第28話 デート
【リリア視点】
クーデの街に、穏やかな朝が訪れていた。
東の空から差し込む黄金色の光が、石畳に残った朝露をきらきらと輝かせている。
吹き抜ける風には、露店で焼かれる魔物肉の香ばしい匂いと、どこか遠くで咲いている野花の甘い香りが混ざっていた。
街はすでに活気に満ちている。
荷馬車の車輪が軋む音。
商人たちの威勢の良い声。
遠くから聞こえてくる、鍛冶屋の金槌の音。
それらが混ざり合って、今日もクーデの街は一日を始めようとしていた。
私は、古い馬小屋を改装して作った小さな治療院の前で、木製の看板を布で丁寧に拭いていた。
少し前まで、ここはガイアが一人で暮らしていた古びた馬小屋だった。
それが今では、私の治療院と、アリカちゃんの修理工房と、ガイアの『失せもの探し師』の受付を兼ねた、三人の家になっている。
大きな屋敷でもなければ、立派な建物でもない。
雨の日には屋根の一部から水が漏れるし、アリカちゃんが機械をいじり始めると朝から晩までガンガンとうるさい。
それでも私は、ここが好きだった。
扉を開ければ、いつも誰かがいる。
朝になれば三人でご飯を食べて、それぞれの仕事へ向かう。
夜になれば、今日あったことを話しながら一緒に食事をする。
そんな毎日が、今の私には何よりも大切だった。
聖都での一件以来、私は『聖女』と呼ばれることが増えた。
淡い緑色の治癒魔法で傷や病を癒やすたび、患者さんたちは何度も頭を下げてくれる。
でも、私自身は聖女になったつもりなんてなかった。
困っている人がいたら治したい。
痛そうな人がいたら、少しでも楽にしてあげたい。
ただ、それだけだ。
今日も治療院を開ける準備をしていると、大通りの向こうから、見慣れたふくよかな姿が歩いてくるのが見えた。
「おはよう、リリア。今日も朝から精が出ているねぇ」
「お母さん! おはよう。今日はどうしたの?」
「どうしたもこうしたもないよ。あんたたち、朝から麦とミルクばっかりで、まともなもの食べてないんじゃないかと思ってね。ほら、焼きたてのパンだよ。アリカちゃんとガイアの分もあるからね」
私のお母さん、マーサは、大きな籠を抱えて笑っていた。
籠の中には、まだ湯気の立つ丸いパンがぎっしり詰まっている。
ふわりと漂ってきた小麦の香ばしい匂いに、お腹が小さく鳴った。
「あっ……」
「ほらねぇ。やっぱり腹減らしてるじゃないか」
「ち、違うよ。今のはたまたま!」
私が慌てて否定すると、お母さんは豪快に笑った。
お母さんは、この街でパン屋を営んでいる。
孤児だったガイアのことも、小さい頃からずっと気にかけていた。
お腹を空かせて店の前をうろうろしていたガイアに、売れ残ったパンを渡したことも一度や二度ではない。
私たちが三人で暮らし始めてからも、お母さんは何かにつけて様子を見に来てくれる。
「ありがとう、お母さん。あとでみんなで食べるね。アリカちゃんは裏で車の修理をしてて、ガイアは朝から探し物の依頼に出かけてるの」
「そうかい。アリカちゃんもガイアも、すっかり街の働き者になっちまって。本当に立派になったもんだねぇ」
お母さんは目を細めた。
その視線の先には、馬小屋の壁に立てかけられた一本の長い棒がある。
昔、ガイアが武器代わりに使っていた物干し竿だ。
あれを持って飛び出していった日から、ずいぶん遠くまで来た気がする。
ゴブリンと戦って。
神の小指と戦って。
アリカちゃんと出会って。
聖都まで旅をして。
神の目を倒して。
最後には、巨大な両足と競走までした。
思い返してみても、信じられないことばかりだった。
「……ところでさ、リリア」
「なに?」
「あんた、いつまでこうしているつもりだい?」
「えっ?」
お母さんの声が、急に少し低くなった。
私は看板を拭く手を止める。
「いつまでって……治療院なら、ずっと続けるつもりだけど」
「仕事の話じゃないよ。ガイアとのことさ」
「えっ」
