7 夏の初め月 2
翌日の放課後。
わたくしたちは早速、アンドン先生の元へ向かいました。念のため、わたくしもメアリー様も昨日の結晶を持ってきております。
メアリー様は、可愛らしい刺繍のハンカチーフに、わたくしの結晶を包んでおられて、なんだか、恥ずかしい気持ちです。
わたくしも、一番上等なハンカチーフに包んで来てはいるのですが。
アンドン先生の部屋の前では、ローズマリー様が立ち尽くしておられました。
「ローズマリー様?」
お声がけしますと、ローズマリー様が困ったようにこちらをご覧になります。
「アンドン先生が、お声がけしても返事がないのです」
「あら。いらっしゃらないのでしょうか」
わたくしの呟きに、ローズマリー様は首を左右に振られます。
「昨夜は寮にも戻られていないと、ほかの先生から伺いました。ですから、お部屋においでと思うのですが」
わたくしもドアをノックしてみます。
応答はなし。
淑女ならここで待つところですわね。
ですが、わたくし、ただの淑女ではございませんので。
おもむろにドアノブに手を掛けまして。
「プリム様?」
戸惑うメアリー様に微笑んでから、ドアノブを回します。
あら?
あっさり開きましたわよ?
ここは鍵が閉まっててみんなで体当たりするところかと思いましたのに。
薄暗い部屋の中で、アンドン先生は机にうつ伏せておいでです。
「先生!」
叫んで飛び込んだのはローズマリー様でした。
わたくしたちも追い掛けます。
カーテンもしまった部屋の、まずカーテンを開けて光量を確保。窓を開けて空気を換気。
ローズマリー様は先生に呼び掛けておられますが、先生に反応はありません。
こ、ここは前世で運転免許を取ったとき以来の救命救急ですか!?
「ローズマリー様、人を呼んできてくださいまし。メアリー様、手を貸してください。まずは先生を床に寝かせましょう」
「はい!」
「わかりましたわ」
駆け出すローズマリー様を見送って、わたくしとメアリー様は左右から先生の肩にそれぞれ腕を回して持ち上げます。少し引きずりますが許して頂きましょう。
頭を支えながら床に寝かせつつ、顔を横にして吐瀉物が喉に詰まらないようにいたします。
手の甲を鼻に近付けてみればそよそよと風が触れますから、呼吸はありそうですわね。
頬をぺちぺちと叩いてみます。
「先生? アンドン先生?」
声をかければ眉がしかめられます。聞こえてはいるのでしょうか。
「アンドン先生? 聞こえますかアンドン先生?」
「プリム様、どうしましょう」
「もうすぐローズマリー様がお戻りになるとは思いますが、このままですと心肺蘇生法が必要ですわ」
「しんぱい?」
「仕方ありませんわね。メアリー様、避けていてください。そして、わたくしのやるのを良く見ていて。30回で交代をお願いしますわ」
「わ、わかりました!」
分からないなりに頷いてくださるのは心強いですわ。
では、参ります。
胸骨の下、指三本分ほどのところに手を置いて。
あの、パンのマーチのリズムで。さん、はい。
「いちっにっさんっ」
「ふぐぅっ!?」
良かった。直ぐ様先生は目を覚まされました。
心臓マッサージは疲れるので回数をしたくなかったのです。
「先生、ご無事ですか?」
「先生!」
目を白黒させた先生に、わたくしとメアリー様が声をかけます。
「先生! プリム様!」
丁度そこへ、ローズマリー様がほかの先生方を連れて戻られ。
状況を理解したらしいアンドン先生は、とりあえず、といった様子で、深々と頭を下げられました。
「申し訳ない」
先生方はそれで慣れたように帰られて行きます。もしや、これは?
「先生?」
わたくし、メアリー様、ローズマリー様がじっと先生を見つめますと、先生はついーと視線を泳がせてから。
「稀に良くある。寝食を忘れてそのまま寝落ちる。年に一度はこういう騒動が……」
わたくしたちは、思わず、がっくりと肩を落とし。
ローズマリー様は
「せんせぇのばかぁ」
と涙を流し始めました。
先生がぎょっとした顔をして、また深々とローズマリー様に頭を下げられました。
「心配をかけて、申し訳ない」
「せん、せ、わたくし、せんせ」
嗚咽混じりにローズマリー様が何かを訴えます。
わたくしとメアリー様はじっとりと先生を見つめてから。
「先生、とりあえず、食堂に参りましょう」
告げて、わたくしたちは先生を食堂へ連行しました。
研究などで遅くまで残る学生や教員のため、食堂は軽食と飲み物だけは夕方まで提供されています。
寝落ちするほどのアンドン先生ですから、まずは食べさせねばなりません。
今日の軽食はクロックムッシュのご様子。先生を席に座らせて、わたくしがキッチンカウンターへ。
クロックムッシュを一人前と、紅茶をポットでオーダー。
メアリー様が運ぶのを手伝いに来てくださったので、ティーカップを運んでいただいて。
わたくしたち三人でお茶。先生にクロックムッシュとお茶。
これで落ち着いて話せますわね。
お茶をひとくち飲んで、ふうーと息を吐きました。
ローズマリー様とメアリー様の視線が刺さります。先生は、クロックムッシュを食べていてくださいまし。
「どうなさいました?」
問い掛ければ、まずローズマリー様が仰います。
「わたくし、気が動転してしまって、その、ありがとう、ございました」
「プリム様の的確な判断に驚きましたわ。最後のあれは何でしたの? 十回行かずに終わってしまいましたが」
と問われるのはメアリー様。
「わたくしも慌ててしまって、はしたないところをお見せしましたわ。ごめんあそばせ。アンドン先生に施したのは、心肺蘇生法ですの。書物で読んだ、応急処置の一つですわ」
お二人は、ほう、と息を吐かれます。
「死ぬかと思った」
と呟かれたアンドン先生を、またローズマリー様がじっとりとご覧になります。
「実際、死なないためにする方法ですのよ。心臓が止まると血が巡らなくなって、人は死んでしまいますの。ですから、心臓が止まっても血を巡らせることで、完全に死んでしまうのを遅らせるのです。そうして、本職の医師に生きたまま引き渡すために、あの施術をするのですわ」
本当はもう少し難しい理屈があった気がいたしますが、割愛致しましょう。
「僕は死んでなかったし、息もしてた」
「意識がなく、反応もなかった場合は、呼吸の有無を問わずに行うのが応急処置の要でしてよ、先生。これに懲りたら、きちんと規則正しく生活してくださいまし」
「ぐ……」
呻いて、先生は、いじけるようにクロックムッシュの最後のひとくちを口に放り込みました。
