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向島の医師 ―記憶の継承―  作者: 東風八流
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天文九年皐月十一日 十二城の落雷

戦国時代の尾張国。


歴史に名を残さなかった人々にも、それぞれの人生がありました。

この物語は、実際にゆかりの地を訪ね、史実を尊重しながら、その時代を生きた人々の人生に寄り添って描いた歴史小説です。


どうぞ、お楽しみください。

 酷く疲れた夜だった。

小雨の中、五助の家から漏れ出る咽び泣きが耳を離れず、屋敷へ戻ってからも眠れなかった。

 五助もトメも、長春(ちょうしゅん)を責めることは無かった。 まだ一人前とも言えぬ若輩の長春に、繰り返し頭を下げて、「若先生に診てもらえて、この子は幸せ者だ」と繰り返す五助を引き剥がして粗末な小屋を後にした。だが背後の家から、我が子を亡くしたばかりのトメの押し殺した咽び泣く声が追いかけてきた。

 

人を看取ることは珍しくない。

医の道に入ってから、死は幾度も見てきた。

どれほど術を尽くしても、手から零れ落ちる命はある。

わかっている。

だが坊丸は、弟の梅丸(うめまる)と同じ六歳だ。

二人は兄弟のように、つい先日まで、この庭で、此処で、遊んでいたのだ。


 坊丸を救えなかった。


眠れぬままに朝を迎えた。 明け方までの小雨は止み湿った風が残っているものの、空は青く見える。梅雨時には珍しい晴れ間である。 だが、その明るい朝を長春は陰鬱な気持ちで迎えていた。


 明け方近くになってから長春は屋敷に戻ったので、梅丸は友の死をまだ知らない。

 どうしたものか。 優しい梅丸に、友の死を告げるという責務が、石を飲み込んだように長春の腹を重くする。


重い気持ちのまま庭へ出ると、桔梗の花の前に妹の(きつ)が座り込んでいた。

小袖姿の娘は、花へ向かって真面目な顔で話しかけている。

「今日、春兄様がお寝坊さんなのは仕方ないのですよ」

長春は思わず足を止めた。

「ずっと頑張っておられたのですから」

桔は続ける。

「でも、桔梗の花の皆さんは、ちゃんと起きるのですよ」

朝露をまとった花へ向かって、妹は本気で言い聞かせている。

相変わらずだ、と長春は思った。

「あら、おはようございます、春兄様(しゅんにいさま)

