第十二話「通告」
始まりがあれば終わりもあり、出会いがあれば別れもある――思えばわたしはそこを疎かにしていたのかもしれない。
時はたそがれ。
所は六畳一間。
わたしと左右田さんは散歩を終えて六畳一間へ帰ってきた。ここで住み始めて十日目の宵。十日目ともなるとそろそろ住みつくことに落ち着きを感じ始める頃である。自分の部屋に居る時と同じくらいにこの六畳一間は安らげる場所だ。そう感じるのは、わたし自身がこの六畳一間に居ることを自然なことだと認識したからなのだろう。
自分の居場所だと感じ始めたという事。もちろん月日の流れによってそういう意識が育まれたということも大きいのだろうが、決定的だったのは、左右田さんに思いを伝えた事によるはずだ。左右田さんの居る場所には安心があって安全があって、そこに居たいのだとはっきり宣言した――だからわたしはこの六畳一間へ帰って来ることに自然さを感じるようになったのである。
漸くのことで慣れてきた――その六畳一間へ戻ってみると、机の上に置かれてある二つの電子機器が光を発していた。
携帯電話が着信している。わたしの物と左右田さんの物、それぞれがそれぞれに着信を告げていた。
それを見てわたしが抱いたのは、読みたくないという拒否の気持ちだった。
しかし左右田さんは言う。
「あー。携帯きてんな。やっぱりかー」
やれやれと言った風に左右田さんは首を振った。
やっぱりという言葉に反応してわたしは言う。
「やっぱり?」
「んん。実はさ、昨日までに倒したあの七人についてちょっと悶着があってな。今日の昼辺りも電話してたと思うんだけど、あいつらの措置でちょいトラブル起きるかもしれねーって上から言われてたんだよ」
「トラブルって……大丈夫なんですか?」
「心配は要らんよ。トラブルって言っても大したこたぁねーぜ。ただまあその時ワタシ面倒くさくなっちって、一方的に電話を切る感じにしちゃってな。んで多分それについて話があるんだろ」
「ふうん」
もしかして左右田さんが電話を置いていって欲しいと言ってきたのは、散歩している最中でその電話に出たくなかったからだろうか。出鱈目なことを言う左右田さんだが、休日くらいは仕事から解放されたいと思っても宣なるかなである。仕事から解放されたいと思ったから携帯電話を置いて散歩しようと提案してきた訳か。
……いや。だとしてもわたしの携帯電話まで置いてもらう必要は無いか。とするとこの推察は恐らく外れているのかもしれない――まあ土台わたしが気にするようなことではないのだけれども。
「そーいう事だから出てくるよ。すぐに済ませてくる」
そう言って左右田さんは自分の携帯電話を持って外へ出た。
わざわざ外へ出なくても良いだろうが、わたしの携帯電話も着信していることに対して配慮しているのかもしれない。
ううむ……。黄色仕掛け作戦がばれないことを念頭に置き過ぎて携帯電話の中身を見られることに過敏となっていたからなあ。どうしても見てほしくないものだと左右田さんも察しているのだろう。
ただ単に風を受けたかっただけとかいう可能性もあるが。
何れにしても左右田さんが出て行った今は着信を見る絶好の機会である。
わたしは佇立する。佇立したままで机を見下ろす。
佇立したままで、動かない。
メールを読まなければいけない――けれども正直に言えば読みたくないというのがわたしの本音だった。コンフィデンス本部から何らかの通達が着ていることはほぼ確定しているが、だからこそわたしはメールを読みたくない。携帯電話を手に取ることさえ億劫に感じる。
わたしも仕事から解放されたいのだ――仕事ゆえに左右田さんの傍に居られたのだけれども、それでも仕事のためとしてここに居るのだと意識したくない。だから出たくない。
だがそういった感情を優先させることにも心咎めがある。
読むか読まざるか。理屈と感情とが天秤に掛かる。
