第79話「流れるものすべて」
明くる日は宿の外に椅子を置くことから始めた。朝靄を払うような冷たい風が私の頭にとぐろを巻く眠気を払ってくれるのを感じながら、テーブルに紙を広げて思索に沈む。なるべく能率的に交渉を済ませないといけない。そのために今日やるべきことは何か。雑に書き出したら十個にもなってしまった。こんなに全部はやれないよ。絞り込まなきゃ。
ようやく三つにまで絞り込むことに成功したころ、きいきいという何かの軋む音が聞こえはじめた。見ると、向かいの建物から車椅子の女性がこちらへ向かってきている。車椅子の両脇に板が張り出していて、その上にはお皿のようなものが乗せられている。小屋の扉を開けると、女性は丸い顔を笑顔で満たして頭を下げた。
「朝ご飯です」
器用に置かれたお皿にはふかしたお芋と果物の盛り合わせ、それに薄い干し肉が何枚か。続いて湯気の立つお白湯が置かれる。
「わ、美味しそう。ありがとうございます」
板の間の片隅に腕組みをして硬直していたアトミールが土間へ這い出してきた。
「おはよう。ご飯食べよ」
土間をサンダルで歩く摩擦音とともにアトミールは食卓にやってきて、私の向かいへ座る。食事の祈りを済ませ、いただきます。最初は……この芋にしよう。湯気が上がってる内のほうが美味しそうだ。
ふっくらほくほく、そこに塩味が入って冷えた体に染み渡る。うーん。素敵!
ふと視線を感じる。アトミールがこちらを見て微笑んでいる。
「なんか食べづらいなあ」
「ごめんごめん。クロエが美味しいものを食べてるのって、見ていると楽しいから」
「婆さまみたいなこと言うね」
もう亡くなったのは何年も前のことだけど、ご馳走を食べる私を見ては嬉しそうに言っていたものだ。お前は本当に美味しそうにご飯を食べるって。しみじみ感想を言ったら、アトミールはすまし顔で言う。
「クロエのお婆さんには負けないよ。連続稼働時間は三〇〇年以上です」
「そこ、競うとこ!?」
朝から笑っちゃった。ああ、おかし。
気分転換はこんなところにしてそろそろ本題に入ろう。
「今日は仕事を分担しよう。アトミールには外で調べ物をして欲しいんだけど……できるかな」
「わかった。何を調べればいい?」
「ここの歴史を。私は今の様子を調べるから」
誰かに明日何かをしてもらいたいのなら、その方法はきっと今日か昨日にある。アトミールを見送って、私も出かける支度を始めた。
一歩歩くたびに何かが軋む。それは背負っている荷の擦れる音であることもあれば、私の背中や足であったりもする。感情論だけ言えば、今私は後悔の気持ちで一杯だ。
「す……すみません。ちょっと休憩させて……」
ようやく倉庫に戻ってきた私はなんとか言葉を絞り出す。
「いいさいいさ。そこで休んでな。おおい、マーリ。何か飲み物を持ってきてあげなさい」
ぺこぺこしながら倉庫脇に座り込む。
ああ、絶景だ。
アルレシア山の綺麗な輪郭を背景にして、冬がすぐ足下まで迫っている。山頂近くはもう深い雪化粧がなされているし、広葉樹は寒さに備えてすっかり葉を落としきっている。その景色に向かって再び薪束を背負い歩き出す十人の影。彼らはアルレシア山中腹の山小屋まで越冬の資材を運び上げる仕事をまだ続けるつもりだ。
「おつかれさんです。お白湯を持ってきました」
マーリさん――朝食を運んできてくれた車椅子の女性――がやってきた。
「いただきますね」
喉を流れていくお白湯が、外の作業で冷えた体に染みていく。
「ああ……とっても美味しいです」
頭を下げると、マーリさんは人懐こい丸顔に浮かぶ双眸を細めた。
「これもお山の恵みなんですよ」
「湧き水ですか」
「そうそう。お山はそこら中から湧き水が出るからね。どこの郷も湧き水があるところに建っているの」
二人で山を見上げてしばし、私の口から言葉がにじみ出る。
「わかる気がします。こんな綺麗なところを戦場になんてしたくない」
「お山で流れたものが長い時間を掛けて、土と石で濾し取られて湧いてきてるんです。雨も、雪融け水も、みんなが流した汗も。血も。涙も。全部」
マーリさんの言葉に共感を覚えながら、冷静な部分の私は唸った。困ったな。こんな世界観の人たちに対して、平和的に戦争協力を求める方法なんてあるんだろうか。あるとするなら、それは……。
「マーリさん。これは仮定の話です。もし、アルレシア人でもなければ、私たち連邦の人間でもない誰かが。契約になんて縛られない何者かがお山を自分のものにしようとしたとします。そんなとき、皆さんはどうなさると思いますか」
「そんなの決まってます」
マーリさんは一切躊躇しなかった。
「戦います。ご先祖さまがあなたたちにしたように」
不吉な音色の角笛が吹き鳴らされ、私たちの会話は終わった。
角笛を聞いたマーリさんの顔色が変わったのを見た私は、彼女を連れて郷の中心部へ急いだ。何か異常事態が起きたに違いないという私の直感は当たっていて、マーリさんによれば、この音を聞いた者は全ての仕事を放棄して集合するようにという号令なのだという。
私が駆けつけたときには門の前に人だかりができていた。その中心には、傷だらけの浅黒い少年が倒れている。その普段目にするものとは全く異質な傷に、私は見覚えがあった。
「殺人機械!」
その場にいたいくらかの人がぎょっとしたようにこちらを見た。
「わかるの」
人だかりの中からアルさんの声がした。
「アミリス・オナーに現れたとき、戦いました」
「どうなったのかしら。教えてくださる」
「多くの犠牲が出ましたが、撃退することができました」
囁き声が飛び交うのが聞こえた。
「……そうですか。ありがとう。みんな、聞いた? 殺人機械と言っても倒すことができる。不意を衝かれた二つの郷がやられたけれど、私たちは外敵があることを知っている。クロエラエールさん。山の外からのお客人。早くお逃げなさい。殺人機械の狙いは郷のようだから、今逃げればきっと大丈夫」
私は知っている。殺人機械を倒すとき、ただ事でない犠牲を払ったことを。そして、その場にはアトミールがいたことを。あんな大軍勢をこの土地の人たちが用意できるとは思えない。アトミールも今はここにいない。
私は知っている。たぶん、殺人機械の狙いは郷ではない。私に協力することのできる存在を消しに来たんだ。油断していた。このことをちょっとは警戒すべきだったし、警戒していればアトミールと別行動を取るという選択肢は取らなかったはずだ。
ここで私が立ち去れば、きっとこの人たちは死ぬだろう。それは私の失敗のせいだ。そして、登山に協力を得られなくなった私たちが登頂に成功する可能性は小さくなる。
こんな合理的な判断をする前に、私の口は勝手に動いていた。
「嫌です。私も戦います」