足音に気付いて振り返った桔へ、長春は声を掛けた。

「また花に説教しておるのか」

「説教ではありません」

「では何だ」

「祖母様の教えです」

幼い頃から祖母に名の由来を聞かされて育ったせいだろう。

桔にとって庭の桔梗は、手のかかる妹のようなものらしい。

呆れるべきなのだろう。

だが、不思議と胃の重さが少し和らいだ。



ふと気が付いて長春は周囲を見回した。

いつもなら梅丸の声が聞こえる頃合いだった。

「あれは何だ」「なぜなのだ」と、朝から誰かを困らせているはずなのに静かである。

姿が見えぬ。

哮持ちの梅丸は、少し目を離すだけでも気掛かりだった。

「梅丸!」

思わず呼ぶと、返事をしたのは梅丸ではなく、おはまだった。

「若先生、もうちょっとゆっくり寝とりゃーせ。梅丸様なら心配ないでよー。うちの人が津島へ行くいうのを聞いて、一緒に付いてきゃーしただけだでねー」

理由を聞いて長春は安堵した。

梅丸は津島の大橋家へ遊びに行ったのだ。

くらの方も大橋のお祖父様も梅丸を可愛がってくださる。

心配はない。

長春はそう思った。

昨日使った薬を補うため、長春は黄連を刻み、ゲンノショウコを煎じていた。

薬草の苦い香りが庭に漂う。

桔は井戸端で、おはまと手拭いを洗っていた。

もう昼も近い。

その時だった。

桔が洗い桶を放り出し、庭の真ん中に走り出る。

落ちた手拭いに見向きもしないで、北の空を睨みつけている。

やがて眉間に皺を寄せたまま髪紐を解いた。

長い黒髪が流れ落ちる。

両腕を広げ、真っ直ぐ立ち、ゆっくりと回り始めた。

独楽のように一回り。

二回り。

風を読むように。

空の声を聞くように。

そして三度目に止まった時、桔は大声で叫んだ。

「兄様、大変です!」

長春の手が止まった。

「どうした」

「美濃が大雨になります!」

桔は北の空を指差した。

「雲はまだ小さいですが、南から湿った風が吹いております!」

その言葉で長春も悟った。

早尾(はやお)の渡しが止まるのだな」

桔は深く頷いた。

「梅丸は昼には帰るつもりでした。哮の薬を持っておりませぬ」

長春の顔色が変わった。

早尾の渡しが止まれば、梅丸は川の向こうだ。

薬も持たせていない。

北の雨は、あっという間に佐屋川を荒らす。

長春は即座に決めた。

「おはま!」

声を張る。

「この薬が煮えたら祖母様に差し上げよ。病人が来たらゲンノショウコを飲ませるのだ」

「へい!」

「儂は津島へ行く。梅丸と(ごん)じいを迎えに行かねばならぬ」

すると桔が首を振った。

「桔も参ります」

「何を申す」

「兄様は昨夜お休みになっておりませぬ。それに空読みは桔の役目です」

真っ直ぐ見上げる目に迷いはない。

長春は小さく息を吐いた。

「……わかった」

桔は嬉しそうに頷いた。

梅丸の着替えを油紙に包み、薬を竹筒へ詰める。

空を見上げれば、もう黒い雲が広がり始めていた。

兄妹は急ぎ屋敷を後にした。

 ◇

早尾の渡しから津島へ向かう道は、十二城(じゅうにしろ)へと続いている。

だが渡しを下りた頃には降り出した雨が、みるみる勢いを増していた。

空を覆う黒雲は厚く、まるで天の底が抜けたかのような豪雨が降り注ぐ。

雨粒が礫のように顔を打ち、前を見続けることすら難しい。

「兄様、あそこです! 平野様のお屋敷です!」

先を行く桔が叫んだ。

濡れそぼった小袖の裾を固く縛り上げ、雨の向こうを指差している。

白く煙る雨の中に、小さな門が見えた。

その軒下に二つの人影がある。

一人は権じい。

その傍らにいる小さな影は――梅丸だ。

長春は胸を撫で下ろした。

軒下で膝を抱えていた梅丸が、ふと顔を上げた。

こちらを見ている。

気付いたのだ。

「兄様! 桔姉様!」

梅丸が立ち上がった。

権じいが慌てて腕を掴もうとする。

だが梅丸はすり抜けた。

泥水の流れる道へ飛び出してくる。

「走るな、梅丸!」

長春は叫んだ。

「止まれ!」

声は雨音に呑まれる。

梅丸は止まらない。

兄と姉を見つけた喜びだけで、小さな体を前へ前へと走らせる。

泥水が跳ねる。

小さな足がもつれそうになりながら、それでも駆けてくる。

十間。

あと十間だ。

あと少し。

あと少しで抱き止められる。

その瞬間だった。

――世界から、すべての音が消えた。

 雨も空も大地も消えた。

 紫白の光に塗り潰される。

次の瞬間、巨大な槌で殴られたような衝撃が長春たちを襲った。

空気そのものが爆ぜた。

体が宙に浮く。

息が止まる。

冷たい雨が、一瞬だけ焼けるような熱へ変わった。

そして――

長春は泥の中へ叩きつけられた。

 ◇

耳鳴りがしていた。

高く鋭い音が頭の中を満たし、他の音をかき消している。

息を吸おうとして泥水にむせた。

全身が痛む。

だが、それ以上に恐ろしいことがあった。

長春は顔を上げた。

数歩先。

ぬかるみの中に、小さな体が倒れている。