今度は、本当に声が出なくなった。
お母さんは腕を組み、呆れたように私を見る。
「あの子とは、小さい頃からずっと一緒。命がけの冒険までして、今じゃ一つ屋根の下で暮らしてるじゃないか」
「そ、それは……」
「若い男女が同じ家で毎日寝起きして、いつまでも『ただの幼馴染です』って顔してる方がおかしいだろう?」
「お、お母さん!? な、何を突然……!」
顔が一気に熱くなった。
心臓がドクンドクンと早鐘を打つ。
私は逃げるように看板へ視線を戻したけれど、お母さんは容赦してくれなかった。
「ガイアと住むなら、もう結婚しちまいな!」
「け、結婚!?」
思わず大声が出た。
通りを歩いていたおじさんが、何事かとこちらを見る。
私は慌てて口を押さえた。
「あの子なら、私は大歓迎だよ。ガイアのことは小さい頃から知ってるしね。ちょっと頼りないところはあるけど、根は優しい。あんたのことだって、誰より大切にしてる」
「で、でも……ガイアは私のこと、ただの幼馴染としか思ってないかもしれないし……」
「そうかねぇ?」
「それに、神様のパーツを集める旅だって、まだ終わってないし……」
「そんなのと恋愛に何の関係があるんだい」
「えぇっ?」
お母さんは、きっぱりと言い切った。
「世界のどこかに神様の頭が隠れてようが、巨大な足が走り回ってようが、人は飯を食って、寝て、好きな人と一緒に暮らすんだよ」
「お母さん……」
「世界が落ち着くのを待ってたら、いつになるか分かったもんじゃないさ」
ものすごく乱暴な話なのに、妙に納得してしまった。
それはたぶん、ガイアも似たようなことを考えているからだ。
世界がどうなるかより、今日のご飯。
神様がどうなるかより、目の前にいる人。
ずっと、そういう人だった。
「待ってるだけじゃ、何も進まないよ。今日は天気もいい。夕方にはガイアも帰ってくるんだろう?」
「う、うん」
「だったら、たまには二人っきりで出かけてきな。デートってやつさ」
「デ、デート……」
その言葉だけで、また頬が熱くなる。
「じゃあ、私は店番があるから帰るよ! パンはちゃんと食べるんだよ!」
お母さんは私の背中をバンバンと叩いた。
「いたっ、いたいよ、お母さん!」
「それくらい勢いつけないと、あんたはいつまで経っても動かなそうだからね!」
そう言い残し、お母さんは嵐のように去っていった。
私は一人、パンの籠を抱えたまま立ち尽くす。
(結婚……)
頭の中に、ガイアの顔が浮かんだ。
(デート……)
さらに顔が熱くなった。
「む、無理だよぉ……」
誰もいない治療院の前で、私は小さく呟いた。
◇◆◇
午後になり、ガイアが探し物の依頼から帰ってきた。
「ただいまー」
いつもの声が馬小屋の中へ響く。
「おかえり、ガイア!」
反射的に返事をしてから、私はハッとした。
朝のお母さんとの会話が、一気に頭の中へ蘇る。
入口に立ったガイアは、少し日焼けした顔に汗を浮かべていた。
腰には小さな革袋。
どうやら今日の仕事も無事に終わったらしい。
「見つかったの?」
「うん。おばあさんがなくした首飾り。井戸の横に落ちてたよ」
「よかったね」
「左目があると便利だなぁ。昔だったら半日探しても見つからなかったと思う」
そう言って笑う。
神の目の力で世界を滅ぼすのではなく、今ではおばあさんの首飾りを探している。
それがなんだかガイアらしくて、私は少し笑ってしまった。
「なに?」
「ううん。なんでもない」
顔を見ているだけで、胸の奥が甘く痛む。
(結婚……デート……私が、ガイアと……)
意識した途端、まともに顔を見られなくなった。
私は治療院の隅へ逃げるように移動し、意味もなく薬草の瓶を並べ直す。
「あれ? リリア、顔赤くない?」
「だ、大丈夫!」
「熱?」
「ないから!」
そこへ、裏の工房からアリカちゃんが顔を出した。
作業着は煤と油で真っ黒だ。
頬にも黒い汚れが一本ついている。