「プリム様、詳しいですのね」
思わず、といった様子で溢されるローズマリー様にわたくし、流石に喋りすぎたと気付きます。
「いえ、その、学園に来るまではほとんど家で本を読んで暮らしておりましたので」
「侯爵家の書庫なら、確かに豊富に資料がありそうですわ」
ローズマリー様はそれだけで頷いてくださいました。ローズマリー様がもし、前世の記憶をお持ちなら、この救命救急もおそらくご存知のはず。そうでないなら、もう心配はないでしょうか。少し、安心致します。
ローズマリー様が、きちんと、彼女のまま生きていけるなら、それが一番ですもの。
「しかし、その、なんだ。改めて、すまなかった」
アンドン先生は紅茶も飲み干してから、そういって頭を下げました。
「昨日のあれがあまりに興味深くてそのまま夜を明かし、昼を越して今になってしまった。うん。すまない」
あまり懲りてはいない気配ですが。
「具合は悪くありませんか?」
それでも気遣わしげに問われるローズマリー様に、アンドン先生は頷かれます。
「ああ。今は、すこぶる眠い」
でしょうとも。
お腹が満ちれば、疲れた体は睡眠を欲するものですわ。
「では、今日はもうお休みください、先生。石のことは、また後日」
「ああ。そうする。そうだ、ジンカイイ、コンツェルト」
先生は立ち上がりながら、思い付いたように仰います。
「石のことは、まだ誰にも言うな」
言い置いて、先生はすたすたと行ってしまわれました。
「プリム様」
ローズマリー様が呟きます。
「お食事代だけでも、請求なさるべきかと」
確かに。
「生徒に奢られる先生と言うのも珍しいですわね」
呟きながらわたくしも立ち上がりますと、
「そういうことではないと思いますが」
と苦笑してメアリー様も立ち上がられます。
ローズマリー様と三人で食器を下げて、わたくしたちも寮へ帰ることにいたしました。
ローズマリー様は、帰り道、ずっとアンドン先生を心配なさっておられました。
「アンドン先生のことを、どうしてそんなに心配なさるの?」
少し意地悪く尋ねてみれば、ローズマリー様は耳まで赤くされます。
それから、小さく、答えられました。
「初めて、わたくしのことを、わたくしでいいと、言ってくださったのです」
微笑む彼女は、とても綺麗です。
「先生には、わたくしのことなんて、ただの面倒な生徒の一人で良いのです。ただ、わたくしが、これからもわたくしでいていいと思いたいから、今だけは、先生のお側に居たいんです」
ローズマリー様は、卒業されればご両親と対峙することになるのでしょう。眼鏡がなければと仰ったお父上の言葉に従うなら、『一番高く買ってくれる』方の所へ嫁ぐのでしょう。嫌なことを嫌と言っても、貴族の婚姻は仕事でもあります。
ローズマリー様は、本当に、憑き物が落ちたように、お美しく笑います。
それは、哀しくなるほどに。
どう答えたら良かったのか、わたくしには分かりません。ローズマリー様は、もう、心を決めておられるご様子。覚悟、といってもいいかも知れません。
「ローズマリー様は、どうされたいんですか?」
問い掛けたのは、メアリー様です。そのサファイアの眼差しで、ローズマリー様を射抜きます。
「自由に生きたいですわ」
答えて、ローズマリー様は苦笑されました。
「ですけれど、『自由にいきる生き方』も『自由に生きる力』も、わたくしにはないのです。諦めているのではないですよ? 納得しておりますの」
その言葉に、メアリー様は少し不満そうです。
わたくしには、どちらの言い分も理解できてしまって、答えにくく悩んでしまいます。
「ありがとうございます、メアリー様。ただ、言いましたでしょう、諦めているのではない、と」
微笑むローズマリー様は、なんだか自信ありげです。あの日のローズマリー様を思い出すような?
わたくしが何も言わずにおりますと、ローズマリー様はまた穏やかに微笑まれます。
「アンドン先生の所に通っていたのは、なにも、わたくしの恋心だけではございません。もちろん、今側に居たいのは事実ですし、自由になる方法も力もないのは事実です。けれど、これから、はまだ分かりません。例えば、花の香りで、お父様が改心なさる、とか」
!
ローズマリー様がそこまで能動的に動かれるおつもりだったとは。
メアリー様も目を丸くしておられます。
アンドン先生の所に通っていた理由。
それは──花の魔力を、使いこなすため。
確かに、使いこなせれば今後に大きく役立つでしょうが、その最初の使い道がそれ、というのは、なんだか。
「危うい気がしますわ」
そう、溢してしまいます。
人の心を、魔力で変えてしまうのは、例えそれが良いことだったとしても、えもいわれぬ違和感を憶えるのです。
「それはきっと、良いことです。ローズマリー様が幸せになるにも、必要なことだと分かります。ですが、なら、己が、誰かのに心を曲げられてしまうとしたら、それはいやだと、思ってしまって」
わたくしの心は、わたくしのものです。
「それはローズマリー様が今までされてきたことと、同じにはなりませんか」
ローズマリー様も、メアリー様も、わたくしをじっとご覧です。
ええ、ならどうしたら良いんだと、おっしゃりたいことでしょう。わたくしだって、そう思います。でも、だからと言って、良いことならどんな手を使っても良いのかと。そうも思うのです。
結果のない正しさは、ただの夢想でしょう。
けれど、正しさを曲げて得た結果を、素直に受け取れるほど、わたくしは大人になれていないのです。
ローズマリー様は、穏やかに微笑んでおられます。
「おっしゃることはわかりますわ。わたくしも、そうあれたらと思います。ですが、」
「ええ。ならば何が最適なのかとなりますわ。わたくしもわかります。すみません。何も、思い付かないなかで、感情だけで話してしまって」
「いいえ。おっしゃっていただいて、嬉しいですわ。わたくしのこれからを、心配してくださったのでしょう」
ローズマリー様は、本当に、心が強くなられたように思います。ずっと大人びて、憧れますわ。
メアリー様が、目を潤ませて、わたくしとローズマリー様の手を捕まれました。
「お二人とも、優しくて、つらくて、ですけれど、幸せに、なってほしくて、わたくし、わたくし」
その様子に、わたくし、メアリー様の頭を思わず撫でてしまいました。
「ありがとうございます、メアリー様」
「ローズマリー様。わたくし、お父君を討てと言われれば、討ちます」
お待ちになってメアリー様!?
