4.指先が覚え始めた温度
デスクに戻り、思わず突っ伏す。そうでもしなければ、口から大きなため息が漏れ出てきそうだった。ため息と一緒に魂までも抜け出ていきそうだ。
「松雪さん、松雪さあ~ん」
隣のデスクにいる後輩――土屋さんが、ちょんちょんと私の二の腕をつつく。突然の攻撃に驚き、ガバリと起き上がった私に、「わっ」と私以上に驚く土屋さん。目を真ん丸くさせた顔に、思わずふっと笑ってしまった。
「あ~っ、ひっどーい! 笑うなんて! 驚かせたの松雪さんなのに!」
ぷっくううう、と頬を膨らませる土屋さんに、ごめんごめん、と言いながらもやはり笑いが治まらない。先程まで沈んでいた反動か。
「それで、何?」
「あ、森山さんからの伝言で~」
森山さんは土屋さんが担当する営業さんだ。村岡さんと同期。
「DJACコーポの勝木さんには、注意するようにって」
勝木。なんともタイムリーな名前に、ビクリと肩が震えた。凍りついた私を見た土屋さんは「もしかして……遅かったです?」と眉を寄せた。迷ってから、「さっき廊下で」とぼそぼそ答えれば、あちゃー、と頭を抱えている。
「ぜ――古市さん関連?」
それもご存じですか。むっつりとした表情で唇を突き出した彼女は、森山さんから注意喚起された背景を事細かに教えてくれた。
「あの人、森山さん担当のお客さんなんですけど、なんていうか……完璧主義者で。自分が一から十まで知らないと気が済まないタイプの人なんですよ。それで以前に、システムの事も直接説明を受けたいって仰ったことがキッカケで、古市さんが打合せに同席するようになったんですけど、……どうもその、えーと、気に入っちゃったみたいで」
「気に入る」
「あ! でも古市さんは全然! 全く! 興味無さそうでしたけどね!?」
両手を左右に振りながら弁解する彼女に、うん、と返す他無かった。
「今日も三人で、……三人で! 打合せなんです。で、あの、少し前にですね、その辺りの事情知らない人から、古市さんが結婚したことが勝木さんの耳に入ってしまって。万が一にも妙なことになっても困るし、松雪さんに言っておいて、って森山さんが~」
なるほど。その『万が一』が危惧していた通りに発生して、かつ、忠告が一歩遅かった、と。私は午前中からシステム課との打ち合わせが立て続けに入っていたから、朝礼終了直後に離席して、ずっとデスクに戻っていなかった。これが情報伝達が遅れた大きな要因だろう。――まあ、忠告を先に受けていたとしても、回避できるようなイベントではなかったけれど――。
次からは前もって予定伝えますね、とありがたいのかありがたくないのか、若干反応に困る助力宣言を頂き、私はまた机に突っ伏した。
「……いっそ溶けたい」
思わず本音を零せば、溶けてる場合じゃないですよ~、と何も知らない後輩は、私の肩をぽんぽん叩きながら、「温かいもの飲んだら、きっと心が落ち着きますよ。ね?」と湯気が立つお茶を私の目の前に置いた。気遣いが辛い。これ飲んだら本当に溶けちゃうからね、私。自嘲しながら、マグカップを煽る。
あまりの熱さに涙が零れた。
その夜、善さんはいつもの時間よりも少し遅く帰ってきた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
いつも通りの素っ気なさに、ほっと胸を撫で下ろす。何も変わらないことに幸福を感じる。肩から力が抜けた。無意識に強張っていたようだ。
「そうだ」今思い出した、と言わんばかりの声。漠然と、嫌な予感がした。「昼間のこと、ごめん」
息が詰まる。善さんの言葉に、他意はひとつもない。嫌な思いをさせてごめん。それくらいの、気持ち。わかっている。よく、わかっている。
でも、
「……なんで善さんが謝るんですか?」
わかっているのに、口から漏れた言葉ははっきりと棘を持っていた。
震えた言葉を投げつけられた彼は、きょとんと不思議そうにしている。
謝らないで欲しかった。他の女の人のことを、私に、貴方が、謝らないで。まるで彼女の代弁のようなこと、しないで。彼女を自分の背後に置かないで。彼女の代わりになんてならないで。私を、貴方と対峙する存在にしないで。
じゃあどうして欲しかったのか。そう問われても、困るくせに。
そんな権利が貴方にあると思っているのか。そう問われたら、答えられないくせに。
自分が放った言葉の正体が、どうしようもなく不完全な感情そのものであり、完璧な八つ当たりだということを、私は知っていた。
謝らなくちゃ。そう思うのに、口からは肝心の音が出ない。ここで謝らないといけない、引き摺ったところで何も利点は無い。わかっているのに。