「あんた、さっきから何やってるのよ。薬草の瓶、同じところ三回くらい並べ直してるじゃない」
「えっ!?」
見られていた。
アリカちゃんが怪しそうに私を覗き込む。
「あんた、顔真っ赤よ? 本当に熱でもあるんじゃない?」
「ち、違うの!」
「じゃあ何よ」
「あのね……」
私はガイアに聞こえないよう、アリカちゃんの耳元へ顔を近づけた。
「お母さんに、その……ガイアと……デートでもしてきなさいって言われちゃって……」
「はあ!? デートォ!?」
「しーっ!」
私は慌ててアリカちゃんの口を両手で塞いだ。
ガイアがこちらを振り返る。
「どうしたの?」
「な、なんでもないよ!」
「そう?」
「いいからガイアは顔でも洗ってきなさい!」
「なんでアリカが怒ってるんだよ……」
ガイアは首を傾げながら、水場の方へ歩いていった。
姿が見えなくなると、アリカちゃんは私の手を振りほどく。
「なーんだ。そういうこと」
「そういうことって……」
「いいじゃない。行ってきなさいよ」
「で、でも……」
「あいつ、最近ずっと探し物ばっかりしてるでしょ。気晴らしにもなるわよ」
「だけど、急に誘ったら変に思われないかな?」
「思われたっていいじゃない。デートなんだから」
「デート……」
その単語を口にされるだけで落ち着かない。
アリカちゃんは私を上から下まで眺めた。
「ただ、その格好じゃ駄目ね」
「えっ?」
「いつもの服じゃ、ただのお散歩になるじゃない」
「そ、そうなの?」
「任せなさい!」
アリカちゃんの目が輝いた。
嫌な予感がした。
「ア、アリカちゃん?」
「あたしが、とびきり可愛くしてあげるわ!」
「えぇっ!?」
腕を掴まれ、そのまま馬小屋の奥へ引きずり込まれた。
◇◆◇
「ほら、動かない!」
「は、はい……」
アリカちゃんは、自分の荷物の中から服を何着も引っ張り出した。
機械帝国から持ってきたという白いブラウス。
淡い青色のふわりとしたスカート。
さらに小さな花飾りのついたリボンまで出てきた。
「アリカちゃん、こんなの持ってたんだ……」
「失礼ね! あたしだって女の子なんだから、このくらい持ってるわよ!」
「いつも銃とか爆弾ばっかり持ってるから……」
「余計なお世話よ!」
怒られた。
着替えを終えると、今度は椅子へ座らされる。
アリカちゃんは私の栗色の髪を丁寧に梳かし、花飾りのついたリボンでまとめてくれた。
「ほら、完成!」
小さな鏡を渡される。
「わぁ……」
鏡の中には、いつもの私とは少し違う女の子がいた。
白いブラウスと淡い青色のスカート。
髪には小さな白い花。
なんだか急に恥ずかしくなって、私は膝の上で両手を握った。
「すっごく可愛いわよ、リリア」
「あ、ありがとう……」
「これなら大丈夫。ガイアなんて一発よ」
「一発って何!?」
「いいから、自信持ちなさいって」
アリカちゃんが笑った。
私は大きく息を吸う。
怖い魔物と戦うときより緊張していた。
「さあ、行ってらっしゃい!」
背中を押される。
「わっ!」
馬小屋の表へ飛び出した。
そこには、顔を洗ってさっぱりしたガイアが待っていた。
「あ、リリア」
私を見た瞬間、ガイアが目を丸くする。
(変だったかな!?)
心臓が飛び出しそうになる。
でも、ガイアはすぐに優しく笑った。
「すごく似合ってるよ」
「えっ」
「いつもとちょっと違うね。可愛い」
「か、可愛い……」
頭が真っ白になった。
後ろの扉の隙間から、アリカちゃんが親指を立てている。
私は逃げ出したい気持ちを必死に抑えた。
「あ、あのね、ガイア」
「うん?」
「もし疲れてなかったら……少し、街を一緒に歩かない?」
「街を?」
「最近、二人だけで出かけること、なかったから……」
最後の方は、ほとんど消え入りそうな声になった。
ガイアは少しだけ驚いた顔をする。
それから、嬉しそうに頷いた。
「もちろん」
「本当?」
「うん。僕も、リリアと一緒に歩きたいと思ってた」