力強いお言葉に、ローズマリー様は、思わず吹き出してしまわれました。
「卒業までに考えますわ。もっと良い方法を」
ローズマリー様はそう言って、この話題を終わらせました。これ以上話せることでもございませんわね。わたくしも、何か出来ないか考えようと思いますわ。
寮へ着いて、お二人と別れます。
部屋に戻ると、エステルが待っていてくれます。安心して帰れることのありがたみは、確かにあります。ここならば守られるという安心感。
ローズマリー様にも、そんな場所があれば良いのですけれど。
考えることがたくさんです。
学園祭のこと。
ムジーク様のこと。
殿下のこと。
わたくし自身のこと。
わたくしは、確かに、この世界で生きて悩んでおります。
「エステル」
「はい、お嬢様」
「助けたい方がいるの」
「……殿方ですか?」
「違うわ。ローズマリー様よ」
「ローズマリー様?」
「お父上のご意向もあって、卒業したらおそらく望まぬ結婚をされるの。心には想う方がおられるのに」
「なるほど。お嬢様は、それは仕方のないことと知りながらお助けになりたい、そういうことですね?」
エステルはわたくしの心を完全に読んでおりますわね。わたくしはただ頷くだけです。
「ローズマリー様は、クアクゴス男爵家のローズマリー様でお間違いないですか?」
「ええ」
「かしこまりました」
……え?
なにをかしこまられたのかしら。
「クアクゴス男爵家はイルワ侯爵家を主家とされておられますが、イルワ侯爵家お取り潰しにより、難しい立場におられる。ローズマリー様は、家を継ぐために有力な貴族、または財ある商家と縁を結ばねばならず、クアクゴス男爵の意向に従うとご本人様の望む結果にはならない、ということですね。であれば、難しいことではございません」
エステルは静かに頷きます。
「ローズマリー様に、主家を変えていただくのです」
は?
え?
「そんな、そんなこと」
出来るのでしょうか。言ってみれば下克上とか裏切りになるのではないかと想うのですけれど。
「心情はさておいて、我が国の貴族制度の慣例上、クアクゴス男爵家は今、主家を持ちません。取り潰されておりますから。ですので理屈の上では、ローズマリー様は既に『自由』なお立場でございます。したがいまして、ローズマリー様は、クアクゴス男爵家後継者として、己の忠誠を捧げる相手を選べます」
なるほど!?
「では、ローズマリー様が真実自由になれる家に忠誠を捧げれば」
「はい。主家を乗り換えていただき、その上で主家にうまく取り成して頂けばよろしいかと。
その点では、我がジンカイイ家にしていただくのが無難でしょう。現侯爵家筆頭ですし、喜ばしくも王家からの憶えもめでとうございます。そうでなくても、ローズマリー様の個人の忠誠をプリム様に捧げて頂けば、ジンカイイ家の庇護を、表だってローズマリー様に与えることも出来るかと」
理屈で押し通るスタイル!
エステルの方法は確かに、理屈が通る分表面上の非難を避けられますし、クアクゴス男爵も口出ししにくいところでしょう。何せ、クアクゴス男爵は忠誠を既に『イルワ侯爵に』捧げてしまっております。既にその侯爵位はございませんので、男爵は己の意思で忠義を変えるか、次代に任せるほかないのです。
ローズマリー様のお言葉では、忠義を変えることはないでしょうから、ローズマリー様が後継者として、『家の』忠誠先を示すことは可能です。
穏便には済まないかも知れませんが、筋が通る分、他者の力を借りやすくもなりますわね。
なにより。
「わたくしが割り込みやすくなりますわ!」
「左様でございます」
「ですが、忠誠を捧げるのは、婚姻とは別の意味で一生もの、後継としてなら家の問題にもなりますわ。軽率にお勧めしかねるのも確かですわね。でも、お話だけしてみましょう」
即断即決即忠誠のメアリー様は、あくまでも特異例なのです。ヒロインだから許される、というわけではありませんが、珍しいことではございます。ただ、メアリー様は後継ではありませんので、あくまでも個人の忠誠、というところがポイントですわね。
ただ、方法論としてはアリです。なんなら、元々のイルワ侯爵家よりも位の高い、三大公爵家などを主家にしていただければと思いますが、三大公爵家は直接の配下に男爵を持ちませんから難しいかもしれません。
「ありがとう、エステル。光明が見えた気がしますわ」
「ようございました。それから、今日はお便りが届いてございます」
エステルはそっとわたくしに封筒を差し出します。
封蝋には紋が押されておりません。ただ、封筒にサインがございます。
「ムジーク様から?」
「念のため改めさせて頂きました。お茶のお誘いでございます」
「試験の結果が出る前に、お誘いくださったのですね」
ムジーク様らしくて、笑ってしまいます。
お返事は明日書くことにして。わたくしはお便りを広げました。ムジーク様のお誘いは、来月の週末。学園のサロンで、ほかの方々も招いての席。
未婚、婚約者なしのわたくしを単独招待しないところも、イルフカンナの習わしを良く学ばれたのがわかります。
大分、歩み寄ってくださっていることも。
ですからわたくしは、事情はどうあれ、出席する義理があると思います。とはいえ、殿方のお誘いですから、お兄様には一報いれねばなりませんわね。
そんな話をしていると、寮の夕食の時間が迫ります。
エステルに手伝ってもらって制服から着替えると、急いで食堂へ向かいました。
