37.なんかおかしな人しかいない
宵さんに蹴られたおじさんはその後無事に何事もなかったかのように立ち上がり、背伸びをした。
「いやー最近姉貴に蹴られても普通に立ち上がれるようになったわ。いやー慣れってすごいね」
「いや、これ慣れとかで片付けられるレベルのものなんですか。怖いですよ、恐ろしいですよ、おじさんの体の構造どうなっているんですか」
すがすがしい表情で背伸びをしているおじさんを見ているとなんだか寒気がする。昔は蹴られた後は必ず四、五時間は生死の境をさまよっていたのに。これを慣れと呼んでしまうのにはいささか抵抗があるというか、もうなんて言っていいのかわからない。
「そして、思い出した?」
私が彼を軽蔑しているとドスぐろい声がおかっぱ頭の女性から出てきた。その声におじさんはビクッと肩を小さく震わせる。
その反動とともに、おじさんは一生懸命に罪を消そうと体中にあるすべてのエネルギーを使ってそうな勢いで言葉を返す。
「オモイダシマシタ! オモイダシタヨ! 凛和ちゃんだよね! あの小さかった! 大きくなったね」
「ならばよし」
笑顔で宵さんはおじさんを許してくれた。
その反応でおじさんと私は胸をなでおろした。これ以上おじさんが蹴られたらシャレにならないし、見ている私だって体制が消えて内心ハラハラが収まらない。
さっきだって無意識に携帯をポケットから取り出していたのだ。もうこれだけで私の無意識に抱いた感情がよくわかる。
おじさんを許した宵さんは改めて私のほうを優しく見つめてきた。優しくというか、なんかとても大事にしている宝石とかを見る目って言ったほうがいいのかもしれないけれど、そんな感じで私を見つめてくる。
そして彼女は私に向かって走ってきたのだった。
「ふぁ!?」
次の瞬間には私の発育途中の胸に宵さんの豊満な胸が押し付けられていた。それと同時に彼女の柑橘系の香水の匂いがふわっと私の鼻に触れる。
これはどういうことだろうか、私は必死に今の状況の発端を考えようとした。が、その思考はいらなかった。
なぜ、そんなのは簡単だ、宵さんがこう言ったんだ。とてもうれしそうに、とても優しい声で、私を包むように。
「おかえり! 凛和ちゃん。ずっと……ずっと会いたかったよ」
だから私も同じように溶けるような声になってしまったけれど、優しく言った。
「はい、私も会いたかったです」
これは、本心だった。
場所を移動して、宵さん宅。そこには当たり前のように、宵さんの旦那さんの瑞茄さんは深緑色のソファーに腕を頭の後ろに敷いていいる状態で寝転がっていた。
…………相変わらずだな。
どこかだるそうな目に、どこか剃りきれていない髭、ぼさぼさの髪、働きたくないと書かれたTシャツ、そしてジーンズ、ちょっとやせ細った背丈。相変わらずだ。何一つ変わっていない。変わったのは顔に地味に出てきた中年特有のしわだけだ。
「いやあ、凛和ちゃんおひさ。相も変わらずかわいいね。オジサン嬉しいよ。……抱き着いていいですか」
そんな瑞茄さんは微笑みながら久しい出会いに喜びを伝えてきたと思いきや、急に真顔になってそんなことを言ってきのだった。
この人って、こんな人だったっけ。あ、こんな人だったわ。
私はため息交じりに返事を返す。
「その後に鳩尾にパンチをくらわしてもいいのならいいですよ」
「では失礼」
その言葉の直後に彼は抱き着いてきた。
と、そんな彼の体が私の体に着くか付かないかぐらいで私は瑞茄さんの鳩尾に言ったとおりにパンチをくらわした。
もちろん、手加減はない。
ないのだが、私が殴った瞬間に瑞茄さんは思いもしない言葉を口にした。
「ありがとうございます!」
「っひ」
私は意外な言葉に体が反応して、一瞬硬直してしまった。
この人ありがとうございますって言った、ありがとうございますって言ったよ、なにこれ、怖い。現実でこんな人いるだなんて知らなかった。いや、知っていたけれど。やっぱこの人はなんだか怖い。
私が恐怖で顔を歪めていると、おお、やってるやってるという声が後ろから聞こえてきた。
宵さんだった。笑っている。とても微笑ましそうに笑っている。
「ふっ、これは僕の中でのご褒美だからね。にしても、ごほっ、凛和ちゃんちから強くなったね。握力いくつなの?」