胸の奥で何かが弾けた。
「じゃ、じゃあ行こう!」
「うん」
私たちは並んで歩き出した。
「早く行きなさいよねー!」
後ろから、アリカちゃんの大きな声が飛んでくる。
振り返ると、彼女がニヤニヤしながら手を振っていた。
「アリカちゃん!」
私は恥ずかしくなって、ガイアの腕を引っ張った。
「早く行こう!」
「えっ? う、うん」
こうして私たちの、初めてのデートが始まった。
◇◆◇
夕暮れが近づくクーデの街は、昼間とは少し違う顔を見せていた。
西へ傾いた太陽が、白い建物や石畳を柔らかな橙色に染めている。
露店では夕食用の肉や野菜が並び始め、仕事を終えた人たちが酒場へ入っていく。
私たちは、特に目的を決めずに街を歩いた。
子供の頃によく走り回った裏路地。
二人で雨宿りをした古い軒下。
秘密基地にしていた、今は使われていない小さな教会の跡。
「あ、ここ覚えてる?」
「もちろん。リリアが木から落ちて泣いたところ」
「ちょっと! それ言わないでよ!」
「僕が背負ってマーサさんのところまで連れて帰ったよね」
「ガイアだって、その次の日に同じ木から落ちたじゃない」
「あれは……枝が折れたんだよ」
「同じだよ」
二人で笑った。
昔と同じ街なのに、今日は何もかもが少し違って見える。
歩いているうちに肩が触れた。
「あっ」
「あ、ごめん」
「う、ううん……」
離れようと思った。
でも、離れたくないとも思った。
結局、そのままの距離で歩き続けた。
露店で赤く艶のある林檎飴を見つけ、ガイアが一つ買った。
「半分食べる?」
「うん」
ガイアが一口かじって、私へ渡してくれる。
何気ないことなのに、それだけで妙に意識してしまう。
(これ……ガイアが食べたところ……)
「リリア?」
「な、なんでもない!」
私は慌てて反対側からかじった。
甘い。
普段食べる林檎飴より、ずっと甘く感じた。
歩きながら、これまでの出来事を話した。
「いろんなことがあったね」
「うん」
「最初は、普通の冒険者になるだけだと思ってたのに」
「僕もだよ。まさか自分の胸に神の心臓が入ってるなんて思わなかったし」
「神の小指と戦って」
「アリカと出会って」
「聖都まで行って」
「目玉をぶっ飛ばして」
「両足とかけっこして」
そこで二人とも黙った。
しばらくして、同時に吹き出す。
「あははっ!」
「はははっ!」
あまりにも変な冒険だった。
怖くて泣きそうになったこともある。
本当に死ぬと思ったこともある。
それでも。
「でも、夢じゃないんだよね」
私は足を止めた。
「私たちはちゃんと生きてる。こうしてクーデに帰ってきた」
「うん」
「それが、一番嬉しい」
ガイアも立ち止まった。
まっすぐ私を見る。
その瞳の奥には、昔から変わらない優しい光があった。
「……リリア」
「なに?」
「少し、あの丘の上まで行かない?」
ガイアが、街の外を指差した。
そこには、小高い丘が見える。
少し前、ガイアが神の両足とかけっこをした場所だ。
頂上には、一本の大きな木が立っている。
「うん。行こう」
私が答えると、ガイアが手を差し出した。
一瞬、息が止まった。
私はそっと、その手を握る。
温かかった。
昔、怖い森の中で握ってくれたときと同じ手。
でも今は、あの頃とは少し違う意味を持っているような気がした。
私はその手を、ぎゅっと握り返した。
◇◆◇
【ガイア視点】
丘の上を吹き抜ける風が、火照った頬を冷ましてくれた。
空はもう茜色に染まっている。
地平線へ沈もうとする太陽が、荒野も、街も、一本の巨木も、すべてを黄金色に照らしていた。
丘の下には、僕が生まれ育ったクーデの街が広がっている。
家々には、一つ、また一つと明かりが灯り始めていた。
遠くから見るそれは、まるで地上へ星を散りばめたようだった。
僕は巨木の根元に立ち、隣にいるリリアを見る。
風が栗色の髪を揺らしていた。
白い花飾りも一緒に揺れている。