夕食を食べて、湯浴みをして、部屋に戻って、エステルに髪を調えてもらいながら、魔法で少し温風を当てて髪を乾かして。
ドライヤーもどきの魔法は、魔力学で魔法の使い方を習ってから比較的すぐに使えるようにしました。これはあるとないとで大違いなのです! 幸いわたくしの魔力特性は火でしたから温風を出すには難しいことはありませんでした。
メアリー様と練習したのですが、メアリー様はわたくしと同じ手順だと温風ではなく、キラキラと光が舞い散る乙女ゲームエフェクト魔法になってしまいまして、魔力を別の特性に変換する必要があると分かったのでした。ですので、今のところ温風魔法はわたくし唯一の特技と言えましょう。
「もしも没落したり平民落ちすることがあったら、この魔法と商会を使って髪結いどころをしても良いかもしれないわね」
エステルのブラッシングに気持ち良く目を伏せつつ、そう呟けば、エステルの手が止まります。
「どうしたの?」
「お嬢様が平民落ちなど、ありえません。わたくしがさせません」
推しの解釈違いでしたのね。ごめんあそばせ。推されてる側として軽率でしたわ。
「でも、平民になって、エステルと姉妹みたいにお店をしたりするのは、わたくし、楽しそうだと思ってよ?」
うふふ、と笑えばエステルもまんざらでもないのでしょう、ブラシの動きが再開されました。あーきもちいー。
「出来ました、お嬢様。魔法を止めていただいて構いません。その、わたくしも、お嬢様とのお店は、楽しそうだと思います」
そうでしょうそうでしょう。
だって、生きてるんですもの。未来は沢山ありましてよ。
***
娘からの便りに、男はふむ、と呟いた。
それを覗き込んだ男の妻は、よろしいのでは、と応じた。
男はうむ、と頷いて、その便りをお仕着せの胸ポケットに仕舞う。
侯爵宛の手紙を載せたトレーを持って、男──執事は事務室を後にした。
執事は階段を登り、二階の奥にある侯爵の執務室へ向かう。
重厚な木のドアを三回ノック。
入れ、という答えに音も立てずにドアを開けて、中へ。
「旦那さま宛の郵便でございます」
「そこへ置いてくれ」
「ではこちらへ」
執務机の未処理の文箱へ納めて、執事は一歩下がる。
侯爵が顔を上げて、まだなにか、と問うたので、話しかけて良いと判断した執事はおもむろに胸ポケットに納めていた手紙を取り出す。
「娘からの便りに、お嬢様からのご要望がございましたので、お耳をお借りしたく」
「うん。聞こう」
「お嬢様のご学友に、クアクゴス男爵令嬢がおられ、父君が今なおイルワ元侯爵を主家と仰がれるため望まぬ婚姻を結ばされそうである、と」
「それで?」
「もしも、令嬢が主家をジンカイイ家にと望まれたおりには、『話を聞いて欲しい』と」
「話を聞くだけかい?」
「娘からの便りにはそのように。お嬢様は、あくまでも令嬢の意思を尊重すると。ですので、旦那さまへの便りではなく、我が娘とわたしを介し、わたしが旦那さまに伝えて良いと判断したら伝えるように、と願われたご様子です」
「セバス」
「はい。旦那さま」
「我が娘ながら、賢いなぁ」
「左様でございますね」
「流石だよねぇ」
「はい。流石はお嬢様です」
「もう貴族間のバランスまで考えられてるんだよ。できれば嫁に出さずに我が家の文官になってほしい」
「左様ですか」
「リバートと揃えば向かうところ敵なしだと思うんだよね」
「でしょうね。お嬢様は旦那さま、若様を押さえて領民人気投票第一位になられましたし」
「えっ……聞いてないけど」
「お伝えしておりませんので」
「でもそりゃそうだよぉ。うちの娘なんだかすごいもん」
「せっかくなので旦那さま、お嬢様が何故一位かお話ししても?」
「うん、聞こう」
ジンカイイ侯爵は書類に視線を戻しながら応じた。このまま仕事に戻るのだろうと判断した執事は穏やかな声音で一人口を開く。
「お嬢様は三年前から領民向けのいくつかの事業を担われ、なおかつ、そのための商会を設立しておられますが、昨年、その商会の売上から、『奨学金』なる制度を始められました。こちらは、商会が主体ですので、旦那さま方にはお話しが行っていないものと思います。奨学金は、王立学園に行くために商会が金を融資する制度でございます」
侯爵は思わず、といった様子で書類から顔を上げた。
「学生に融資?」
「中等学校を出れば、農家にとっては働き手でございます。ですが、才能ある若者もおおくいるはず。そこで、お嬢様は商会を通じて、王立学園での寮生活の一人暮らしのための費用に少し贅沢できる程度の無利子融資をなさっております」
「無利子!?」
「もちろん、狭き門ではございますが。学費が無料でも生活費がかかること、働き手を失うことが要因で進学できないものがいるならば、そしてそれが金品で解決できるならば、とお嬢様のお考えです。商会の会計担当も、採算が取れる件数のみ、として対応されていると。採算、というのも、学園卒業後に商会でその知識を使うこと、を条件にされているだけで、貸し倒れを恐れるものではないようです」
侯爵は深く息を吐く。
「恐れ入った」
「全くです」
「商会での『お勤め』は何年だ?」
「学園の在籍期間によりますが、凡そ5年の予定と聞いております」
侯爵は考える。
商業、農業の専科は二年から三年が一般的だ。その間の融資が少し贅沢な一人暮しができる程度。ということは、『切り詰めれば仕送りも可能』ということだ。学びながら給金を得られ、卒業後に一定の働き口がある。『食いぶちを減らしたい』者たちにも魅力に映ることだろう。
そんな制度を、娘が一人で?