「…………」
まあとは言えそんなに深く考えることはない。わたしはコンフィデンスを裏切っても良いと考えている。ならば気構えることは無い。読んでから吟味すれば良い。
軽い気持ちで取りあえず読んでみよう、そう思ってわたしは携帯電話を手に取り、メールを確認した。
確認した。
「っ!」
反射的に声が出そうになった。だが口元に手を当てて喉へ押し込めた。
わたしは目を疑う。
胸に手を当てる。痛い。胸に、何か、黒々としたものがやってくるようだった。捕えられた蝶々が蜘蛛に食われているかの如く。幸せな気持ちを蝕まれている感覚。
わたしは再びメールを見た。じっくりと読む。
そうするとわたしの目は逸らされた。無意識的に離された。同じ極の磁石を近付けると反発して離れ合う事のように携帯電話と目が離れ合った。
わたしは頭の天辺に手をやった。手櫛するように自身の頭を撫でる。髪に指を絡ませて何度も何度も撫でる。時には髪の毛をくるくると回す。天辺だけでなく髪の先端を捩じったりもする。また頭の横を痒くもないのに掻く。意識している訳でなく、手が勝手に動いている。無意識の行動。どうしてこんなことをするのか自分でも分からない。分からないけれど、こうしていなければ壊れてしまう――そういった認識だけはあった。
落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け。
焦るな、焦るな、焦るな、焦るな、焦るな。
こういう時は深呼吸。酸素を供給してリラックス。
まずは今ある空気を吐く。
それから深く吸って。
同じように深く吐いて。
胸を撫でてもう一度。
吸って。
吐いて。
落ち着ける。
そうして三度メールを読む。
「ぐ……」
どうして。
幾らなんでも早過ぎる。
――いや。分かってはいたことのはずだ。ただわたしが目を背けていたというだけで、こうなるのは当然の帰結である。当たり前と言えば余りにも当たり前。頭では理解していた。心の準備が無かっただけ。おかしな事は何もない。発生した事象には不可思議な点など一つもない。必然と必然が必然を生み出しただけだ。
メール。
わたしの携帯電話に着信していたメールの内容を明かすと以下の事である。
コンフィデンスにおける有能な戦闘部隊は左右田右左口相手に健闘したものの、その全てが敗北を喫した。これにより戦える人員は零となった。黄色仕掛け作戦は失敗に終える。失敗についての責任は一切問わない。故に干于千は今晩に本部へ帰省とす。
簡素な文面だった。
このメールによってわたしが為すべきことはただ一つ。
即ち帰省である。
午前零時・無人の町のビルディングの屋上、そこで帰省用のヘリコプターを待たせるのでわたしはそこへ乗れ、と――そう書かれてある。
始まったあの場所で終われと、出会ったあの場所で別れろと――そう指示されている。
……まだ十日目だぞ。
何だこの指示は。ふざけているのか。この作戦の土台作りに幾らの歳月が掛かっている。三ヶ月だぞ。三ヶ月がただの十日で失敗だと。ちゃんと計画していたのか。おかしいだろ。もっと考えろ。何をしている。止めろ。止めろこんな指示。こんな指示を出すのなら、いったい何のためにわたしはここへ来たのだ。否。否。否否否。違う。違う。しかし、けれども。
そうやって中傷するわたしの顔は、泣きそうだった。
うう。
畜生。
帰りたくない。
膝が崩れ落ちて、ぺたんと尻を付いた。
このまま顔を俯けて思うままに泣き叫びたい。
けれどわたしは鼻水を啜る。
泣いて堪るか。
思考する。
このメールによって示されたのは二つの選択肢。選択することを余儀なくされた二つの選択肢。今まで選ぶことを避けてきた二つの選択肢。
コンフィデンスか――左右田さんか。
従うか――裏切るか。
決断の時が来たのだ。
二者択一。どちらかを選んで、どちらかを捨てる。
わたしは――どちらを?
