11.ただいま。おかえり。
「……帰ってきたぁ」
お披露目会だとかなんとか、名目上そういうことにしたただのどんちゃん騒ぎに付き合わされた私たちは、お盆休みも残り少なくなった頃に、ようやく解放された。
帰る予定を立てないまま出た家。
す、と息を吸い、ゆっくり大きく吐き出す。この部屋に染み付いた善さんと自分の気配を、改めて取り込むように。もっともっと、根付くように。
ああ、やっぱり居心地が良い。
……それにしても。
なんだか疲れた。
それは、彼も同じだろう。
ちら、と彼を窺うと、やはりいつもより若干疲れが見て取れた。
彼は私の視線に気付くと、ふと笑う。疲労による翳りがなくなる。
「おかえり」
ふわりと心に届いた言葉に、思わず表情が緩んだ。慌てて気を引き締め、きゅ、と唇を噛む。逃さないように。噛み締めるように。
「……ただいま。善さんも、おかえりなさい」
「うん、ただいま」
何気ない挨拶を交わし、いよいよ隠し切れなくなった喜びと気恥ずかしさに、頰を赤くする。お互いに、これまで詰めきれなかった隙間を、そうして埋めようとしていた。
善さんが、私の手をぎゅっと握る。
「溶けてない」
「すっかり元通りです」
「いなくならない?」
「大いなる勘違いでしたから!」
「そう、良かった」
甘いやりとりというよりかは、事務的なやりとりだった。淡々とした声質からは、強い感情性が排除されているように思えた。それなのに時折、ひどく揺さぶられる。
「そのまま、ずっといて。それで、もっと教えて」
「雪女のことをですか?」
そういえば、初回に会った時も、興味深そうだった気はする。だがしかし改めて話そうとすると、意外と話題が無い。実際に日常生活を送っている中では確かに、これは雪女固有の性質だなぁ、とか思ったりするのに。
案外、ほとんどの物事は、そんなものなのかもしれない。
うんうんと納得している私に向かって、善さんは「それもだけど、そうじゃなくて」と繰り返し否定する。
「もっと単純に、千佳のこと、たくさん知りたい」
「…………え」
「あ」彼は、固まる私の手を捕まえる。「今、少し溶けた」
持ち上げられた指先から、水滴が落ちる。私の頰は更に赤く染まって、今にも崩れ落ちそうだった。
「ねぇ、キスしたら溶けるかな」
「そ……っ」
そんなこと訊かないで!
文句を言おうとして、これでは負けてばっかりだ、と思い直す。せめて一矢報いたい。
きっ、と。挑戦的に睨む。
「試してみたらいいじゃないですか」
どうだ参ったか。ふふんと笑いたかったのに、「うん」と相変わらずの平坦な相槌に邪魔される。
「初めから、そのつもり」
腕を掴んでいた手が、私の後頭部へと回る。顔が近付く。冷静そうな声色とは不釣り合いな、情熱的な瞳を真正面から見据えた。
――捕まる。
私を溶かす熱を受け入れるように、そっと目を閉じた。
――ああ。もう。
連敗記録、覆せそうもないや。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「松雪さん、松雪さん!」
朝礼後、土屋さんが焦った声で私を呼び止めた。
「今日、勝木さん来るんで、気を付けてくださいね……!」
ぐっと握られた拳。目が「松雪さん、ファイトォ!」と訴えてくる。
アポイントメントが決まった一週間前にも言われた言葉。私は苦笑する。
「大丈夫、平気。……だと思う」
「だと思う、って。もー、松雪さーん」
自信持ってくださいよーう!
