第3章 第6話
突っ込んでくるタクシーに最初に気が付いたのは振り返ったヒロト本人だった。ほとんど同時に由希子もまた、その危機に気が付いた。あっと声にならない息の塊のようなものが由紀子の口から洩れた。絶体絶命と思ったかどうかという僅かなタイミングをヒロトはスローモーションのように感じた。
そして、瞬間。
バン!と大きな音がした。ヒロトがゆっくりそちらを見ると、自分と目と鼻の先、ガードレールにぶつかって歩道にもタイヤが乗り上げて止まっているタクシーがあった。ヒロトとの隙間は、僅か30cmというところだろうか。自分は無傷だ。そう理解できた途端にヒロトはその場に座り込んだ。
キャーッ。5秒ほどタイミングの遅れた由紀子の悲鳴の後、タクシーから運転手と、そして後席から降りるはずだった客が怒りながら降りてきた。タクシーの車体以外、不思議とみんな無傷だった。
「何すんだよ!」立ち上がったヒロトは気を取り直して声を上げ、運転手に迫った。運転手はしばらくの間、怒ったヒロトと乗客の双方にペコペコと頭を下げていたが、乗客が金も払わず通りの向こうへ歩いていくと、ヒロトにニヤニヤと媚びるような笑顔で近づいてきた。由紀子には、それが事故にはなってないですよね、と言いたいのだと判った。
「大丈夫ですか?」随分とテンポが遅れて橘がやってきた。「もう、少しくらい慌てたりしないわけ?」なんだか八つ当たりのように由紀子は橘に噛みついた。「まぁ二人とも、怪我が無さそうで良かったですよ」一人だけ感覚がずれたような橘の態度にはすこしイラっとしたそのうち、タクシー運転手との話を終えてヒロトが戻ってきた。
「ヒロト、大丈夫なの?」
「それがさ、ぶつかる寸前に急にタクシーがスリップしたみたいに斜めに滑ってさ。それでガードレールとぶつかってくれたから、俺は怪我しなかったんだよ」
ほら、とヒロトが指をさした方を見ると、道路の一部分だけが雪が降った後のように凍りついていて、その上にタクシーが乗ってスリップしたようだった。
確かにすごい奇蹟。TVの世界驚き映像番組みたいだと由紀子は思った。
「とにかくさ、タクシーの運ちゃんがお詫びに俺を家までタダで送ってくれるってさ」
そんな事で手を打ったのかと由紀子は呆れたが、ヒロトらしいと言えばそうなのだ。最後の所で、良い感じのテキトーさがあるのがヒロトだった。タクシーは歩道に乗り上げて止まっていて、バンパーなんかも酷くへこんでいた。でもバックして車道に戻ると、見た目はともかく走る分には問題が無さそうだった。
「じゃぁ、俺は行くから」さっきの不機嫌な表情に戻ってヒロトはタクシーに乗っていった。由紀子にはバイバイと手を振る隙も与えなかった。ヘッドライトが斜めを向いたタクシーが、走っていくとまた、冷たい風を感じた。由紀子の後ろにはマッチ棒の頭のように赤いヘルメットを被ったままの橘が、直立不動で立っていた。
「ヒロトさん、怪我が無くて良かったですね」「そうね、マッチ棒さんもご無事なようで」
「え?」「なにが?」
「マッチ棒ってなんですか?」「いえいえ、なにも申しておりません」
「でも、いま・・・」きょとんとした橘だったが、それ以上由紀子には何も言わなかった。
「だけど、よくこんな場所が凍っていたと思わない?」
「そうですね、本当にここだけですからね」
二人は白く凍り付いた車道をあらためて見た。「凍ってるよね?どう見ても」
由紀子が言うと、橘もマッチ棒の頭でコクリと頷いて見せた。それがおかしくて由紀子はくすっと笑った。「何がおかしかったんですか?」「いいえ、なんでもありませんよ、マッチ棒様」「え、なんですか、僕をバカにしてませんか?」
由紀子は可笑しくて、声をだして笑ってしまった。「いいじゃない、最後に様をつけて呼んであげたんだから」
「なんで、僕がマッチ棒なんですか」もう橘も笑い出してしまっていた。