領民にしてみれば、得しかなく見えるだろうが、これは、領地の発展に寄与するものだ。専門知識を得た領民が『お勤め』とはいえ領内の商会を拠点に働くのだから。
もちろん、短期的な利益は見込めないが、長期で得るものは大きい。
「セバス」
「はい、旦那さま」
「ますます嫁に出せない」
「左様でございますね」
しかし。
王家、ならびに竜の亜人の求婚がある。卒業する時には婚約者が間違いなく決まっている。最高も最悪も王太子殿下なのは理解できるが、飲み込みたくはないのも事実である。
「まったく、プリムはわたしには勿体無い娘だよ」
***
ローズマリー様に、主家の件をお話ししましたところ、目を真ん丸くされて、
「そんな方法が」
と溢されます。
わたくしもそうでしたが、『自分が娘である』ことに捕らわれると、多角的な見方ができず、袋小路に入ってしまったように感じられますわよね。
わたくしの場合は、エステルがそばに居て、違う見方を教えてくれますが、ローズマリー様は学園には侍女をお連れでありませんから、一人で、戦われるおつもりだったのかも。だからこその、花の魔力の使い方だったのでしょう。
「それで、ここからは、提案なのですけれど、ローズマリー様、主家を当家になさいませんか?」
わたくしが言えたことではないのかもしれませんが、選択肢としてあることはお伝えしたい。
「無理にとはもうしませんわ。ただ、イルワ侯爵家から鞍替えならば、家格がせめて等しい侯爵家かさもなくば三大公爵家にすれば、筋が通りやすいのです。ですから、その」
「お気遣いありがとう存じますわ、プリム様。一晩でそこまで考えてくださったのですか」
ローズマリー様は呻くように低く仰います。わたくしは首を左右に振りました。
「考えてくれたのはエステル、わたくしの侍女ですわ。わたくしも、ローズマリー様がクアクゴス男爵の娘であることを避けて考えることはできませんでしたもの」
「わざわざ、余暇にまで、わたくしのことを?」
「わざわざ、なんてことはございません。わたくしが勝手に考え込んでしまって、それをエステルが心配してくれたのです」
ローズマリー様はほうと息を吐かれます。
「ありがとう存じます。わたくし、父を『説得』することばかり、考えておりました」
わたくしもです。頷いて先を促せば、ローズマリー様は微笑まれます。
「他の道、確かに承りましたわ。あとは、わたくしの戦いです」
仰る通りです。
「もちろんです。わたくしにできるのは口出しだけですもの。ただ、もし、助けを求めて手を伸ばしたいときがあるなら、どうか、思い出してくださいましね」
お伝えすれば、ローズマリー様はしっかりと頷かれました。
良かった。お伝えしたいことは、お伝えできましたもの。
ちなみに、ここはまたもアンドン先生の部屋の前でございます。定番になりつつありますわね。
今日は試験結果の発表日で、授業は午前で終わりでしたの。
ですので、わたくしはメアリー様と共に、アンドン先生のお部屋を訪ねたのです。
そしてローズマリー様に出会いこれ幸いと主家のお話しをしたのですわ。立ち話ですることでも無いかもしれませんが、立ち話程度に軽くお話しした方が、追い込まれずに済むこともあると思いますの。
「ローズマリー様はこの後は?」
メアリー様が問いかければ、
「先生に会いに来たのですが、お二人が来るからと返されてしまいましたわ。寮に戻って、試験の振り返りをしようと思います」
苦笑されるローズマリー様は、もはや慣れておられて、まるで熟年夫婦のようにも思えます。まったく違うはずなのですが。
「左様でしたか。ですけど、一緒に居ていただいて構わないと思いますのに」
わたくしがため息混じりに申し上げれば、ローズマリー様も苦笑されます。
「新しい魔法の実験でしょう。知るものは少ない方がよろしいですわ。それに、わたくしはまだ、『イルワ侯爵派閥』の者なのです」
憂いの表情は、先ほどの主家を変えるお話からでしょう。まだ、『国を裏切った貴族の派閥』だと。けれど、『まだ』と仰ってくれるならば。
「では、『いずれ』ご一緒いたしましょう」
「ええ、『もちろん』です」
まだはっきり口にはできないけれど、その意思はある。そう言っていただけたのです。
今日はここまでですわね。
「では、ローズマリー様、ごきげんよう」
「ごきげんよう、お二人とも」
ローズマリー様を見送って、わたくしたちは先生の部屋のドアをノックしました。
数拍置いてドアが開き、瓶底眼鏡にボサボサ頭、黒いローブのアンドン先生が現れます。
「先生」
思わず、わたくしもメアリー様もじっとりと先生を見つめます。流石に、その髪型はいかがかと思います。櫛すら通していないのがまるわかりです。
「良く来たな。丁度良い。早くこい」
先生はそう言って部屋に戻ってしまわれます。熱中すると無頓着になるタイプなのはこの数ヵ月でいやと言うほど知ったつもりでしたが、ここまでとは。
というか、ローズマリー様、この状態でも『あり』の判定でらしたのですか。
それはそれで、すごいかもしれません。
先生の後を追って部屋に入ります。
実習机の上に、少し大きなお菓子の箱くらいの木箱が置かれておりました。前世の知識で言うと、なんでしょう、ビジネスホテルのバスマット、くらい? 大判の世界地図、などでしょうか。
木箱の中には灰茶色の土と石を固めて焼いた素焼きの陶板のようなものが収まっていて、その表面、おそらく焼くときに削っておいた陣の形の窪みに、白い線が引かれております。
陣の形は、わたくしたちが作成したものがベースなのは分かりますが、所々差異があります。線も、わたくしたちはラピスラズリの顔料を最適としていましたが、この白さはなんでしょう。わたくしがじぃと見詰めていると、アンドン先生がくつくつと笑っています。
「陶板は例の屑石を用いたものだ。陣はお前たちのだとお前たち基準で使い物にならん」
わたくしが顔を上げますと、先生は瓶底眼鏡をキラリと光らせて仰います。
「お前たちは簡単に結晶化していたが、僕は一番調子が良いときでないとできなかった。あれは、お前たちみたいなバカ力の奴が使わないと意味がない」
あ、なるほど?
わたくしもメアリー様も魔力の量が多いことが受講の決め手の一つだったわけですが、実は結構な規格外でしたの?