「片手で林檎を平気でつぶせるくらいです」
「おお、さすが要姉さんの娘さんだ」
平気そうな、へらへらした顔に一筋の赤い線が口から垂れている瑞茄さんは、ついでとばかりに宵さんに向かって叫んだ。
「これから先が怖いよ! どうしようか宵ちゃん!」
「しらん、お前一通りに儀式が終わったのならば仕事をしろ。ほら、パソコンがたくさんある仕事場はあの白い扉を開けたらすぐあるよ」
おぼんの中にあたたかい紅茶が入ったカップを乗せながら、顎で扉を一瞬だけ指して、冷たく宵さんは言葉を返す。
「いつも通りの反応だ! なんかうれしい」
だが、彼はへこたれなかった。とても喜々としている。この人は何なのだろうか。
「働けよ」
喜々としている瑞茄さんと、とてもうっとおしそうにさっきまで微笑ましそうに笑っていたが、今は冷たい視線を送っている宵さんを見て、私はなんだかほっこりとしてしまう。冷たい視線を送って、冷たい現実を突き付けながらも手に持っているお盆の中にはカップが三つあるところを見るとさらにほっこりする。
ちなみに言っておくが、この私が今いる空間の中に人間は三人しかいない。おじさんは仕事のために自分の持ち場を離れるわけにはいかず、ここには来られなかったためだ。
にしても、どちらにしても瑞茄さんのテンションはどこから来るのかが謎だ。いや、多分本質があれなんだろうけれど、それにしても凄いポジティブだし、へこたれないし、本人が楽しんでいる節あるし……あ、そういうことか。なるほど。
そのあと私たちはたわいもない話をしながら、結局紅茶を三人で飲んだ。
今はどういう生活をしているとか、義理の兄はいろいろ癖はあるけれど、いい人だとか。お兄ちゃんの友達とかにもよくしてもらっているとか話した。もちろん今のお義父さんやお義母さんのことも話した。
そして、よかったらこっちに来て遊ぼうとも言っておいた。
宵さんたちはどこかぎこちない笑顔でそうさせてもらうと言ってきた。多分この反応はずっとこれからも来ないんだろうなと思えてしまったのは内緒だが、私は楽しみにしているねと言っておいた。
そうしているうちに数時間の時が過ぎ、時計の長い針は三という数字を指していた。
「あ、もうこんな時間だ」
私のふとした言葉に瑞茄さんが反応してきた。
「ん? ああ、もう三時か。おやつの時間だね。宵ちゃん、お菓子作ってはーと」
「作らないよ。というか、はーとって、気持ち悪いな。仕事をしろ、仕事を」
そして当たり前のように、冷たくされる瑞茄さん。でも冷たくされた本人はやはり満更でもなさそうだ。うーん、この夫婦の関係はなんか見ていてハラハラするものがあるな。まあ、絶対離婚とかはしなさそうだからそういった心配はしなくていいんだけれど。
でも今日はそういった気遣いはいらない。私は申し訳ないがおずおずとそれを丁重にお断りすることにした。
「あ、あの、一緒にみんなでワイワイと宵さんの作ったお菓子を食べるのも興だとは思うのですが、今日は生憎これから行くところがありまして、私は申し訳ないのですがここらでおいたましたいのです……」
あれ、これで敬語あってたっけ? なんてことを考えながら私は彼らの顔色を少しうかがった。私の急な申し出に不機嫌になったらどうしようと思ったのだ。
この夫婦はなんたって私の母と父がいなくなった今、最恐となっている二人なんだ。もしもドンパチが始まったものならば止められるものなど誰もいない。だから、この二人を起こらせるわけにはいない。
が、それは私の考えすぎだったらしい。彼らはぷっと顔を見合してなぜか噴き出していた。え、なになに、なにがおかしいの?
私は必死に考えるが分からない。彼らは何に対してそんな噴き出すまでに笑っているのだろうか。
「ああ、凛和ちゃんそういうの変わってないなあ。相手に何か自分の発言が不都合がありそうな場合はびくびくしながら急に敬語になるの。ああ、面白い」
「え、面白……」
「な、というか可愛すぎだあ。僕はこの娘を姪に持ててよかった。ありがとう、宵」
なんだろう、この人たちの反応を見ていると恥ずかしくなるのと同時にとてもムカつく。
とりあえず殴りたくなる。それか穴にあったら入りたい! うん!