それすらできずに、凍りつく。
「千佳?」
ここにきてようやく不審そうに目を細めた善さんの視線から逃げるように、私はキッチンへ向かった。
「夕飯、できているので。ちょっと待ってくださいね」
無理やり笑えば、彼はそれ以上、踏み込んでは来なかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
悶々としながらも、過ごす日々の在りようは変わらなかった。元よりそれだけの関係性だったのだ、と切り捨てれば余計に心が痛む。
機械のように単調に仕事をこなし、村岡さんからは「お松さんやい、そろそろ怖いんだけど……」というお言葉を賜った――おかしいな、笑顔は絶やさなかったはずなのに――、そんな金曜日の夜。会社を出ようとしたところで、善さんに捕まった。部署は離れているのに、どうしてここに。なんていうタイミングの良さ。偶然にしてはできすぎている。
「情報リーク受けたから」
「リーク?」
「千佳が帰りました、って。土屋さんから、森山へ。森山から、俺に」指で三角をなぞるような動作をしている。「悪いが、超能力ではない」
彼なりの冗談だろうが、その割にはあまりにも生真面目な顔だ。それくらいはわかります、と可笑しくなって笑みを零す。
「……笑った顔、久々に見た」
「え?」
ぱちり、と瞬きをする。そうだっただろうか。そういえば、村岡さんも同じことを言っていた。自分では上手くできていたつもりだったのに。
「わ、私より、善さんが笑った顔の方が、レアだと思いますけど」
反撃のつもりで放った一言は、大した攻撃力を擁さなかったようで、善さんは不思議そうに「レア? そうか?」としきりに首を傾げていた。……善さんの笑顔の定義を、一度詳しく聞きたい衝動に駆られる。レアではない、と主張する根拠はいったい何。よもや日常的に笑っているつもりだったとでも。
……いや、今追及するべきはそれではない。
「それで、どうしたんですか?」
家に帰れば顔を合わせるのに、どうして、土屋さんや森山さんを巻き込んでまで、今、わざわざ会いに? その疑問も合わせて訊ねれば、本人は更に首を捻った。
「言われてみれば。どうしてだろう。自分でもわからない。経緯としては……夕方に村岡からSOSが入って」
「村岡さんから?」
「『お松の笑顔が怖い。あれは噴火五秒前だ。助けてくれ』って」
「なっ……!?」
村岡さん、何言ってくれてるんですか! 心の中で呪詛を唱える。そういえば、週末に家族サービスで遊びに行くって言ってたな。……雨に降られればいい。奥さんと子供に罪は無いから、局所的大雨が発生して、村岡さんの頭の上だけ土砂振りになればいい。必死に仕事上のパートナーを呪っている私の顔を善さんが覗き込んだ。
「思ったよりも元気そうだ」良かった、と彼は零した。「噴火なんかしたら、千佳が溶ける」
「…………え?」
呼吸が止まった。
「それ……」どういう意味ですか、と訊ねる前に、特段気にしていなさそうな彼が「で、用事のことだが」と別の話題に切り替えてしまう。
「盆休みの初日、俺の実家に行かないか」
「い、良いですけど。……ええっと、初日、何かありましたっけ」
「父さんから要請が入った。母さんが千佳と話したいようだ。あの人は娘に飢えている」
顔を合わせる度に過剰なまでの歓待を受けたことを思い出しながら、納得する。四人の子供がそれぞれ巣立ち、寂しいという感情もあるのだろう。うちの親からも「次の休みは帰ってくるのか」と定期的にメールが入る。
善さんに手を掴まれ、急に意識を引き戻される。未だに手を繋いで歩くようなこともしていない私からしたら、これはとんでもない事態で、我ながら耐性が無さ過ぎると思いつつも、知らず顔が熱くなる。こめかみから、つ、と水が伝った。
「一泊して、次の日はドライブして帰ろう」
とどめとばかりにレアな笑顔を見せつけられる。言葉を失いこくこくと頷くことしかできない私に「じゃあまた後で」と声を掛けると、腕時計で時間をチェックしながら慌ただしく戻っていく善さん。おそらく仕事が終わっていないのだろう。無理をして抜け出して来たのかもしれない。ぼーっとしながらその背中を見送った私は、はたと気付く。
――『溶ける』発言に関して、答えが出ていない。
結局あれは、どういう意図があっての発言なのか。アウトか、セーフか。
確認しなくてはいけない。
でもそれは……ドライブの後にしよう。
もしそれが最後の思い出になってしまったら、私は――
「……本当に、溶けてしまいたい」
きっと、泣いてしまう。