握り拳をぶんぶん振る後輩の様子に、思わず笑ってしまう。そんな私を見た彼女は、はたと動きを止めた。
「ほんとに割と余裕ですね。さては……何かありましたね?」
名探偵さながら、銃の形にした指を、顎に添える。
「そういえば、お盆明けからなんだかラブラブ度増しましたよね、松雪さん」
「んー、ラブラブ度はわかんないけど。自分の気持ちは、再認識しました」
負い目がなくなったことが大きいのだろう。『雪女だから結婚した』――その認識は、変わらない。けれど、その所為でと思っていた以前と、そのお陰でと思っている今とでは、意味合いが全く違うのだ。彼の出逢うきっかけが、私が雪女であることなのだとしたら、私は自分が雪女だったことに感謝するし、勘違いをしていたことすら嬉しい。
「にまにましちゃってー。羨ましいですぅ」
「に、にまにまなんてしてないよ!」
「鏡見てくださぁい」
私を散々揶揄った土屋さんは、びしっと指摘すると、満足そうに部屋を去っていった。手には分厚いファイル。彼女もまた、打合せに向かうのだろう。
「よし、私は報告書を纏めねば」
腕捲りをして気合いを入れると、私はパソコンの画面に向き直った。
今回は事前情報があった。
だから、スケジュールを調整して、会議室方面には近寄らないようにしていたのだが。
(……待ち伏せ、されてたのかな)
だってトイレ休憩で部屋を出たタイミングで偶々会うだなんて、出来過ぎている。
訪問先の会社でここまで自由に行動してしまえる彼女に、恐ろしさを覚える。普通は、外聞やマナー、これから取引があることを考え、一人勝手に取引先の社内を彷徨くなんてこと、しないし、できない。
「お久し振りです、松雪さん」
口元に弧を描かせながらも目が一切笑っていない勝木さんを、私は負けじと見つめ返した。
「お久し振りです。本日は森山と打合せですか? 会議室は別のフロアになりますので、ご案内しましょうか」
「ええ、お願いするわ。これから古市さんと打合せなの」
彼の名前を強調させる勝木さんに、努めて顔色を変えないようにした。
どうぞこちらへ、と案内する私の後ろを、彼女は自信に溢れた様子でつかつかと歩く。
「善さん……あら、失礼。古市さん、お元気かしら。向こうもこちらも忙しくて、久し振りなものだから」
「変わりないですよ」
「それは良かったわ。以前お会いした時、調子が悪そうでしたもの。何か嫌なことでもあったんじゃないかしら。食事の時に、心配事があるって仰っていたもの」
「そうでしたか。ご心配ありがとうございます」
刹那、言葉がやんだ。
「――なんで、貴方が」
先程よりも低い声だった。
最後までは音にならなかった言葉の続きを、私は知っていた。それは、私にも経験があるものだったから。
なんで、貴方が、彼の代弁をするの。
私は、聞こえなくなった足音に気付き、振り向く。整った顔を盛大に歪ませた彼女が、はっきりと憤怒を宿した瞳で、私を射殺さんばかりに睨んでいた。
「遠回しに言ってもわからないなら、仕方ないわね。はっきり教えてあげる。――貴方みたいな人が彼の隣にいるなんて、相応しくないの。いい加減わかるでしょ? 不愉快だわ。貴方なんかが、彼を縛り付けていいはずがないのに!」
ストレートに言葉をぶつけてくる勝木さんと向き直る。
美人度とか、スマートさとか、そういうものでは負ける。でも私は、彼女と勝負をしたいわけじゃない。無論、好きの大きさを比べたいわけでもない。
どうしようもなく惹かれるから、傍にいる。それ以外に理由なんて必要だろうか。雪女であることを、受け入れてくれたから? 格好良いから? 優しいから?――そんなの、全てが後付けだ。
彼が好きだ。理由なんてわからないくらい好きだ。彼の表情に胸が高鳴る。彼と手を繋ぎたい。たとえドキドキがなくなっても、『好き』の感情は、別の形に変わるだろう。そしてその時、私は彼のことを、もっと大事に想っている。そんな、予感がある。その瞬間を、私は知りたい。その先まで、私は彼の隣にいたい。
だから、目の前の女性が、同じ想いを抱いているのだとしても、自ら身を引くような真似はできない。
「相応しいかどうかはわかりませんけど、私は彼が大事です。彼も、私と一緒にいたいと言ってくれました。だから、一緒にいます」
「そんなの、貴方が言わせてるんでしょう?」
思わず、ぶはっ、と噴き出した。
「私にそんな力は無いですよ!」
まだまだ半人前の雪女なのに。そんな私が、彼に何かを言わせるなんて。そんなことができていたなら、もうとっくの昔に、それこそ善さんに出会う前に、一人前になれてるよ!
「っ、ふざけないでよ!」
鋭く飛んできた怒号に、私は口を閉じた。ふざけていたつもりはない。と言いたかったのだが、今にも爆発しそうな勝木さんの顔に、私は言葉が継げなかった。
というか、最初から私の言葉を信じるつもりがない彼女に、私が何を言い連ねても、何も響かない気がする。どうしたものか。