「じゃぁ、火を点けちゃうぞ」橘がヘルメットの頭を由紀子に向けて突き出した。
「ちょっと、なにすんのよ」由希子は、そんな橘がおかしくてはしゃぐ様に体をひねって避けた。すると、その時また不思議な事が起こった。由紀子は橘の後ろのビルの脇の狭い路地の奥を横切る何かを見てしまった。「え・・・・・・」
それは、こんな所に居るはずのないようなものだった。それは全身に毛が生えた四足の生き物で、そして立派な角が生えていた。「鹿?」
「しか?」橘は振り返ると由紀子が指さした方を見た。
「何もいないよ」
由紀子が見た鹿は、すでに路地を横切ってしまい見えなくなっていた。
「今・・・、見なかったの?」「うん」
さすがだ。タイミングにまたついて来れなかったんだ、そう由紀子は思った。
「いま、鹿みたいなのがいたの、でもすごく大きかった」
「まさか、奈良県じゃないんだから」「ほんとに見たの」
なんども由紀子が見たと繰り返すので、橘も、そうかそうかと聞いてみせた。しかし信じているようには由紀子には見えなかった。
「信用しないなんて酷いよね」
「いや、そうは言ってないけど」
焦る橘が面白くて、由紀子は詰め寄って、からかってみせた。その時。
”お前は誰だったんだ!!”
「うわっ」昼間も一度見せたように橘は他の誰にも聞こえない、その声に驚いてその場でうずくまりヘルメットごと頭を抱えた。
「また、声が聞こえたの?」
「うん」
「病院に行った方が良いよ」
橘は立ち上がると。
「平気だよ、声が聞こえる以外には別に体に異常は無いんだ。それに病院で話しても誰も本気にしないよ」橘はこの声が空耳だとは思えないと言った。だから空耳や幻聴なのだからと病気扱いされるのが嫌なのだった。
結局、鹿の姿も不思議な声も何も原因がわからないままだった。そして由紀子は橘にバイクの後ろに乗せて帰って欲しいとせがんだ。
「いいでしょ?いろいろ心配してあげたんだから」
「だめだよ、原付だから二人乗りは禁止されてるんです」
「ちょっとくらいなら、平気だって。帰る方向だって一緒なんだから」
由紀子は橘の住む家が、あのピザレストランの辺りだと決めてかかっていた。確かにそうなのだが、橘からすれば、ヘルメットだって一つしかないのに無理を言うにも程があるというものだった。
「いいじゃん、バイクの方が電車より早いんだもん」
「それって、理由にもなってないでしょ」
結局、押し問答に負けた橘はヘルメットを由紀子に被せた。大きくないシートに自分が座ると、自分の背中とピザを運ぶための収納ケースの間に無理やり由紀子の体を割り込ませた。
「じゃぁ・・・いくよ」
ノーヘルのままの橘は、後ろに由紀子を乗せて走り出した。由紀子は橘の体にしがみついて、肩の横から、スピードによって溶けるように流れていく街明かりを眺めていた。
冷たいはずの冬の風も今夜はなんだか、マシに思えた。
「大丈夫ぅ?」ときどき橘は、由紀子の方を半分くらい振り返って聞いた。
「うん」橘の背中は思ったより大きかった。冷たい風を感じないのはこの広い背中の後ろに隠れているからかもしれなかった。
由紀子のいつもの指を組むおまじないよりも、今夜の夜景はもっともっと優しくて丸い気持ちになれる。ビルの隙間から青い月が見えた。大きさも丸さ加減も完璧だった。
そんな二人の事を空の上から一頭のトナカイが見下ろしていた。
「やれやれ、あれじゃまるで本当の人間じゃないかい。困ったもんだよ」
トナカイは頭の上の立派な二本の角で軽く夜の霞を切って、雲の階段に向かってゆっくりと走り出した。四本の細長い脚をリズムを刻むように操った。とても美しい走り方だった。
「ほんとうに、自分が誰だったか忘れちまったのかねぇ」
上空の風が空の塵を吹き飛ばして、今夜の空はいつもに増して澄み切っていた。