この決断をすっぱり決められなかったという事は、コンフィデンスを裏切った方が良いのではないかという結論が不十分だったという事を差している。
左右田さんの傍に居れば安心。左右田さんの傍に居れば安全。
振り返ってみるとそれらの考えは、左右田さんを中心にしか考えていなかった。
幾ら左右田さんが好きだからと言ってもそれでは不十分だ。コンフィデンスに対しても考えを寄せなければならない。
だから真剣になって思考してみる。
目を背けずに、この問題と正面から向き合ってみる。
最初に定義しなければならないのは、わたし自身の感情だ。
わたしの感情、それがどちらに揺れているのかと言えば――言うまでもなく左右田さん側へと傾いている。
わたしは左右田さんが好きなのだから。
一緒に居たいと思うのは当たり前の事。
そこを踏まえて思考し始めよう。
まず考えるのは、わたしがコンフィデンスに対して忠誠を感じているかどうかだ。これの答えは、有る。わたしはコンフィデンスに忠誠を感じている。何故ならば一歳のころ孤児となったわたしを育ててくれたのはコンフィデンスである。辛いことや苦しいことが沢山あったとは言えこうして生きてこられたのはコンフィデンスのお蔭なのだ。そこについては有り難く思っている。
わたしの十六年を導いてくれたコンフィデンスには確かに感謝している。生きていることにわたしは感謝している。
どんなに過酷な環境であっても、生きているということは絶対に幸福だから。
生は必ず死に勝る。組織の裏切り者を殺したことのあるわたしには、それが理解できている。
……初めて人を殺した時は気分がおかしくなった。
コンフィデンスに階級制度があるという事はずいぶん前に話したことだろう。AからFまでの六クラスがあって、数が若くなるほど報酬や待遇が良くなる。実を言うとこの階級を上げるには様々なノルマを達成しなければならない。換言すれば、ある条件を満たせば上のクラスにランクアップできるということだ。組織の人間は皆この階級を昇進させようと切磋琢磨している。わたしもその内の一人だ。
二年と少し前の話である。わたしは十四歳のころ一つの任務を与えられた。作戦名などない有り触れた任務だった。組織内の誰かが取り立てて憶えようともしない普通の任務だった。けれどもわたしにとっては、決して忘れられない任務である。何故ならその任務を遂行したことによってわたしはCクラスからBクラスへと昇進したからである――否、むろん昇進したからという理由もあるが、それ以上に忘れられない理由がある。その任務の内容が当時のわたしにとって余りにも大事だったからだ。
FからEに上がるには何々をする。EからDに上がるには何々をする。DからCに上がるには何々をする。そんな具合にある一つの事柄を達成すれば階級は昇進する。クラスごとにそれは別々。言うまでもなくCからBに上がるためにもある一つの事柄を達成する必要がある。
CからBに上がるために必要な条件は――人を殺す事。
正確に言えば組織の裏切り者をこの手で始末する事なのである。
つまりわたしは十四歳と少しの頃に初めて人を殺した――任務を遂行したのにも関わらず昇進したことの喜びは丸でなく、布団に入っても気が狂いそうな精神状態が続き、一時期のあいだ人に触れるということが出来なくなるまでになってしまった。
人を殺すということはこういう事で、人が死ぬということはこういう事だと――体が覚えた。
その経験によってわたしは生きているということがどれほど恵まれているのかを理解した。
だから生きることを保証してくれたコンフィデンスには感謝している。忠誠はある。
それでもわたしは左右田さんが好きだ。
わたしは左右田さんの方が好きだ――今まで育ててくれたコンフィデンスに恩を仇で返すこととなってしまうのだけれども、わたしは、左右田さんのことが堪らなく好きなのだ。軽蔑されるかもしれない、不道徳だと言われるかもしれない、だけれどわたしは、コンフィデンスで生きてきた十六年を捨ててよいとさえ思う程に左右田さんが好きなのだ。
だってこの十日間こそがわたしの人生にとって最も楽しい時間だった。
親からは愛を貰えず、組織からも技術を教え込まれるだけ。
わたしは……そう、寂しかった。
組織で孤立していたことに本当は寂しさを感じていたのだ。
認めたくなかった。惨めになると思った。けれどもここに来て漸く分かった。
心から好きと言える人間が傍に居ると、こんなにも幸せなものなのか。
無条件に抱擁してくれることがこんなにも温かいだなんて知らなかった。
長いこと付き合ってきた孤独感から解放された。
わたしは――この幸せを手放したくない。
恩知らずで恥知らずな感情でも――わたしは左右田さんと一緒に居たい。
寄り添い合いたい。
そんな未来を迎えたい、わたしは――
……未来?
「未来……」
未来。
待てよ――仮にわたしと左右田さんがこのまま一緒になるとして、幸せは長続きするものなのか?
わたし達の関係は上手くいくのだろうか?
思い描いてみなければならない――具体的に。
そうしないことには……。
わたしは予想してみる、わたしと左右田さん、その関係の未来を。
結論の先を考える。左右田さんの傍に居れば安心。左右田さんの傍に居れば安全。それが本当のものかを検証してみる。
左右田さんの傍に居れば安全の保障はある。左右田さん一人でもコンフィデンスの精鋭を倒せるからだ。それはこの十日間で実証されている。
では、安心するという方はどうなのか?
今のわたしは、左右田さんの傍に居ることで安心できている。けれども未来に置いても安心できるのかどうかとは考えてみたことがない。今までは現在の事しか考えていなかった。
未来のことを考えてみる。
良質な関係は続くのか。
わたしと左右田さんの信頼関係は続くのか――
「あ」
信頼?