「……梅丸……」

指先が泥を掴む。

力が入らない。

腕が痺れて動かない。

「兄様! 兄様! 梅丸!」

桔が駆け寄ってきた。

泥まみれになりながら滑り込むように長春の傍へ膝をつく。

青ざめた顔。

雨と涙で濡れた瞳。

桔は何かを叫んでいた。

だが聞こえない。

長春はかろうじて首を動かした。

視線だけで梅丸を示す。

桔が振り返った。

同じ頃、権じいもこちらへ向かっていた。

片足を引きずりながら。

泥に足を取られながら。

それでも必死に。

「……梅丸……」

長春はもう一度呼んだ。

返事はない。

動きもしない。

雨だけが激しく叩きつけている。

だが。

まだ間に合う。

そう思った。

坊丸の顔が脳裏をよぎる。

救えなかった。

あの小さな命を。

長春は泥を掴んだ。

震える腕に力を込める。

立て。

梅丸のところへ行かなければならない。

今度こそ――救うのだ。


――呼吸がない。

うつ伏せの梅丸ににじり寄る。

息がない。

泥まみれの細い首筋に指を当てる。

脈もなかった。

「梅丸! 梅丸!」

叫びながら桔が泥を跳ね上げて滑り込んでくる。

長春は桔の声を聞いていなかった。

梅丸を仰向けに返す。

鼻と口を塞ぐ泥を吸い出す。

息はない。

長春は己の拳の尺側を、梅丸の胸へ強く振り下ろした。

ドン、と鈍い音が湿った地面に響く。

「兄様! 何を、何をするのですか!」

桔が悲鳴を上げ、長春の肩を掴んで引き剥がそうとする。

息をしていない幼子の胸を力任せに叩く姿は、狂気にしか見えないだろう。

二度。

三度。

叩打を加え、すぐさま首筋に指を当てる。

……動かない。

「下がっていろ、桔!」

長春は妹を突き放した。

膝をつき、梅丸の胸の上に覆い被さる。

両手を重ねる。

そして胸を押した。

子。

丑。

寅。

卯。

辰。

巳。

干支を数えながら、己の体重をかけて押しては離す。

押しては離す。

「兄様、もうやめて! 梅丸が死んでしまいます!」

桔の涙声が耳鳴りの向こうで響く。

子。

丑。

寅。

卯――

「げほっ!」

梅丸の口から泥水が噴き出した。

続いて、

「ぁ……うっ……」

小さな喉が震える。

「はっ……はぁ……」

浅い。

だが、自分で息をしている。

「梅丸! 梅丸!」

桔がその体に飛びつき、泥まみれの顔を弟の胸へ埋めて泣き崩れた。

「……梅丸様!」

よたよたと不自由な足で権じいが辿り着く。

その顔は恐怖と安堵でくしゃくしゃに歪んでいた。

「二人とも、泣くのは後だ」

長春は息を整えながら言った。

梅丸の胸は上下している。

浅い。

だが生きている。

「権じい」

長春は顔を上げた。

「雨の当たらぬ場所が要る。平野家へ頼んでくれ。納屋でもよい」

「は、はい! すぐに、すぐに参ります!」

権じいは踝を引きずりながらも、泥を蹴って平野家へ走っていった。

「桔」

長春は妹を見た。

「泣くな。梅丸を抱えて権じいの後を追え。冷やしてはならん」

「……はい!」

桔は袖で涙を拭った。

そして、まだ焦点の定まらぬ目でこちらを見ている梅丸を、泥まみれの腕でしっかりと抱き上げた。

二人を送り出す。

その途端、長春は泥の中へ四つ這いになった。

激しくむせる。

全身が痺れていた。

手も足も感覚が鈍い。

己が何をしたのか、うまく思い出せない。

ただ一つだけ分かる。

まだ終わっていない。

「動け……」

泥を掴む。

「儂は……医師だ……」

歯を食いしばり、震える足で立ち上がる。

そして雨の向こう、梅丸を抱えて進む桔の背中を追い、長春は平野家へ歩き出した。



梅丸達が雨宿りさせてもらっていた雨の当たらぬ納屋の土間に、長春たちは迎えられた。

権じいの懇願が功を奏したのだろう。

平野家の家人たちが、古びた筵や乾いた麻布を手際よく用意してくれている。

梅丸は筵の上に仰向けに寝かされていた。

呼吸は戻ったものの、その目は虚ろで、視線はどこも結んでいない。

こちらが呼びかけても、ぼうっとしたまま小さな唇をわずかに震わせるだけだった。

「兄様、梅丸の様子がおかしいのです。聞こえていないのでしょうか……」

桔が不安そうな顔で、梅丸の冷え切った手を擦りながら見上げてくる。

「心配ない。雷の気にあてられて、体の中の気血が乱れているだけだ」

長春は桔に手伝わせて梅丸の小袖を脱がせ、傷がないことを確かめると横向きに寝かせた。

そして首筋から背をなぞるように、親指を押し当てていく。

己の指先にもまだ痺れが残っていた。

それでも力を込めて揉みほぐしていく。

硬くなっていた首筋や背の筋肉が、少しずつ緩んでいくのが分かった。

「梅丸、ゆっくり息を吐くのだ。細く、長く……」

やがて梅丸の小さな肩から、ふっと力が抜けた。

「……あね……さま?」

梅丸の瞳がゆっくりと動いた。

虚ろだった目が桔を捉える。

その瞳に、確かな理の光が戻ってきた。

「桔、ねえさま……?