今日のリリアは、いつもより少しだけ大人びて見えた。
でも、笑う顔は昔と変わらない。
僕が腹を空かせていた頃から、ずっと隣にいてくれた女の子だ。
(心臓よ。少しだけ、黙っていてくれないか)
『……承知した』
胸の奥から、珍しく静かな声が返ってきた。
『我は何も見ず、何も聞かぬ。存分にやるがよい』
(ありがとう)
『うむ』
それきり、心臓は本当に静かになった。
僕は小さく息を吐いた。
なんだか変な感じだ。
神の目と戦ったときより緊張している。
巨大な足と競走したときより、心臓が速く動いている。
孤児として生まれた僕には、最初から何もなかった。
父さんも母さんも知らない。
立派な家もなかった。
お金もなかった。
腹が減れば、街を歩いて仕事を探した。
マーサさんがパンをくれた。
鍛冶屋のおじさんが、壊れた道具を直す仕事を手伝わせてくれた。
街のみんなが、少しずつ僕を生かしてくれた。
その中で、いつも一番近くにいたのがリリアだった。
泥だらけになって遊んだ日。
一緒に笑った日。
喧嘩した日。
怖い森へ向かった日。
神の小指を前にして、どうすればいいのか分からなくなった日。
全部、リリアがいた。
僕の胸には、世界を作り直すほど強い神の心臓がある。
左手もある。
左目もある。
両足まで入ってしまった。
これから先、もっとたくさんの部位を見つけることになるのかもしれない。
どこかにいる神の頭が、何を考えているのかも分からない。
でも。
そんなことよりも、僕にはずっと大事なことがある。
「リリア」
僕は、彼女の名前を呼んだ。
「なに?」
リリアが振り返る。
夕日の光を映した瞳が、きらきらと輝いていた。
僕は彼女の正面へ立った。
それから、そっと右手を取る。
「ガイア?」
「今日、街を一緒に歩いて……改めて思ったんだ」
声が少し震えた。
でも、逃げるわけにはいかない。
「僕は、この街が好きだ」
「うん」
「マーサさんも、ギルドのみんなも、いつも声をかけてくれる街の人たちも好きだ。今の仕事も好きだし、あの馬小屋も好きだ」
「うん」
リリアが、優しく笑ってくれる。
「でも、その中でも一番大切なのは……君なんだ」
リリアの目が、大きく開いた。
「ガイア……」
「僕は、君がいる毎日が好きなんだ。朝起きて一緒にご飯を食べて、仕事をして、夜になったら今日あったことを話す。そういう毎日が、何よりも大切なんだ」
言葉にすると、不思議なくらい簡単だった。
僕が守りたいものは、最初からずっと同じだったのかもしれない。
「神のパーツは、まだ全部集まってない。これからも危ないことがあると思う」
「うん」
「頭が何を考えてるのかも分からないし、また変な神の部位が走ってくるかもしれない」
「ふふっ」
リリアが笑った。
「でも、それでも僕は、君と一緒にいたい」
僕は上着のポケットへ手を入れた。
中から、小さな革の箱を取り出す。
これを用意したのは、少し前だ。
失せもの探し師の仕事をしている途中、神の左目を使って地中を見ていたとき、偶然、きらきらと光る小さな石を見つけた。
掘り出して鍛冶屋のおじさんに見せたら、『星屑の輝石』と呼ばれる、とても珍しい石だと教えてくれた。
僕は、その石を売らなかった。
おじさんに頼んで、小さな指輪にしてもらった。
最初は、いつ渡せばいいのか分からなかった。
でも今日、リリアと街を歩いて。
丘へ来て。
今しかないと思った。
僕は革の箱を開く。
中には、小さな銀色の指輪が入っている。
中央に埋め込まれた輝石が、夕日の光を受けて、星のように瞬いた。
リリアは何も言わない。
ただ、大きく目を見開いている。
「リリア」
もう一度、名前を呼んだ。
「僕と、結婚してほしい」
リリアの唇が震えた。
「君のこれからの人生を、僕と一緒に歩いてほしい」
しばらく、返事はなかった。
(あれ……?)
急に不安になった。
(もしかして、早かったかな?)