信頼関係……。
信頼、関係。
「あ……あ、あ……」
途端、途轍もない不安が襲ってきた。
真っ直ぐに見詰めた場所が真っ暗になった。
わたしと左右田さんの関係が続くかどうか?
そんなの――無理に決まっているではないか。
関係というものは、お互いが育み合って成立する。
けれどわたし達の現在を振り返ってみるとどうだ。
左右田さんからわたしへの信頼はあるけれども、わたしから左右田さんへの信頼は無いのでないか?
だって、だって、だって、わたしは――嘘を吐いている。
本当の自分を隠し続けている。
左右田さんは隠すことなく自分を曝け出しているのに――わたしは未だに自分を隠したままだ。
怖いから。
許してもらえるかどうかを信じ切れなくて――秘密を秘密にしたままなのだ。
自分の素性を隠している。自分がスパイだということを隠している。裏切るに当たってそれらは現さなければならないのに。
わたしは、左右田さんを、信頼できていない。
信頼関係は出来上がっていない。
成立していない。
「あ。あ……」
気付かなかった。
いや目を背けていたのか。
左右田さんが好きだからこそ、
嫌われてしまうのが怖かった。
そして自分の汚い部分から目を逸らしてしまう。本当の自分を出さないまま左右田さんと付き合ってしまった。どれだけ愚かな事か――分かっているのか。
信頼関係を築くには――隠し事を共有する必要があるのだぞ。
そうでなければ関係など続きはしないのだから。
秘密を持った者同士が関係を築ける訳ないだろう。
そうか。
わたしが左右田さんを好きだと思ったのは、一時の気の迷いだったのか。
今もまだ迷っている最中に過ぎないということか。
わたし達の関係は何れ必ず壊れてしまう。
破局するのが目に見えている。
わたしと左右田さんは、上手くいかない。
秘密を持ったままで左右田さんと関係できる訳が無いのだから。
だからわたしは……。
「…………」
曝け出せば?
自分も自分を曝け出せば?
左右田さんに自分の秘密を打ち明ければ?
分かっている。左右田さんのことを好きで居続けるには、隠し事をしなければいい。わたしの抱えている秘密・スパイだという秘密を左右田さんに打ち明けてしまえば問題は無くなる。それで信頼関係は成立するようになる。
しかし――その時点で嫌われてしまったらどうなる? スパイとして左右田さんに近寄った事、その事実を左右田さんが受け入れなかったらどうなってしまう? 決まっている――わたしを嫌うのだ。そんな理由で近寄ってきたことを軽蔑して、二度とわたしの傍に居てくれなくなる。
何よりも怖い。好きな人から嫌われるのは今のわたしにとって何よりも怖い。左右田さんに嫌われたらわたしは何を拠り所とすればいい? コンフィデンスからも左右田さんからも見捨てられたら、生きる術を失ってしまう。生きる理由が無くなってしまう――真の孤独となってしまう。
嫌だ。
そんなのは嫌だ。
それだけは嫌だ。
怖いのだ。
左右田さんがわたしを許してくれるかどうか――それが分からなくて怖いのだ。
秘密を打ち明けても許してくれる――そう信じ切れないのだ。
わたしは左右田さんを信頼できていない。
信頼できていない。
「う……う……」
その事実が何よりも嫌だった。
どだい無理な話だったのだ。
わたしがこの任務に就かされたのは、コンフィンデンスにおいても孤立していたからだ。
信頼するのが下手っぴだからこそ黄色仕掛け作戦に任命された――そんなわたしが左右田さんを信頼できる訳なかったのだ。
ああ。泣きそう。
泣きそうだ。
どうして疎かにしていたのだろう。
信頼関係が上手くできていれば、こんな思いはせずに済んだのに。
自分の技量不足がどうしようもなく妬ましい。
自責せずには居られない。
行き場のないルサンチマンが自分自身へと向かってくる。
信頼できない自分が嫌になる。
死にたい――否、消えたい。
わたしなんて存在しなければ良かった。
左右田さん。
ごめんなさい。
ごめんなさい。ごめんなさい。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
わたしは左右田さんに相応しくない。
「ごめんなさい……」
わたしは立ち上がった。
顔を邪魔する前髪を整える。