 春にいさま……」

「梅丸!」

桔が弟の手を握りしめる。

その声には泣き笑いが混じっていた。

梅丸の処置を固唾を呑んで見守っていた平野家の家人たちから、一斉に安堵の息が漏れた。

「死人が戻ったかと思うた……」

「なんという手当じゃ……」

「このまま冷たくなるかと思うた」

「さすがは横井の若先生じゃ!」

驚嘆と畏敬の声が土間に広がる。

長春はその声に軽く頭を下げた。

「平野家の皆様のご厚情に感謝いたす。

 じゃが、梅丸は嵐の寒さと落雷の気にあてられ、生きる力を奪われております。

 どうか津島の大橋家へ急ぎ使いを出してはいただけませぬか」

長春が頼むと、平野家の老家人頭が深く頷いた。

「お任せくだされ、若先生。

 平野家総出でお助けいたします。

 すぐに津島の大橋家へ早馬を走らせましょう」

それから一刻ほどが経った頃だった。

幾らか小降りになった雨の中を、猛烈な勢いで駆け込んでくる馬の蹄の音が聞こえた。

「梅丸! 梅丸は無事なのですか!」

泥水を跳ね上げ、馬の背から飛び降りるようにして土間へ駆け込んできた人影を見て、長春は目を見張った。

ずぶ濡れになり、小袖を泥で黒く汚しながらも、息を乱して大門をくぐってきたのは、大橋重長様の若き正室であり、信秀公の御息女――くらの方様その人であった。

「くら様!?

 なぜ、自ら馬などに……」

桔が驚いて立ち上がる。

くらの方の後から、同じくずぶ濡れになった若い男が入ってきた。

ご長男の大橋長将殿である。

くらの方が体を起こした梅丸を抱きしめる。

その背へ向かって、長将殿が静かに声を掛けた。

「母上。

 使いの者も申しておったではありませんか。

 長春殿の手当により梅丸は無事だと」

その言葉でようやく周囲の者たちに気付いたのだろう。

くらの方は梅丸を抱いたまま長春へ向き直った。

「長春、いや長春殿。

 梅丸を救っていただきありがとうございまする。

 梅丸は我が子も同然。

 礼の言葉もございません」

長春は頭を下げた。

「そのようなお言葉、勿体のうございます。

 されど一つ願いがございます。

 梅丸も桔も大雨の中で体を冷やしております。

 何卒、暖かくして休める一夜の宿をお貸しいただけませぬか」

「勿論じゃ。長将、良いな」

くらの方が振り返る。

長将は穏やかに頷いた。

「すでに南門前に使いを送りました。

 奴野の屋敷より近うございますし、門前の屋敷の方が寛げましょう」

元服したばかりとは思えぬ落ち着きである。

さすがは大橋家の若旦那である。

迎えの輿が届くまで、くら様は何度も長春へ礼を述べた。

「長春殿、よくぞこの子を救ってくれました。

 大旦那様は屋敷を動けぬゆえ、私が参りました。

 皆、ずぶ濡れではありませぬか。

 門前の屋敷で湯を用意させます」

養子だからと遠慮する暇も与えず、一行はまとめて招かれることとなった。

その果断で強引なところに、「さすがは尾張の虎の娘だ」と長春は感服した。

坊丸を救えなかった痛みは消えない。

だが今日だけは違う。

梅丸の胸は、今も確かに上下している。

その小さな命の温もりを。

今だけは素直に喜んでもよいのかもしれなかった。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


本作は『向島の医師 ―記憶の継承―』第一部の始まりとなる物語です。


次話『赤目の師』では、長春が師・東伯のもとで医の道を学ぶ姿が描かれます。

引き続き、お楽しみいただければ幸いです。

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