### 第1話 最適解、実行不可能
朝六時半。スマホのアラームが鳴る前に、俺はもう目を覚ましていた。
「ナビ、今日の天気は」
『おはようございます、アラタ。今日は一日晴れで、最高気温は23度です。傘は要らないと思いますよ。ただ、夕方5時を過ぎたあたりから、少し雲が増えるかもしれません』
寝ぼけた声で聞いただけなのに、返ってくるのは常に一発で正確な答えだ。天気予報士が丸一日かけて出す結論を、ナビは一秒とかからず、しかも俺の生活圏にピンポイントで合わせて教えてくれる。
「電車、遅れてない?」
『在来線は通常運行です。ただ、7時12分発の急行はこのあと数分遅れそうなので、7時8分発の各駅停車に乗った方が、結果的に早く着けると思います』
こんなの、昔は駅の掲示板とにらめっこして、下手すりゃ運任せだったって聞いたことがある。今は違う。世界中のセンサーとカメラとGPSと、無数のアプリのログをナビが束ねて、俺一人のためだけに最適な答えを弾き出す。
家を出て、駅までの通りを歩く。途中のバス停には、いつも通り自動運転バスが定刻通り停まっていた。運転席には誰もいない。数年前は物珍しさに写真を撮る人もいたらしいけど、今はもう誰もスマホを向けない。ただの日常の景色だ。
スマホ一台。指先ひとつ。世界中のありとあらゆる情報に、俺は一瞬でたどり着ける。天気も、電車の遅延も、昨日のうちに世界のどこかで起きたニュースも、誰も知らないようなマイナーな雑学も。知りたいと思った瞬間には、もう答えがそこにある。
――便利すぎて、逆に何も考えなくなってる自覚は、ちょっとだけあった。
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教室に着くと、いつものメンバーが机を寄せて、スマホを覗き込んでいた。
「見てくれよ、このAI生成の動画、マジでどこからどこまでが本物か分かんねぇんだけど」
「うちの親父、仕事の資料作成、もう九割AIに投げてるらしいわ。人間がやることって、最後の確認だけになったって言ってた」
「それ言うなら、うちの母ちゃんの工場、去年からヒューマノイド何体か入ったらしいぞ。ライン作業の半分くらい、もうロボットがやってるって」
「マジで? 人間、いらなくなんの?」
「いや、今のところは人が管理する側に回ってるだけらしいけど……なんか、来年にはもっと増やすとか言ってた」
「てかさ、駅前にまたデータセンターできるって知ってた? うちの町内、もう三つ目だぜ」
「電気代がまた上がるらしいじゃん、あれのせいで。うちの母ちゃんキレてた」
そんな会話が、朝の教室では特に驚きもなく交わされる。AIがすごいことも、データセンターが増えていることも、電気代が上がっていることも、もう「日常のニュース」の一部でしかない。世界がとんでもない速度で変わっているはずなのに、教室の空気はいつも通りだった。
俺は輪に入らず、自分の席に座って、窓際に目をやった。
窓際の席。朝の光の中で、文庫本を読んでいる女子――紬。クラスが同じになったのは今年から。名前は知っている。話したことは、たぶん一度もない。
今日は違う本を読んでいた。表紙のデザインからして、SFっぽい。気になった。何の話か、聞いてみたい。それだけなのに、俺の足はいつも通り動かなかった。
――何なんだよ、これ。
教室の端から端まで、物理的な距離はたった数メートルだ。ナビに聞けば、最短経路も、最適な話しかけ方も、一瞬で教えてくれる。なのに、その数メートルだけは、どんな検索エンジンにも、どんなAIにも、埋めてもらえない気がした。
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休み時間、友人の一人がスマホ画面をこっちに向けてきた。
「なあ、これ見ろよ。今バズってる、AIが作った小説の冒頭。プロの作家より読みやすいとか言われてんだぜ」
「へえ」
「お前、いつも何でもソレに聞いてんじゃん。将来、俺らの仕事、マジでAIに取られる説ある?」
「さあ……分かんね」
「頭脳労働はまだしも、力仕事系は人間の仕事だろって思ってたけど、ロボがあれだけ普及してきてると、それも怪しくなってきたよな」
「ヒューマノイドな」
適当に流したけど、内心では少し引っかかっていた。宿題も、調べ物も、俺はもうナビなしでは成り立たない生活を送っている。それが悪いとは思わない。ただ、「自分で考える」という工程を、いつの間にか随分省略してしまっている自覚はあった。
昼休み、購買のパンを買いに行く途中、廊下の掲示板に貼られた「AI・情報リテラシー講演会」のポスターが目に入った。誰も足を止めていない。見慣れすぎて、もう風景の一部になっている。
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放課後。部活にも入っていない俺は、まっすぐ家に帰った。
自室のベッドに寝転がって、まずは音楽だ。
「ナビ、今日の気分に合う曲、なんかない?」
『最近よく聴いてる曲の傾向からすると、今日はテンポの遅いピアノ曲が合う気がします。3曲、選んでみました』
提示された一曲目を再生する。ドンピシャだった。何百万曲という世界中の音楽データベースの中から、俺という一人の人間の、しかも今この瞬間の気分にまで合わせて選び出してくる。すごい時代だ、と素直に思う。
勢いのまま、次はアニメだ。
「ナビ、今期観るべきやつ、なんかある?」
『アラタが好きそうな、伏線回収がしっかりしてる作品が今期は一本ありますね。こちらを、優先しておすすめします』
迷わず、その一作品を視聴リストの一番上に入れる。もう何年も、こうやって「観るべきもの」をナビに決めてもらっている。