――左右田さんを信頼できないのなら・左右田さんと関係できないのなら、わたしの未来はコンフィデンスにしかない。
帰省する。
午前零時に無人の町のビルディングの屋上へ向かい、そこでわたしはコンフィデンスへと帰省する。
これがわたしの結論だ。
そこにしか未来が無いのだから、わたしはそちらを選ぶしかない。
だからわたしはコンフィデンスを選んだ――否。
そうではなく、左右田さんを選ばなかった。
左右田さんを選ばなかった、だけだ。
ただそれだけだったのだ。
――と。
玄関から音が聞こえる。
「おーう。電話おわったーぜー」
扉を開く音と同時に声が上がってきた。
左右田さんが帰ってきたのだ。
わたしは姿勢を畏まらせて左右田さんが部屋に入ってくるのを待つ。
暫くもしない内に襖が開いた。仰々しい観音開きだった。
「やあやあ。お待たせ」
「いえ。電話の方はどうなりましたか?」
「おう。万事上手くいきそーだぜ」
そう言ってこちらを見てきた左右田さんは、突如として「ん?」と訝しげに言う。
「干于たん? えっと……、どーかした?」
「え? な、何がですか?」
「ん……。何だろ。よく分かんねーけれど、雰囲気っつーのかな。なんか干于たんが落ち込んでる風に感じた」
「…………」
全く、この人は。
悟られたくないのだから悟らないでくれ。
我慢がはち切れたらどうするのだ……。
「何でも……」わたしは背を向けた。顔を見られると気遣われそうだと思ったのだ。「何でもありませんよ。ただちょっと疲れただけです。ほら。今日って大変なことあったじゃないですか」
「事故のこと?」
「それです。それでまあ、その時の疲れが今になって来たという感じです」
「ふーん。そっかー。確かに危なかったもんなー」
わたしの嘘を左右田さんは信じてくれたようだった。
左右田さんは言う。
「よし! そんじゃあ晩飯にすっか。疲れた時は養生するのが一番だぜ。美味いもん食って、体をたっぷり癒さなきゃな」
「……ありがとうございます」
「ん。じゃあ暫く待ってな。ワタシ作るからよ」
「はい」
わたしは机の前で正座して、左右田さんは台所に向かった。
左右田さんの後姿を見やる。エプロンを巻いて、冷蔵庫を開けて食品を選んでいる左右田さん。家庭的な女性だなと他人事のように思う。それは、これから本当に他人同士となるからだろう。左右田さんの後姿を見ていると、彼女が遠くに居るものと感じて仕方がない。あの背中に抱き着きたいと思う。負んぶしてもらいたい。そう思う。そう思うけれど、わたしは動かずにただ待った。待つしかなかった。
料理している間も飽きずに見続けていた。飽きなかった。ずっとこうして居たいと思った。不思議なものだ。この場所に居るということが今さら特別に思えてくる。
料理が出てきた。出てきた料理は肉じゃがだった。
「お待たせー! さあ、たーんとお食べー! 一番おいしーのは玉葱だかんねっ!」
「肉じゃがなのに肉じゃがが主役じゃないんですか」
「実際おいしーかんね。そんじゃー、頂きます」
「頂きます」
わたしと左右田さんは晩御飯を食べた。これが最後の晩餐だと思うと、理由もないのに肉じゃがが美味しく感じられる。左右田さんの手料理もこれで最後。全て美味しかった。
はあ。
帰りたくない。
ずるずる続けていても無駄な事は分かっているけれど、帰りたくない。
最後。
最後、か。
晩御飯を食べ終えたわたし達は、食器を流し台に置いた。
そうして少し早いけれども寝ることとする。
押し入れを開いて自分用の布団を敷いていく左右田さん。
それを呆然と見るわたし。
「干于たん?」
左右田さんは言う。
「ぼーっとしちゃってどーしたの? 布団、敷くよ?」
「ああ。はい。……そうですね」
「まだ疲れてるかな? 大丈夫? 干于たんの分もワタシが敷いとこっか?」
「えっと」
今夜わたしは六畳一間から逃亡しなければならない。そうなると布団を敷かれたところで眠れる訳ではない。
それでも最後だ。最後ということは残り一回ということだ。ラストチャンス。事前にそれが分かっているならば華々しい最後にしたい。
もう何をしたって引き摺ることはない。
最後、だから。
「左右田さん」
わたしは俯いて言う。
「……一緒に寝ませんか?」
「一緒? ……え?」
「添い寝です。同じ布団で、寝ませんか?」
「え? え? えっ!? か、干于たん!? まじで!? いーの!?」
