7.彼が私に出逢った日は
家に着くなり、善さんは、くあ、と欠伸をした。最近は特に忙しそうだった。その中で無理を押してくれていたのだろう。
「今日は休みましょう」
お風呂を沸かしても、その間に寝てしまいそうだった。こく、こく、と返事なのか、単に船を漕いでいるだけなのか定かではない首の動き。
手を引きながら、二階の寝室へと連れて行く。善さんの部屋はシンプルだ。必要最低限のものしか無い。色も白と黒でほぼ統一されていて、隙が無い。
結婚するにあたり、お互いのことをまだあまり知らないという遠慮(あるいは配慮)もあり、私と善さんはそれぞれ自室を持っている。正直なところ、掃除以外の目的で入ることは滅多になかった。
ベッドへ彼を転がす。ふう、と一息吐いて身体を起こした拍子に、ガンッと机の角に肘を打った。
「〜〜〜〜〜〜っ!?」
声にならない叫び。
痛みに身悶えながら、自分以外の被害状況を確認する。
机の上……は、整理されていて、落ちる物もない。黒いマウスが、マウスパッドから外れたところにあった。被害はこれだけのようだ。
いそいそと位置を直していると、フォン、とパソコンから音がした。スリープモードにでもしてあったのか、それとも誤って電源ボタンを押してしまったのか。焦っている間に、パスワードの入力画面が現れた。
……それだけの話にしておけばよかったのに。
魔が差した、とでもいうべきか。
キーボードに手が伸びた。
――たぶん。
心が、納得していなかったのだ。
彼の回答に。
無論、それらはただの言い訳だ。他人のパソコンを勝手に見てもいいという免罪符には成り得ない。
そうとわかってなお、私は画面を凝視する。
パスワードのヒント。
――『初めて出逢った日』。
私は迷わず、あの日……彼と雪山で出逢った日を入力する。
数字だけの、緩すぎるパスコード。それはわざとだったのか、否か。
程なくして作業中の画面が表示される。
ブラウザがひとつ。そこに、非公開ブログのページが開かれていた。ログイン状態が維持されており、中を読むことが可能だった。
前に聞いたことがある。パソコンで日記をつけている、と。これが、そうだ。結婚する前から彼がつけている日記だ。
他人の日記を勝手に見るなんて、非常識極まりない。
……でも。
私は、ページをスクロールした。
マイスホイールをくるくる回していた人差し指が、ぴたりと止まる。
【×月○日】
山で遭難した。天気が変わりやすいという知識はあったが、認識が甘かった。以後、よく反省し、次回に備える。反省点は別途纏める予定。
それとは別に、遭難時、奇妙な体験をした。夢かもしれない。しかし、それにしてはリアルだった。
彼女(彼女は規律上、最後まで自分の名前等を明かすことはしなかった)は、自分は雪女だと名乗った。昔話で出てくる雪女とは違い、人ならざる冷酷さは感じられない……それどころか、何故か彼女は酒瓶を片手に掴んでいた。
たじろいでいたかと思えば、まるで自暴自棄の如く酒を煽りながら、一族の愚痴をずっと話していた。妖怪といえども、悩みなくして生きることはできないようだ。
強い酒を持ってきた割に、酒に弱い性質だったようで、彼女はすぐに酔い潰れた。典型的な酒に飲まれた人間だった。彼女曰く、人間ではないそうだが。
酒の力で真っ赤に染まった顔から、水が滴っていた。彼女が酔い潰れる直前まで言っていたとおり、どうやら本当にすぐに溶ける種族のようだ。難儀である。興味本位で溶けた水に触れたら、温かった。
目を覚ますと姿が無かったので、夢である可能性も高い。不思議な出来事だった。
【×月△日】
雪女の彼女は、自分の同僚だったようだ。夢ではなかったらしい。
出会い頭に結婚を申し込まれた。
以前に話していたことが本当なら、雪女は一度結婚しなければ、一人前とは認めらないそうだ。相当切羽詰まっているのであろうことが窺える。それにしたってやりようがあるだろうに、ストレートに話を切り出す彼女に、可笑しさを覚える。
幸いというべきか、元々俺は結婚願望が薄い。自分の考えを覆す程の衝撃的な出来事が発生しない限り、独身を貫くだろうから、人――否、妖怪助けの一環で結婚するのもいいかもしれない。両親も多少は安心するだろう。それに、雪女の私生活というのも、多少興味をそそられるところではある。
お互いの利害が一致し、婚姻に至る。
――やはり彼は知っていた。気付いていた。はじめから。
酒で記憶が吹っ飛んでいる『あの日』。
私はいったい、彼に何を、どこまで話してしまったんだろう。
唇が震える。
純粋な興味から始まった関係。
日記には、なんでもないような日常がさも特別なことのように記されていた。……ああ、こうして改めて見ると、私、結構溶けてる。
どうやら私は、観察対象、だったようだ。
ここ半年の生活を思い出しながら、私は一人浮かれていた自分を恥じ入る。
やっぱり、彼にとって私は、それ以上の存在ではなかった。
見るんじゃなかった。勝手に見ておいて、言えることでもないけれど。
(――あ)
水族館のことが、書いてある。
日付は、二週間も前。そんな前から、探していたのか。
取り留めもない言葉で、彼にしては纏まりのない文章で、綴られている。
『夏場だから、涼しい場所にしよう。日光はなるべく浴びない場所』
『会社の人間に会うと、気が散るようだから、多少遠方から探す』
『彼女が喜びそうなところ。喜びそうなものって、なんだろう』
デートも、エスコートも、きっと彼のことだから、慣れているのだろうと思っていた。デートスポットも日程も、もっとスマートに、即断即決しているのだと思っていた。違ったのだ。知らなかっただけ。それがたとえ観察対象に向けるただの興味だったのだとしても、……こんなにも彼は私のことで、悩んでくれていた。
――数行。
迷いが現れたかのように、空行が入る。
『思えば、遠出もろくにしてこなかった。彼女は、俺といて楽しいんだろうか。……愚問だ。彼女は一人前になる為に、俺と婚姻関係を結んだだけだ。本当に喜ばせたいのだったら、俺はただ、口にすればいい。以前に、雪女と会ったのだ、と。きみの正体を知っている、と』
スクロールが止まる。
最新の記事は昨晩の日時で投稿されていた。
たった二行の、短い日記。
【○月□日】
俺は雪女の夫として、失格だ。
彼女を一人前にしたくない。
どくん、と心臓が跳ねた。
「……あ、あれっ?」
机が濡れていた。頰を熱いものが伝う。その熱で、私は溶ける。
嗚咽を堪えながら、私は必死にパソコンの電源を切った。
知らないことにしたかった。
――気付かないフリを、して。もっと。
そう言えたら、どんなに良いか。
でもそれは彼を縛り付けるということだ。
なんだか、頭がくらくらする。
オーバーヒートしそうだ。いや、もうしているのか。なんとかリビングに辿り着き、放置してあった巨大なカメぐるみを、なんとはなしに抱き締める。
善さんの実家に行って、水族館に行って……日記を、盗み見て。
とても、疲れた。
私は、そのまま落ちた。