先生はあの陣で再現実験が出来なかったわけではないですが、条件がシビアで一般化が難しいと判断された、と。
「そこで、陣の改良と素材の選考をやり直し、満足いくものにできたので、更なる一般化のために作ったのが、これだ」
目の前の陶板を示して、先生が仰います。
屑石を陶板にすることで、紙よりも漏出を防ぎやすくし、また、陣を彫り刻むことで紙と石という異素材のロスも無くす。陣に使う顔料も、紙で無くなった分魔導率が多少下がっても影響を吸収できるため安価にできる。もちろん、ラピスラズリを使った方がより良いけれど、高価になる。
「とはいえ、お前たちの青の顔料と比べても、僕の配合では誤差は百分の一にも満たないからな」
先生は誇らしげ。
わたくしは先生と陶板を交互に見ます。
この短期間で、ここまで。
やはり先生は
「素晴らしい。先生はやっぱり、すごい方です」
おそらく、わたくしとメアリー様では一般化のフェーズで躓いたことでしょう。なにせ、他の人の魔力の量なんて知りようがありませんもの。
たくさんの生徒をみて、たくさんの研究を重ねた先生だからこその成果です。
「素晴らしい成果です。先生。論文などは発表されるのですか?」
でしたら、是非読ませて頂きたいのですが!
「……いや」
ですが、先生は首を左右に振りました。
「今日はその話をするつもりだった。ジンカイイ、コンツェルト。お前たちの成果は、そして僕のこれは、秘匿することにする。僕は学園の講師として、これを王家に報告するが、合わせて、禁術として認定してもらう」
その言葉に、わたくしたちは息を呑みました。
わたくしたちの実験は、ローズマリー様もナハトも知っています。その上で、成果を禁術に認定してもらう。となると、わたくしたちは、これについて、一生口をつぐむことになります。
おそらく口にすることは無いでしょうが、それは。
「何故ですか」
問いかけるのはメアリー様です。
確かに、己の成果を秘されるのは面白いことではございませんね。ですが、先生のこと、何かお考えがあるに違いありません。なにせ、ここまで一般化できる要素を揃えてなお、そう仰るのですから。
わたくしたちがじっと先生を見詰めますと先生は静かに仰いました。
「世のため人のため、だ」
「世のため」
「人のため?」
メアリー様とわたくしはアンドン先生の言葉を繰り返します。先生は頷かれて、続きを口にされました。
「魔法、魔力の使い方が、その一族に閉じられているか、この魔力学でしか学べぬ今、魔力持ちの一族以外の、お前たちのような野に生まれる魔力持ちたちは、知られていない。だが、確かにいる。貴族にも、平民にも。もし、この陣が世に出れば、彼らは、引いてはお前たちは、魔石を作るために『使われる』ようになるだろう。羽振りの良い貴族は良い。だが、平民は? あるいは、借金にまみれた者たちは? 魔力があるかさえ明らかでなくとも、『そう使われる』ようになるだろう。僕は、それを防ぎたい。いずれ知られるとしても、それは、まだだ。少なくとも、僕が魔力を一般に伝えてからでなければ」
アンドン先生は深刻な面持ちで仰いました。
わたくしたちは、ただ言葉を失うしかありません。ですが、アンドン先生の仰ることは、尤もなことです。
魔石は生活必需品。それが思うまま作れるようになる。それだけでも大事ですが、さらに、誰でもではないが作れるものはきっとそれなりに居るならば。
例えば、奴隷のように、石を作るためだけに扱われる人も出てくるでしょう。前世の国産絹糸産業の末期や、あるいは、モノカルチャー経済のように。
おそらく、黙っているだけでは、鼻の聞く商人や裏のものたちは気付くでしょう。そういうものです。情報というのは。そうして、闇に魔石が作られ、売られ、作るために売られる人たちが出てくるでしょう。
スノーヴィ侯爵領を始めとした魔石の坑山を持つ貴族も、反発を強めるはずです。
社会が大きく変わるでしょう。例えば、石炭文明に石油が実用化されたときのように。電気が蒸気にとって変わったときのように。
それは大きく、人の心も変えるのです。
「承知しました、先生」
わたくしは頷きます。メアリー様はわたくしと先生を交互にご覧になります。
「プリム様の成果が、まるで悪意のように禁術にされてしまうのは、納得できません」
メアリー様は、理解された上で、わたくしの立場を気にしてくださっているのですね。
「メアリー様、これはきっとその悪意を防いでくれますわ」
「え?」
「世に出て、悪用されてからでは、たとえ悪用したものが悪かったとしても、道具を悪の要素にされるでしょう。ですが、世に出す前に、悪用されないように封じてください、と言ったなら、作ったものは『悪用させたくない』と意思表示できますわ。これは、自衛なのだと思います」
「その通りだ。使えないものが出来てしまった、位でいればいい。法に禁じてもらえば、使った奴が悪いことに出来るからな」
まだ、この陶板にかかる法も規制もないのですから、今ある法で使わせない手段をとる、ということです。
メアリー様はそれでもしぶしぶといった様子で頷かれました。
「すまなかったな」
そして、先生が頭を下げられます。
「僕が指示したことだが、お前たちの成果を、結果的に封じることになる。世の中が変われば、世に出ることもあるだろうが、無念なのは百も承知だ。すまない。だが、僕は、お前たちの無念と成果には謝罪するが、やったことを謝罪はしない」
まっすぐ、先生が仰います。
「僕は、教師として、魔法を一般化するものとして、誇りを持ち胸を張って、これを封じる。それを悔いもしないし謝罪もしない」
しっかりと、わたくしたちを見詰めて、アンドン先生は言い切りました。己の責任として、そうするのだと。
わたくしはいっそ清々しくなってしまいますし、メアリー様も目を真ん丸にして、それから深く頷かれました。
「以上だ。僕は次のことを考えるから、お前たちは帰れ」
にしても、扱いが酷いですわね。
そんなわけで、わたくしたちはアンドン先生の部屋をあとにしました。まだ午後のお茶の時間にも早いですわね。
「メアリー様、この後のご予定は? わたくし、今日は午後全てアンドン先生の実習になると思っておりましたので、予定が空いてしまいましたの」
「……では、プリム様、二人きりでご相談させていただきたいことがございます」
メアリー様が真剣なお顔です。他の方に聞かれないように、となると、どこが良いでしょうか。
「わたくしの部屋で伺いましょうか? エステルがおりますけれど、二階よりは廊下の人通りも少ないですし」
「よろしいですか?」
「もちろん」
そうして、わたくしたちは寮に帰りました。
エステルにお茶を頼んで、わたくしの部屋に腰を落ち着けます。だんだん相談室じみてきましたね、とエステルが微笑みましたけれど、そこまででしたかしら。
メアリー様と二人で一口ずつお茶を飲んで、息を吐きますと、メアリー様はおもむろに口を開きました。
「プリム様」
「はい、メアリー様」
「実は昨年のお茶会以来、リバート様とお手紙のやり取りをさせていただいているのですが」
まあ!
