5.私が手繰り寄せた運命
「善くん、千佳ちゃん、いらっしゃーい!」
玄関までお出迎えに来てくださったお義母さん――そう呼んで欲しい、と潤んだ目で懇願された――に、手土産を渡す。
「きゃああ! ここの焼き菓子、大好きなの~!」
ありがとう、と花が咲くように顔を綻ばせたお義母さんは、女性の私から見ても大変可愛らしい。羨ましくなるくらい。後ろ暗いところなど何ひとつ無い笑顔は、きっと昔から善さんやお義父さんを癒して来たのだろう。
「今紅茶を淹れるわね。この前貰った茶葉があるの」
とっておきなのよ。ウインクをひとつ投げると、彼女は鼻歌をうたいながらお菓子を片手にキッチンへと消えた。
「相変わらず、マイペース」
それ、貴方が言いますか? じとりと半眼になる。善さんも十分すぎるほどにマイペースだと思う。
リビングでは、お義父さんがゆったりとソファに腰掛けながら、コーヒーを飲んでいた。手にはビジネス書。垣間見えた見開きの文字数の多さに、眩暈がした。そんな私にちらとも気付かず、善さんは「父さん」と話し掛けた。
「おお、来たのか」
「うん」
「…………」
「…………」
会話、終了である。両者ともに、特に気まずさは感じていないようであるが、正直私は居た堪れない。何かをしなくてはいけない、という焦燥感に駆られる。しかし何をしたら良いのかわからず、それどころか何かを口にした途端に余計に空回りする予感がして、ぴくりとも動けない。なんだろう、この無意味な緊迫感は。
「……あ、私」ようやく出た自分の声は、まるで自分のものとは違っていた。あまりにか細い。「あの、……お、お義母さん手伝ってきますね」
いそいそとその場を離れ、キッチンにいたお義母さんに声を掛ける。ぱちりと大きな目を何度か動かした彼女は、ああ、と得心したように笑った。
「逃げてきたのね」
「う……」
ばれている。顔を強張らせた私に、お義母さんはころころと鈴を鳴らすように笑う。そればかりか「いいのよ、いいのよ。私でも逃げちゃうわ。無言の空間って怖いわよね」とフォローを口にしてくれた。気遣いに慣れている彼女は、適度に私に仕事を割り振って、ここにいる理由を与えてくれる。私はありがたくそれを受け取ると、お義母さんの隣に並んだ。
「結婚生活はどう? ほら、あの子、何も言わない方でしょう? 困っていることは無い?」
「えぇっと……そう、ですね」困ったこと、困ったこと。話が途切れないようにと話題を探すが、特に思い浮かばない。それでつい、彼の母親に言うべきではないことを口にした。「なんで結婚してくれたんだろう。なんで私を選んでくれたんだろう、って思います」
「それはとても難題ね」
わざと気難しげな口調で、彼女はおどける。
「……実を言うとね、私も同じことを思っているのよ」
びっくりして、手にしていた物を取り落しそうになる。善さんのご両親は、まるで理想の夫婦だった。しっかりした息子さんを持つ、おしどり夫婦。そんな彼らでも、同じことを悩んでいるなんて、不思議だ。
「でもね、ある日気付いたの。そんなの、どうしたってわかりっこないって。だって私は、彼じゃないんだもの。私は、私の気持ちだってわからないのに」
棚から取り出したお茶請けを綺麗に並べながら、彼女は静かに微笑む。
「もしあの時に出会ったのが、彼じゃなかったとしたら、私は彼を好きになったのかしら。別の相手だったら、どうなったのかしら。同じように恋に落ちていたかも。もしかしたら、今より笑っていたかもしれないわね」
彼女の放つ一言ひとことが、自分の心に刺さっていく。私は彼に会うまで失敗続きだ――いや、それは今でも変わらない。私の連敗記録は今だって終止符を打たれてはいないのだから――。もしその途中で、彼より先に誰かと『成功』していたら、私はきっと彼を好きにはならなかった。あるいは、あの日を、あの場所を、あの山小屋を選ばなければ、そもそも彼と出会わなかった。起きていたのがもう一人の男性で、寝ていたのが善さんだったら――そういう道も、確かにあったのだ。
「でも、私が出会ったのは、彼です」
つい言葉が零れていた。お義母さんはちらりと私は横目で一瞥して、「そうね」と優しく目を細めた。
「だから私はこう考えることにしたのよ。『私は無数に広がる道の中から、彼を選んだの。私が、運命を決めたの』って。――千佳ちゃんも善くんも、みんな同じよ。誰も彼も、意識して自分の運命を決めたわけじゃないの。理由なんて全てが後付けで、きっと無意識に、この人と会いたい、って、赤い糸を繋いじゃったのよ」
そう言いながら、彼女は自分の小指を掲げ、ふふっと可愛らしく笑いながら小首を傾げてみせた。
自分の手元に視線を落とす。私の小指には、赤い糸がちゃんと伸びているのだろうか。それはひょっとしたら途中で途切れているんじゃないか。一度そう思ってしまったら、お義母さんのようには笑えなかった。
「善くん、夜、ちゃんと眠ってる?」
「え?」