というか、なんかリア充爆発しろとかそんなことを思ったのは気のせいだろうか。まあ、どうでもいいんだけれど。
「にしても、この娘は本当にかわいく育ってくれたよね。というか、見事に斗執兄さんと要の顔立ちでいいところを総取りしてやがるよ。……凛和ちゃんはさ、彼氏とかいるの?」
「いませんね」
宵さんの急な興味に私は一秒も関わらず答えた。ちなみに言っておくが、斗執とは私の父の名前だ。
にしても、どうやったらそういう思考になるのかが疑問だ。私の恋愛事情には何もないというのに。こくられたことなんて一度もない。
「え、じゃあさ、好きな人は? それぐらいならいるでしょ?」
「いません」
…………瑞茄さんも乗ってきやがった。辛い。
けれど、いないことには変わりはないので、ちょっと殺すぞこの野郎というようなさっきに満ちた表情で一瞬のうちに返事を返した。
それですべてを察してくれたらしく、宵さんによし、宵ちゃん。この話題については触れないようにしようと言ってくれた。さすが瑞茄さん。
と思ったら、宵さんもうん、うんと激しく首を振ってきた。
え、待って。私そんなに危険人物じゃない。
それから数分して私は頭を下げながら宵さんたちの家を出た。
家を出る時に宵さんと二人きりになった私は、急に真面目な顔をしている宵さんに戸惑いを隠せなかった。
なぜ、そんな顔をしているのかを聞きたかった。だから口を開こうとした。が、それは彼女の口から告げられたのだ。
「私は、これからあなたがどんな道に進もうが、守るから。どうせ、行く場所ってあそこでしょ? あの山道のてっぺんに存在するあの……家に」
彼女の表情は重く、私の過去に重りをかける。
あの出来事が起こった。あの場所。もう、後戻りはしたくてもできない。後悔しても、後悔しきれない出来事が起こってしまった場所なのだ。
「あらら、バレてしまいましたか」
「だって、そんなに傷だらけ……」
彼女は私の全身を見る。隠したはずなのに、隠しきれていない白い布。それが今の私の現状を物語っている。が、私はそんなのは気にしないとばかりにアハハは、と笑う。
「あ、いや、これは何というか転んだ、そう、転んだだけですから!
というか、なんでこれかそんな実家に行く根拠になるのです? 関係ありませんよ。やっと高校生になれて、自分で自在にいろんなところに行っても怪しまれないような年齢になったのです。そうだ! 家に帰ってみようって気になるのが当たり前ではないでしょうか?」
「えー本当?」
嘘だ。でも、私は笑顔を崩さない。
「本当ですって。だから心配しなくても大丈夫ですよ。ただの墓参りですから」
「墓参りなら八月にしたらいいのに」
「早く来たかったのです」
「なるほど。じゃあ」
宵さんは華奢で、綺麗な手を私の頭にやさしく置く。そのまま優しくなで、優しい顔で、安心するような声で私を激励してくれた。
「がんばれ」
「はい」
宵さんの手のひらは相変わらずとても安心できた。大人の優しい手は今でも好きなのを感じて、自分はまだまだ子供だと思ったが、そんな気持ちよりもうれしいという気持ちが勝ってしまったので、私はその気持ちを笑ってごまかした。
ごつごつとした石でできた階段。その階段の横を見ると車が通れるよう、S字にされ、舗装がしてある道路が見える。そんな階段は昔と何一つ変わることなく、綺麗で、風流で、不思議な気分にさせられる。
そんな階段を私はひたすら上り続ける。
十分ぐらいたって、私の家があった場所が見えてきた。
そして、私は視界に映った光景を見て、絶句した。
そこ光景は、あってはならないものとさえ思えた。
すべてが燃えたあの場所は、すべてが廃棄されることなく残っていた。
全てが全て、綺麗に。
全てが全て、あの悪魔が言った通りだった。
そんな中に小さな女の子がいた。真っ白な。黒いガラクタの中に、真っ白い女の子がいた。
そんな子は、私を見て、にやりと笑った。そして言ったのだ。
「やあ、待ちくたびれたよ」
その声は、その背格好からはとても考えられないほど妖美で、溶けてしまいそうなな声だった。
本題が!!本題が!!始まりますよ。(これしかいっていない気がするのは気のせいですか)