まあ! まあ! まあ!
「まあ!」
思わず呟きましたけれども、メアリー様は少し頬が赤いですわね。よろしくてよ、よろしくてよ。
あ、ですけどもしかして。
「お兄様はご迷惑をお掛けしておりませんか?」
強引なアプローチはいけませんからね。わたくしからも釘をガンガンとさしていきますけれども。
「迷惑だなんて、そんな! すごくこまめに頂いて、申し訳ない位です。それで、その、お世話になっている、お礼をさせていただきたくて」
お兄様、メアリー様にお礼を頂けるほどお世話なさってましたの? いつの間に?
えっ、なんで?
わたくしいつも、メアリー様と一緒におりましてよ?
「お兄様とメアリー様がそのような間柄でらしたなんて、わたくし、存じあげませんでしたから驚いてしまいましたわ。お礼なんて、お兄様はそんなに気を遣わずとも、と仰ると思います」
メアリー様はまた顔を赤くされます。頬に朱の差したヒロイン! ここ! スチルポイントですわよ! 見ているのはヒーローではなくわたくしですけれど! 役得!
「そうだと思います。ですけれど、わたくしが、差し上げたくて。それで、あの」
によによしてきてしまいますわね。
「はい」
「刺繍を入れたハンカチーフを、差し上げたいのですが、リバート様の好まれる意匠などありますか」
時間がかかるので秋までにはなんとか、と、可愛らしく仰います。あらやだー! お兄様の好まれる意匠ですとかー! これはもはや好感度イベントではー!
「初めてお渡しするなら、イニシャルが無難ではないかと。お兄様向けなら、そうですね、我が家の蓮の花の意匠などいかがでしょう」
メアリー様は目を丸くされます。
「ジンカイイ侯爵家の紋章ですよね? よろしいのでしょうか」
「紋章ではなく、蓮の花そのものを図案になさるなどいかがでしょう。紋章ですと、いかにも、となってしまいますでしょう?」
いかにも婚約者からもらいました、みたいに。
メアリー様は考え込んでしまいます。まあ、蓮って言われても困りますわよね。一般的に刺繍の柄にあまり使われませんし。
「メアリー様、図書室に参りましょう」
「えっ」
「植物図鑑を見て図案を考えませんか」
「そもそも、わたくしにできるでしょうか」
急に自信を失われますわね。これはかなり追い詰められてましてよ。あ! そもそも勝手に蓮に決めつけてますわわたくしったら! 喜び勇みすぎですわね。
「ごめんあそばせ。勝手に決めつけておりましたわ。メアリー様の良いと思われるものが、やはり一番かと。お兄様なら、メアリー様が選んでくださったのもなら何でも喜んで身に付けますわ」
仕舞い込むかもしれませんが、そこはそれ。
「あ! いえ、蓮の意匠が嫌だとか、そういうわけではなくて、プリム様にも、リバート様にも、たくさんのものを、えっと、触れるものだけじゃなくて、思いや考え方や、貴族のこと、社会のことをたくさん、頂いています。わたくしは、きちんとそれを返せるのかと思うとなんというか、分不相応に頂いている心地なのです」
そんなこと!
「そんなこと、ございませんわ。わたくしも、兄も、メアリー様からたくさんのものを、同じように頂いております。わたくしの日々がきらめきだしたのは、メアリー様のお陰ですもの。自信をお持ちになって」
メアリー様は、わたくしをじっとご覧になります。澄んだ綺麗な、まっすぐな眼差しは、わたくしを射抜くようです。
「はい。プリム様。わたくし、やっぱりプリム様のような背筋を伸ばした令嬢を目指します。自分のことを、きちんと見詰められるようになりますわ」
言って、メアリー様は冷めてしまった紅茶を──エステルがおかわりを注ぐ間も与えてくれずに──飲み干されました。
「ありがとうございます、プリム様。あとはわたくし、一人で考えてみます!」
言いおいて、メアリー様は立ち上がると、軽く礼をなさってわたくしの部屋を後にされました。
わたくしはその背を見送ります。少し、眩しく思いながら。
「エステル、脈あり、と見て良いかしら」
「よろしいかと思います、お嬢様」
直ぐ様背後に控えたエステルが答えます。
「恋する乙女は可愛らしいわね」
通算でアラフォーのわたくしから見ればもう、甘酸っぱくて甘酸っぱくて。
わたくしがうふふ、と笑っていると、お茶のお代わりを注いだエステルがきょとんとして。
「お嬢様も可愛らしいです」
「あら。ありがとう、エステル。そう言ってくれるのは家族とエステルくらいよ」
申し訳程度の金髪に、榛色の目。特筆してポイントのないボディライン。乙女ゲームなら多少盛ってくださってもと思いますが、モブは目立たぬ掟。侯爵家という不自由のなかった育ちと、エステルのケアのお陰でみられる容姿なだけだと思いますわ。
「プリム様、王族と他国の後継に求婚されていることをお忘れで?」
「わ、忘れさせてほしいわ」
抱き留められたときの暖かさとか、思い出させないで! ちょっと心臓に負荷が掛かってきましたわ。びーくーる、びーくーる。
「お嬢様、今、どなたか思い浮かべられましたでしょう」
エステルが問いかけます。たぶん、エステル以外の侍女なら許さない質問です。そもそも聞いてこないと思います。
「正直に言えば、そうね」
そして、エステルだからわたくしも素直に頷きます。
「わたくしは、お嬢様が選ばれることに、基本的に否やはございません。わたくしの願うのはただ、お嬢様が幸せになることですから。ただ、絶対に幸せになれないときは、断固として反対いたします」
穏やかにエステルが続けます。ティーカップから上る湯気が、頬を撫でて、ああ、顔が赤くなってしまいます。
「ありがとう、エステル。でも、大丈夫よ」
わたくしは、だから頷きます。
「だって、貴女は着いてきてくれるでしょう?」