神の目と戦っていたときより怖い。
(断られたら、どうしよう)
そのとき。
リリアの目から、大粒の涙がぽろりとこぼれた。
「えっ、リリア!?」
「違うの……」
彼女は笑った。
泣きながら笑っていた。
「嬉しくて……」
そして、何度も何度も頷いた。
「はい……っ」
「リリア……」
「はい! 私でよければ……喜んで!」
胸の奥が、一気に熱くなった。
「ありがとう」
僕は震えるリリアの右手を取る。
薬指へ、そっと指輪を通した。
ぴったりだった。
「よかった。鍛冶屋のおじさん、ちゃんと大きさ合ってた」
「えっ?」
「あ」
「ガイア、私の指の大きさ、どうやって調べたの?」
「えっと……」
「もしかして、左目?」
「……ちょっとだけ」
「もうっ!」
リリアが泣きながら笑った。
「そういう使い方してたの?」
「だって、聞いたらバレると思って」
「もう……本当にガイアらしい」
怒られたのか、褒められたのか分からなかった。
でも、笑ってくれているならそれでいい。
僕はリリアを抱きしめた。
「わっ……」
腕の中に、柔らかな身体の温もりを感じる。
栗色の髪から、いつものお日様と、ほんの少し花のような優しい匂いがした。
リリアも、そっと僕の背中へ腕を回してくれる。
丘の上を風が吹き抜けた。
巨木の葉が、ざわざわと揺れる。
僕たちはしばらく、何も言わなかった。
言葉なんてなくてもよかった。
胸の奥で、神の心臓が静かに鼓動している。
ドクン。
ドクン。
それとは別に、僕自身の心臓も、強く鳴っていた。
ふと、リリアが僕の胸へ耳を当てた。
「すごい音」
「どっち?」
「え?」
「神の心臓と、僕の心臓。どっちが聞こえる?」
「ふふっ。両方」
リリアが笑う。
「でも、ガイアの方がずっと速いよ」
「それは……リリアのせいだよ」
「えっ」
今度はリリアの顔が真っ赤になった。
僕まで恥ずかしくなって、二人で笑った。
丘の下にはクーデの街がある。
あの街へ帰れば、マーサさんがいる。
アリカがいる。
たぶん、僕たちが帰るのを待ちながら、今頃何か食べている。
明日になれば、また仕事がある。
なくした鍵を探してほしい人が来るかもしれない。
リリアの治療を待っている人もいる。
アリカには、直さなければならない車が何台もある。
きっと、何も変わらない。
でも。
今日からは、少しだけ違う。
「帰ろうか、リリア」
「うん」
僕たちは手を繋いだ。
丘を下り始める。
少し進んだところで、リリアが振り返った。
夕日の最後の光が、一本の巨木を照らしている。
「ねえ、ガイア」
「なに?」
「これからも、いろんなところへ行くのかな?」
「たぶん」
「神様の頭も探す?」
「見つかったらね」
「また変なのが出てきたら?」
「そのとき考えるよ」
リリアが楽しそうに笑った。
「ガイアらしいね」
「そうかな?」
「うん」
僕も笑った。
世界は、神の骸でできている。
山は神の骨。
大地は神の肉。
地の底には神の神経が走り、その血は今も人々の暮らしを動かしている。
昔、人間たちは神を殺した。
そのせいで、この世界にはたくさんの悲しみが残った。
神の部位たちも、それぞれ違う思いを抱えながら、世界のどこかで今も生きている。
いつか、すべてが一つになる日が来るのかもしれない。
来ないのかもしれない。
僕には、まだ分からない。
でも、それでいい。
腹が減ったら、ご飯を食べよう。
誰かが怪我をしたら、リリアが治してくれる。
車が壊れたら、アリカが直してくれる。
大切なものをなくしたら、僕が探そう。
そして。
世界のどこかで、寂しそうな神の部位を見つけたら。
戦う前に、一度くらい話を聞いてみてもいい。
もしかしたら、ただ走りたいだけかもしれないから。
「ガイアー!」
丘の下から声がした。
目を凝らす。
街道の向こうで、アリカが両手を振っていた。
「いつまでデートしてんのよー! マーサさんのパン、なくなっちゃうわよー!」
「えっ!?」
僕とリリアは顔を見合わせた。
「パン!」
「そこなの!?」
リリアが吹き出す。
「だって、焼きたてだったんだろ?」
「もう冷めてるよ!」
「それでも食べたい!」
僕はリリアの手を握ったまま、丘を駆け下り始めた。
「ちょ、ちょっとガイア! 速いよ!」
「あ、ごめん!」
神の両足の力を使えば、一瞬で街まで戻れる。
でも、今日は使わなかった。
リリアと手を繋いで帰りたかったからだ。
二人で笑いながら、ゆっくりと丘を駆け下りていく。
僕の胸の中で、神の心臓が小さく鼓動した。
『……よきものだな』
「何が?」
『人の生というものも、存外悪くない』
「だろ?」
僕は笑った。
リリアが不思議そうに僕を見る。
「どうしたの?」
「なんでもない」
夕暮れの街から、焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。
帰る家がある。
待っている人がいる。
隣には、大切な人がいる。
それだけで、僕には十分だった。
神の骸でできたこの世界で。
僕たちはこれからも、笑って、食べて、働いて、生きていく。
どんな神様が現れようとも。
世界がどれだけおかしな方向へ転がろうとも。
きっと、それだけは変わらない。
僕はリリアの手を握り直し、明かりの灯るクーデの街へ向かって走った。
僕たちの家へ帰るために。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