「わたしと一緒に寝たいですか?」
「そりゃあ! 寝たい寝たい寝たい! 干于たんを抱き枕にしたい! ぎゅううううぅーってしながら寝たいよっ! 抱きしめながら頭なでなでしたいよぉほっ!」
「抱き枕は勘弁してほしいですけど」――それではここから逃亡できなくなってしまう――「そうですか。寝たいですか。よかったです」
「で、でもなんで!? 嬉しいは嬉しいけれど、どったの干于たん!? 何かあったの!?」
「……別に何でもありませんよ。特別なことは何もありません。ただまあ理由を言うとすれば――左右田さんのことが好きだから、です」
「お、おー……。うは、すっげー嬉しい……」
わたしは、告白した時の事を思い出して赤面する。
左右田さんに好きと伝えた今であれば、この思い切った申し出は不自然に映らないはず。
などと打算的な考えをしてしまう自分がまた嫌になったりする。
でも、まあ、いいや。
最後なのだ。
吹っ切れよう。
「……寝ましょう」
「ん。うん」
そうして電気を消して、わたし達は同じ布団に入った。
一人用の布団なので狭い。
どころか枕さえも同じものを使っているので吐息が掛かってくる。
わたしの吐息も左右田さんに掛かっているのだろう。
拳一つ分ほども空いてない距離。
鼻と鼻とが触れ合いそう。
目が暗闇に慣れてくると、左右田さんの顔を視認できるようになる。
目を凝らすと、左右田さんがこちらを見ていた。
わたしの目を見詰めていた。
わたしは戸惑う。
恥ずかしくて、恥ずかしくて、目を背けてしまいそうになったけれど、それでもわたしは左右田さんの目を見詰め返した。
見詰め合った。
どちらともなく声が漏れる。
「ん……、う……」
「あ……、んふふ……」
静かな声。
意味を有さない声同士が交わる。
この狭い六畳一間で二人。
この狭い布団の中で二人。
暗闇の中で二人。
わたしと左右田さんだけの二人。
二人きり。
そのことに無上の幸せを感じる。
「……ふぁ」
「へへへへ……」
布団の中の手に感触があった。
左右田さんに手を当てられたのだ。
手の甲に手の甲を当てられた。
それは離れることなく、くっ付いたまま。
左右田さんの熱を感じる。
さらに左右田さんは、わたしの手を掴んだ。
わたしはそれを握り返す。
なぜか握手みたいになってしまった。
それから手を摺り合わせる。
指が絡み合う。
わたしと左右田さんの指同士が絡み合う。
わたしは、覚えず鼻息が荒くなっていた。
そのことを意識すると頭ががんがんするほどの羞恥心を感じてしまう。
「ん……」
「……干于たん可愛いよ」
なんて。
そんな風に。
いちゃいちゃして――
左右田さんが寝入るのを待った。左右田さんが目を瞑るのを待って、左右田さんが「おやすみ」と言うのを待って、左右田さんが寝息を立てるのを待って、それから一時間は左右田さんの傍に居続けた。それは眠るのを待つためでもあり、布団から出たくないからでもあった。布団という場所から出たくなかった。出たら、絶対に寒い。肌も心も寒い。そう思ったから出来るだけ暖かい場所に居たかったのだ。
だけれど――終わりは必ず来るし、別れは必ず来る。
左右田さんが確かに寝入ったことを確認してわたしは布団を出た。
電気を付けないまま六畳一間の真ん中に立つ。憂鬱な気分になって溜め息を吐き、その心持ちのまま準備を整える。とは言え持ち帰るものは携帯電話くらいしかない――否、もう一つあったか。
わたしは自身の左手を見る。左手の薬指を見て、そこに嵌められたペアリングを見詰める。部屋は暗いけれど、目が慣れているので良く見える。
拳を軽く握った。――左右田さんのことは、生涯を通して忘れないでいよう。わたしは左右田さんが好きだった。その気持ちは真実だったのだから。
襖を開けて、出て、閉める。少し歩いて玄関に着く。靴を履いて、玄関の扉を開ける。外へ出る。音を立てずに扉を閉める。玄関の扉を触って、暫しのあいだ硬直した。
何時までもここに留まっている訳にはいかないので、わたしは瞬きする。
一度。
二度。
三度。
瞬きして、扉から目を離す。
「左右田さん……」
暗い夜の中、わたしは独り呟く。
「結局、最後まで接吻できなかった……」
微かな声でそう言って、わたしは歩き出した――帰省すべき我が組織・コンフィデンスへと。