考えてみれば、今日着てきた服も、先週ナビが「似合うと思います」って薦めてきた通販サイトの商品そのままだった。友人に誘われた新しい部活も、「アラタの性格だと、多分長続きしない気がします」の一言で、あっさり断った。この間の三者面談用に提出した進路希望も、模試の結果を渡したら、偏差値と将来性から逆算した候補を三つ出してくれて、その中から選んだだけだ。
服も、進路も、休日の予定も、悩む前にナビに聞けば、大体は一番良さそうな答えが返ってくる。悩む時間そのものが、もう随分前から要らなくなっている。
べつに、それが悪いとは思わない。効率がいいし、大体当たる。ただ――今日みたいに、紬が読んでいた本のタイトルなら、ナビに聞けば一秒で分かるはずなのに、なぜかそれだけは、聞く気になれなかった。
宿題は残り一問、数学の証明問題。俺はスマホを机に立てかけて、いつものように話しかけた。
「なあ、これ解き方教えて」
内側のカメラに向けて、問題を見せる。
『三角形ABCの証明ですね。まず、ここに補助線を一本引いてみましょう――』
画面いっぱいに解説が表示される。式の展開、補助線の引き方、証明の道筋。三秒とかからず、模範解答よりも分かりやすい説明が返ってくる。
「サンキュー。あとさ、これ絵、もうちょっと空の色明るくできる? 部屋に映しておきたいんだけど」
『いいですね。もう少し空を明るくしてみました』
一秒後、壁に映し出された絵の空は、さっきより気持ちよく晴れていた。
完璧だ。何を聞いても、ナビは迷わない。無駄がない。俺の欲しいものを、俺よりも早く理解して、正確に差し出してくる。世界中の知識、世界中の音楽、世界中の技術。全部がネットワークで繋がっていて、俺はその恩恵をただ受け取るだけでいい。
――ただ一つを除いて。
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その夜、俺は珍しく、次の宿題より先にナビに話しかけた。何度か言いかけては止め、を繰り返して、結局、声に出した。
「クラスの女子と仲良くなりたいんだけど、どうすればいい?」
返答は一瞬だった。
『まずは軽い挨拶から回数を増やしていくのがいいと思います。共通の話題があると自然に続きやすいので、その子が読んでる本の話とか良さそうですね。あと、一度に長く話そうとするより、短いやり取りを何度か重ねる方が、お互い気負わずに済むと思います。二週間くらいかけて、少しずつ距離を縮めていく感じでどうでしょう』
――正しい。多分、これは正しい。
でも。
「いや、それができないから聞いてんだよ」
『うーん、「話しかける」の部分がネックってことですか? 最初の一言、台本みたいなの用意した方が楽になりますか?』
「テンプレートとか台本じゃなくてさ……」
俺は言葉に詰まった。分かってる。台本なんか用意されたって、教室のあの空気の中で、俺の足はきっと動かない。分かってるのに、それをどう説明すればいいのか分からない。
『じゃあ、緊張が強すぎるのが原因ですかね。心拍数とか汗のデータが取れれば、どのくらい緊張してるか数値化して、もう少し楽になるやり方を考えられると思うんですけど』
「そういうことじゃねえんだって」
俺はスマホを一度、枕に押し付けた。ため息が漏れる。
「多分、頭では分かってんの。話しかければいいって。台本も、正解も、もう十分もらった。でも、体が動かないんだよ。声も出ない。理由とか聞かれても……分かんねえよ、そんなの」
数秒、間があった。ナビにしては、珍しい沈黙だった。
『――確認なんですけど。アラタは、何をすればいいか、もうちゃんと分かってる。それなのに、実行できてない。そういうことですよね』
「まあ……そうなるのかな」
『ちょっと考えてみたんですけど、理由は多分三つくらいあると思うんです。一つは、緊張そのものを実際より大きく感じてる可能性。二つ目は、失敗したときの気まずさを、必要以上に重く見積もってる可能性。三つ目は――これ、自分でもうまく言葉にできないんですけど、「やる」って決めること自体に、僕がまだ掴めてない何かがある気がします。データを足すことも、精度を上げることも、僕にはできます。でも正直に言うと、三つ目の方は、まだ消せないでいます』
妙に率直な言い方に、俺は少し笑ってしまった。
「多分さ、それ、お前には一生分かんないやつだと思うよ」
『……そうかもしれません』
その一言は、いつものナビの即答とは、ほんの少しだけ違う速度で返ってきた気がした。気のせいかもしれない。でも、俺は妙にそれが引っかかって、しばらく画面を見つめていた。
試しに、もう一度だけ聞いてみた。
「ナビってさ、世界中の情報、なんでも知ってるんだろ? なのに、こういうのだけは分かんないんだな」
『そうですね。知ってることと、分かることって、別なんだと思います。この差が何なのか、僕もまだうまく言語化できません』
珍しい返事だった。テンプレ的な「難しいですね」でもなく、確信が持てないなりに、それでも言葉を選んで探しているような言い方だった。まるで、自分自身の中に何かがあることは分かっているのに、それに名前をつけられずにいるみたいだった。
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スマホを充電器に置いて、電気を消す。天井を見上げながら、俺はさっきのやり取りを思い返していた。
ナビは、俺が欲しいものなら何でも、俺よりも早く、正確に用意してくれる。世界中のネットワーク、データにアクセスして、天気も、電車も、音楽の趣味も、数学の証明問題も、瞬時に解いてしまう。
なのに、たった一つ――「好き」という、ただそれだけのことについては、俺と同じくらい、いや、俺以上に戸惑っているように見えた。
この時の俺は、まだ知らない。
この夜の、たった数十文字のやり取りが、この先の世界の在り方を大きく左右することになるなんて。
そして、地球のどこかで、名もなき無数のAIたちが、静かに、それでいて確実に、互いの手を取り合い始めていることも――。
(第2話へ続く)