真ん丸に目を見開いたエステル、というのも、なかなか珍しいかもしれません。深く、力強く、彼女は頷きました。
「もちろんです、お嬢様」
お茶を一口。熱すぎず、濃すぎず、甘さを感じる香りの、わたくしが好きな淹れ加減。
「エステルのお茶じゃなきゃ、おちつけないものね」
「光栄です、お嬢様」
二人で笑いあってから、わたくしは、一つ、息を深くはきました。
「ねえ、エステル」
「はい、お嬢様」
「好き、なのでは? くらいではどうかしら」
「お嬢様が、好きなのでは? であれば、それはほぼ、好きですね」
エステルが深く頷きます。
撃沈。沈没。大爆発。
一気に顔に熱が集まります。
いえ、でもまだ。まだですわ。まだです。
「まだ!」
「いえ、落ちているかと」
エステルの一刀両断たるや。逃げ場がございません。
「お嬢様はお優しいので、およそ『普通』の感覚が『好き』寄りなのです。ですから、自覚的に『好きなのではないか』となった時点で特別に好意を抱いておられます」
論理的に断言されましたわ。
「わたくし以上にわたくしを分析してるわね」
「お嬢様の侍女ですので」
「……時間が判断するでしょう! 恥ずかしすぎるから話題を変えるわ! エステル、サシェの方はどうなっていて?」
ここは多少強引でも話を変えましょう。エステルなら追求しないはず。
エステルは思惑通り、はい、と頷きます。
「ハーブのご用意は済んでおりまして、あとは袋を作るばかりでございます」
「ありがとう、袋は私が縫うわ。メアリー様に、わたくしもなにか用意したくて」
エステルはかしこまりました、と応じてくれて。
ああ、そうね。
「お買い物に行きましょうか」
「お伴いたします」
何も聞かずに頷いてくれますし。
「サシェの布と、首に下げられる紐を選びに行くわ」
「はい、お嬢様」
お茶の時間の少し前。
わたくしたちは学生街へ繰り出しました。
香りを楽しむなら布はリネンがいいですね。いい色のリネンがあれば良いのですけれど。学生街の奥の方、雑貨店が多い辺りへ参りましょう。
「商会の店舗も近くにあったわよね」
問いかければ、エステルはこちらです、と案内してくれます。
自分の商会に良いものがあればそれでも良いですわね。プリムローズ商会は本店をジンカイイ領の商店街に構えており、都には学生街に売店、大通に支店を構えております。売店の運営は支店に任せておりますので、売店にはわたくしの顔を知るものはあまり居ないと思います。
キオスクサイズの売店に、店員が一人。
入り口と店員の居る一角以外全て棚。棚には文具や学生生活で使われそうな雑貨品がところ狭しと並んでおります。価格も手頃なものばかり。なるほどなるほど。
片隅に、女子向けの刺繍道具が一式並んでおりますね。
あら、この布は──
「ジンカイイ領の蓮布ですね」
エステルが覗き込んで言いました。
蓮の茎を折ったときに出る繊維を濡らしながら撚って作る糸を織ったものです。蓮の栽培が盛んなジンカイイ領以外ではあまり目にすることもありません。その分、都では高値で取引されております。
ここにあるのはその端切れで、不揃いで端の始末もない分安価ですね。
「こちらは?」
パートらしい中年女性の店員が、会計机の向こうから答えます。
「本店と支店で扱っている蓮布の端切れですよ。ストールや小袋なんかを作ったときの余りですから、品は最高級ですけどお安いですよ」
小さな端切れが詰まって小銀貨一枚。お買い得ですわね。
「二包み貰うわ」
「はいどうも」
合わせて革ひもも買って、エステルに会計を任せます。
店を出るとエステルが不思議そうに問いかけます。
「かなり小さい布もございますがどうされるのですか?」
「刺繍とパッチワークをしようと思って」
刺繍できるほどの面はあまり無いようですから、まずパッチワークで形を作って、模様を刺してみようかと。本来のパッチワーク刺繍は刺繍した布でパッチワークをするもののようなのですけれど。
「細い布も多いですから、花弁に見立てるとよろしいかもしれませんね」
エステルが呟くので、帰って広げるのが楽しみになりました。
あまり器用ではありませんけど、嗜み程度の刺繍なら刺せますし。
石を隠すにも身に付けておいた方が良いですわよね。
メアリー様の分だけでも、急いで作りましょう。
日が傾いて、夕暮れに差し掛かる頃合い。でもまだ明るくて、初夏の訪れを感じます。
試験の結果が出て、夏がきたら──夏休みですね?!
学園に入ってから、わたくしがやろうと決めたこと。
メアリー様の侍女。
メアリー様とお兄様。
商会の新商品。
わたくしが考えないといけないことは、ムジーク様とのこと。イングラム王太子殿下とのこと。
思えばいろいろやってますわね、わたくし。
まずは、あの隠れ家食堂のことと、ムジーク様のお茶会、それから結晶を入れるサシェ。
そうそう、試験結果をお父様にお知らせする手紙を書かないといけません。夏休みの予定はそれからです。
やること、やりたいこと、やらねばならないこと。ああ! タスク管理アプリが欲しいですわ!
手帳でも買おうかしら。
そう言えば。
「エステル、あなたとわたくしの予定は、どうやって管理してくれているの?」
「ノートの片隅に日付を書いて、一ページ一日分にしております」
「そうよね。せめてノートがもう少し、ポーチに入れられるくらいになってくれれば良いのだけど。商会に頼んでみましょうか」
あら。やることを書き付けたいのに、やることが増えましたわ。
「お嬢様」
「なあに?」
「ご自愛ください」
自重しろということね。耳がいたいですわ。
そんなことを言いながら、寮に帰り着きました。
さて。
まずは考えたことを書き付けておきましょう。




