひょっとしたら彼女は、携帯を前に正座でもしながらメッセージを送っているのではないだろうか。さもありなん。
「今週の金曜か、来週の水曜、どっちがいい?」
「来週がいいなあ」
食い気味に答えたのは尊臣だった。
「だって、今週だと慌ただしいし。ねえ?」
「そうねえ」
尊臣が母の方へ首を傾けると、母もこてんと首を傾げた。
「じゃあ、来週の水曜で」
言いながら、同じ言葉をメッセージでも送信する。
『わかりました』
返事はその一言だった。少し経ってから、敬礼ポーズをする和装少女のスタンプが飛んできた。……お気に入りなのだろうか、このシリーズ。
それから数日の間、そこまで硬くならなくてもいいのに、と口にしてしまいそうなほど、鈴子は普段の学校生活の中でも緊張した面持ちを崩さなかった。肩だってひどく強張っている。これなら当日までの期間が短い金曜日の方が良かったのでは、と余計な心配をしてしまうほどに。こんな状態で土日を過ごしたのかと思うと、不憫だ。怪我をした仁の方が余程元気だ。
なにせこの頃には、仁の足首はほぼほぼ回復していて、サポーター無しで問題無く動けるほどだった。医者の許可も得て、部活動にも参加するようになった。医者曰く、「もはや化け物じみた回復力」らしいが、早く治るならそれに越したことはない。なにしろこちらも、大会の日付が迫っているのだ。
ただ、今日は特別だ。特別に、休みをもらっている。約束の水曜だから。
家の用事、と伝えたのだが、顧問はどうやら通院だと思ったようである。否定して突っ込まれたら、それはそれで面倒なので、訂正しないことにした。
教室から真っ直ぐに帰路につくと、ちょうどばったり、校門のところで鈴子と遭遇した。
「鈴木」
話し掛けると、彼女は驚いたのか、ぴょんと跳ねた。おずおずと振り向く。長い前髪から覗く瞳が、不安げに揺れていた。今日も今日とて、動きがぎくしゃくしている。
勢いで引き止めてはみたものの、彼女に振れる話題の持ち合わせもない。
「あ……あ~、あの、……クッキー」
クッキー? 鈴子の顔にクエスチョンマークが浮かんだ。
「母さんが焼いて準備してるみたいで、……美味しいから、ぜひ食べて行ってほしい」
何を言っているんだか。
自分で自分の頭を殴ってやりたくなる。謝罪に行くと言っている人間に、こんな言葉を掛けてどうする。かといって、他の言葉も思いつかないわけだが。
がしがしと髪を掻き上げると、前から、ふっ、と柔らかく笑う声がした。
「――あり、がとう」
鈴が鳴った。
「楽しみにしてるね。じゃあ、また後で」
「……ああ」
辛うじて返事ができたことが奇跡的だった。たたた、と駆け足で去っていく鈴子の背中を見送りながら、仁は頬に手の甲を押し当てた。ああ、とても熱い。
彼女の表情は話す前よりも明るかったように思う。自分の拙い言葉でも、彼女の心を少しでも軽くできたということだろうか。そう期待しても良いだろうか。
危うく緩みそうになる口元を、きゅ、と戒める。
先程、自分の声は上擦っていなかったか。そんなことが急に気になった。