突然変わった話に、目を白黒させる。落ちていた思考が、余計に反応を鈍らせた。
「……あ、はい。というより最近は、家に帰った途端にぐったりしてます。お盆前で、仕事、立て込んでるみたいで。よくソファでうとうとしてます」
「そうなの。やっぱり会社勤めって大変なのね~」
みんな偉いわねえ。感心しているお義母さんの姿に、うちの母は会社に勤めたことが無い、と善さんが言っていたことを思い出す。
「でもあの子、寝顔可愛いでしょう? あどけない感じになって」
連想したのは、自分の肩に寄り掛かる彼の姿だった。夢現の合間に、私に「結婚して良かった」と囁いた彼。ボンッと顔から湯気が出る。確かに、可愛かった。真っ赤になる私を見るなり、お義母さんは、ふふふと可笑しそうにしている。
「安心したわ。善くん、なかなか人前で眠ったりしない子だから。私も滅多に見られないのよ。貴方の前では気が緩むのね」
え、と声を上げている間に、お義母さんは、ティーカップとお茶菓子をお盆に乗せ、「さあ行きましょう!」とキッチンから出て行ってしまう。慌てて後に続きながら、最後に言われた言葉を脳内で繰り返し再生する。何も返せなかった分だけ、出口を失ったその言葉は私の中に居座っているようだった。
気、緩んでいるのだろうか。リラックス、してくれているのだろうか。
だとしたら――とても、嬉しい。
それが嘘偽り無い本心だと自覚した私は、自分の罪深さに怯えながらも、緩む頬を止められなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
次の日。夕方に差し掛かろうという頃、「もう一泊していってもいいのにー」と名残惜しそうにしているお義母さんに頭を下げ、出発した。
「疲れた」
「善さん、ご実家から出て、開口一番にそれは……」
「そうか。なら、――疲れた。とても」
「変わってない!」
ハンドルを握って前を真っ直ぐ見ながら、いつも通りの無表情のまま、疲れた疲れた、と繰り返す彼に、苦笑を禁じ得ない。楽しんでいたようにも見えたが。
「どこに行くんですか?」
「それは」口角が少し上がる。「着いてからのお楽しみだ」
揶揄するような、子供っぽさの残る表情だった。
夏のドライブは、本当は少し、危険だ。それでも昼間のように直射日光にさらされない分、安全と言える。
白い光を放つ街路灯が、次々と後方へと流れていく。結構、遠くまで行くんだな。私は助手席で、呑気にそんなことを考えていた。
「……――か、千佳。起きて。着いた」
「ふぇ……?」
肩を揺すられ、夢の世界から引っ張り出される。夢。……夢?
「あ、あれ!? 私、寝てましたか!?」
「気持ちよさそうに」
間髪を容れず肯定され、うう、と呻く。車の揺れが心地よいなあ、などと考えてぼーっとしていたのが敗因だ。
「ご、ごめんなさい。善さんの方が疲れてるのに」
よりにもよって、ぐっすり。しかも目的地に着くまで起きないとは。
「気にしなくていい」
善さんはいつも通りの無表情だ。内心では怒っているかもしれない。どうしよう、半年経っても、善さんの心が読めない時がある。むしろ読めない時の方が多い。嫁失格だ。がっくりと項垂れる。そもそも事情が事情だけに、嫁と名乗っていいのかという疑問はさておき。
「それで、ここはいったい、……あ、水族館、ですか? 夜間もやってるんですね」
視線を巡らせれば、同じように車から降り、施設に向かう人の姿が見受けられた。
「夏限定イベント」
端的な答えを得る。
「来たかったんですか」
「うーん」
何故か曖昧な返答だった。うん、とも、そうでもない、とも取れる。
蒸し蒸ししている外と比較し、施設の中はひんやりしていた。これなら私も過ごしやすい。久々に快適な空間だった。
「なんだか悪いコトしてる気分になりますね……! わくわくします」
歩きながら、忙しなく右へ左へと首を動かす。施設内はいつもより暗い。幻想的なライトアップと相成り、どこかの異空間を探検している気分になる。そうでなくても、夜間の水族館なんて入ったことがない。『本来なら入ってはいけない場所』だ。なんともいえぬ背徳感が、高揚感を更に助長させる。
「喜んでもらえたなら、良かった」
声が甘かった。もしかしたら、彼は笑っていたのかもしれない。けれど暗い照明の下では確認することができなかった。残念だ。
大人っぽく、優しい声が耳を撫でると、なんでか、はしゃいでいた自分が恥ずかしくなる。
もしかして……、と期待してしまう。私が喜びそうな場所、選んでくれましたか? なんて。都合の良い期待を持ってしまう。
変に激しくなる動悸を知ってか知らずか、善さんは私の指と自分の指を絡ませた。ばく、と胸が跳ねる。そのうち破裂しそうだ。
「イルカショー、観に行こう。時間もうすぐみたいだから」
「は、はひ……」
我ながら、間の抜けた返事だった。
どうしよう、こんなに涼しいのに、私の指、溶け始めてる。手汗の多い女だと思われたら、ちょっと……いや、かなり悲しい。




