8.破りたくなかった約束
「――千佳、千佳!」
前と同じで、私を起こす声。でも前回より随分と焦った声。
「う〜……?」
ぎゅ、と腕の中にある物を抱き締めると、無理やり引き剥がされた。
なんだろう。なんだか、身体が熱い、気がする。自分の呼気も熱を帯びている。
ついでに言うと、全身が怠い。特に右手なんて感覚が無い。……無い?
ぎょっとして目を見開いた。がばっと上半身を起こす。どうやら、あのままリビングのソファで寝てしまったようだ。いや、それより問題は、別にある。
目の高さに右手を掲げる――正確には、本来右手があるであろう部分を――。
無い。感覚以前に、手そのものが無い。文字通りの意味で溶けてる!
「わ、私の手が消えたー!?」
「落ち着け千佳!」
怒鳴り声に、びくっと身体を震わせる。
善さんと目が合う。ぐるり、と思考が回る。昨日のこと、それより前のこと、それから、今この状況のこと。
誤魔化しようがなかった。悩む暇も、自ら告白する時間も与えられず、……最悪の形で、ばれた。
突然身体を動かしたことと重なり、目眩が襲ってきた。
小指と薬指が溶けた左手で、私はこめかみを押さえる。
「千佳、俺、どうしたらいい。ご両親に連絡したら、助かるか? 氷を持って来ればいいか? それとも救急車を呼ぶ?」
善さんは、珍しく狼狽えていた。自分が触れると崩れてしまうとでも思っているのか、私から数センチ離れたところで彷徨う手。
……人間(私は人間ではないけど)、自分より焦っている者を見たら、案外落ち着くものらしい。
私はそこで、ようやく冷静になった。
最近はここまで溶けることがなかったから、ついテンパってしまったが、これは単なる体調不良だ。昔、よくなった。連日の猛暑と、昨日の疲れと、……それから、多分、知恵熱が原因だ。
「善さん、大丈夫です。これはちょっとした発熱で一時的に溶けているだけなので、冷たいお水がぶ飲みしたら治ります」
「わかった。水、取ってくる」
彼の行動は早かった。冷蔵庫を開け、普段から私用に冷やしてある天然水のペットボトルを引っ掴むと、すぐに戻ってくる。ついでにマグカップも手にしている。私のではなくて善さんのだけど。凄まじいスピードで水を注いだ善さんに、わざわざ指摘するのも気が引ける。
「ありがとうございます」
にこっと笑い、残った左手でマグカップの持ち手を掴もうとし……手が崩れた。
「あ、溶けた」
熱に浮かされた頭が、思ったことをそのまま口から吐き出させる。
右手も既に無い。どうやってコップを持とうか。困った。参った。うぐぬー、と唸り声を上げる。
「……ごめん」
え、と思うより早く、善さんはマグカップを掴み、私の後頭部に手を添えると、優しい動作で口に水を流し込んだ。ゆっくり、少しずつ。
水をこくこくと飲みながら、私は善さんの手が震えていることを知る。
何杯かの水を飲んだところで、私の両手が復活した。それでも善さんは、私に水を与えることをやめようとしない。
「も、もう良いですよ。あとは定期的に水分補給したら、平気です、から」
「本当に?」
不安げな顔だった。
「本当です」
真っ直ぐに目を見て伝えると、彼はようやく肩の力を抜いた。余程気を張り詰めていたのか――無理もない。人型が溶けたら、誰だってそうなる。むしろ冷静に対処していた方だ――、そのままずるずるとソファの脇に腰を下ろす。
「よかった……っ」
今にも泣きそうな響きだった。
感情が大きく揺れた声。
大切にされていると、嫌でもわかってしまう、声。
ああ、でも、ばれてしまった。
くしゃりと顔が歪む。
それを見た善さんもまた、押し黙る。
「…………」
「…………」
お互い、無言だった。
「……あの、私」
「山で会った、雪女」
みなまで言う前に、善さんが穏やかな口調で、秘密を口にする。
「きみ、だろう?」
「っ、……!」
無言で頷く。頷く他になかった。
彼はどこまで知っていたんだろう。私がどこまで、知っていたのか。どうやってそれを、私が知り得たのか。
訊きたいこと、交わしたい言葉。
それらは口から出て来ない。
御礼も、謝罪も。私と彼の間に壁としてすら立っていてくれない。
「……体調、よくなったら、実家に戻ろうと思います。明日の朝にでも」
数秒置いてから、善さんは目を伏せる。
そうか、と。
一言だけ、呟いて。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
お父さん、お母さん。お元気ですか?
私は、正体がばれたので、そちらへ帰ります。
本文にそう書いたメールを、結局送信することができないまま、朝を迎えた。
気分は憂鬱なのに、両手はしっかりとあるべき場所にあって、発熱はなくて、要するに体調は良い。残念ながら。
私は、自室を見回した。片付け、どうしたらいいんだろう。必要な物、どれだろう。
鞄に財布と携帯とポーチを入れ、次いで家の鍵を指先で摘んだ。ぷらぷらと揺れるそれを、見る。……これは、置いていくべきなのかな。なのだろうな。唇を噛み、机にそっと置いた。
服も、本も、小物類も。どれも手に持つ気分になれなかった。だってどれも、後で手に入る物だから。
仕事は、どうしたらいいだろう。体調不良ということで、休める、かなあ? なんて、社会人失格なことを考える。復帰、いつできるんだろ。あそこには善さんもいるのに?
ぐす、と鼻をすする。油断すると大泣きしそうだ。でもそれは雪女には相応しくない。騙したのは私で、騙されたのは向こう。そういう構図が正しいから。
結局私は、ほぼ着の身着のまま、リビングに向かった。
「おはよう。朝食は?」
「おはようございます。駅で買うので、大丈夫です」
「そう」
ふっと逸らされた視線に傷付きながら、私は深く頭を下げた。
「今まで、ありがとうございました」
返事は無い。
見えないところで大きく息を吸い、止める。顔を上げると、なるべく彼を見ないようにしながら、玄関へ向かった。靴を履いたところで、「駅まで送る」と呼び止められる。
「いえ、一人で大丈夫です」
「……送らせて。お願い」
悲しげな声に、私は動揺する。
結局、押し切られる形で善さんの車に乗ることになった。助手席に乗ろうとして、やめる。後部座席にしよう、きっとその方が良い。横にいると、……見てしまう、から。
車窓から、流れる景色を見る。一昨日の夜には輝いてみえた世界が、今はやけにくすんでいた。朝靄の所為だ。ああ、本当に、そうだったらいいのに。
あっという間に駅に着く。見送りを断り、私は実家方面への電車に乗り込んだ。
人里離れた土地に住んでいる両親のところへ行くには、電車をあと二本は乗り換えないといけない。ついでに言うと、駅から家までもそれなりの距離だ。バスもほとんど動いていないので、いつもなら事前に連絡をして迎えをお願いするのだが、今はそんな気分になれなかった。




