ティリアのひとりごと 後編
あの最悪なケンタウロスの襲撃事件から、ミシュアが心を閉ざしてしまった。
はじめは、ミシュアがあまりの恐怖に怯えているのかと心配していたのだけど……。
それなら、どうしてわたしを避けようとするのか?
あれからミシュアのわたしへの態度が、変わってしまった。
体の変調の秘密を隠していたときの様子とも違う。
わたしはもうずっと二十年も、あのこを傍で見守り育んできたのだ。
あのこの瞳が、体じゅうが泣きたいのを堪えていると、痛いほど伝わってくる。
なのに、わたしの差し伸べた手はやんわりと解かれ、目が合ってもすぐに逸らされてしまう。
どんなにお願いしても、ミシュアはリプエのところにも出かけなくなってしまった。
どうして――?
わたしは、考えて考えて……。
『…………同じ……香り』
はたと思い出した。
気を失う寸前に、確かにミシュアはそう言っていた。
だとしたら、ミシュアはリプエとわたしの仲を誤解したのかもしれなかった。
なんてこと!
リプエをその気にさせようとしたわたしの小細工が、かえって裏目に出てしまった。
こんなことになるなんて……。
よもやケンタウロスが、あのタイミングでミシュアの居館に侵入してくるなんて、思ってもみなかった。
神域に侵入するなど、そんなこと、相当周到に計画し準備しなければできることではない。
そんなの、想定の範疇を越えている……。
――まったく! 予知の女神が聞いて呆れるわね。
こと私情がからむと、わたしの能力はさっぱり働いてくれないのだから。
それにしても、困ったことになったものだわ。
この誤解を解くのは、容易ではない。
だって、……わたしがそうだったもの。
『……彼もまた、『枷』に、縛られているのよね……』
――あぁ、そうだ!
愛の女神が言っていたあの話。
リプエは、浮気なんかできないのだという話。
あれをミシュアに聞かせてあげれば。
早く行って、あのこに伝えて、早くあのこに安心してもらいたい。
あのこの杞憂を取り払って、あのこに心から笑ってもらいたい。
わたしは取るものも取り敢えず、ミシュアの居館へと急いだ。
ところがミシュアは館の中に閉じこもったきり、わたしが会いにいっても出てきてもくれない。
デリケートな内容だけに過去に愛の女神となにがあったかと疑われても困るから、人伝に頼むわけにもいかないし。
申し訳なさそうにミシュアの伝言を伝える女神も、ミシュアのことをひどく心配していた。
もともと体が弱いこだったけど、最近はとみに体調が悪いらしい。
リプエは、――今日も泉にいるのかしら?
かつてわたしも、愛を語らったあの場所で。
今はもういない、わたしのリプエと……。
とうとう、あの事件からひと月が経ってしまった。
ほんとにもう、やきもきさせられるわ。
焦れったいったらありゃしない。
ふだんの短気な彼は、いったいどこにいってしまったのかしらね?
よくもこんなに、待てるものだわ。
わたしでさえ、あのこが心配でいてもたってもいられないというのに。
先代の彼だったら!
彼だったら?
わたしも、こんなふうに……彼を待たせてきたのかしら?
伝え聞くミシュアの容態は、いよいよ悪くなってきていた。
痺れをきらしたわたしが、リプエに使いを出そうと手配していたとき。
重い腰を上げて、ようやくリプエがわたしの館を尋ねて来た。
今度は、――彼自身の意志で。
わたしは手短に、わたしの知るかぎりのミシュアの近況を彼に伝えた。
わたしはまじまじと、彼の顔を見つめた。
やっと、心を決めてくれたのね――?
大切なあのこを、あなたに任せていいのね?
リプエは、今までに見たことのない、男の顔をしていた。
成熟した戦男神を相手におかしな言い方だけど……、でもそう表現するのが一番しっくりする。
彼の顔が、全然似ていない先代のリプエの面影と重なった……。
目頭が熱くなるのを堪えて、わたしはリプエをミシュアのもとへと送り出した。
さあ、最後の仕上げをしなくちゃね!
ちょうどわたしの館に来ていた伝令の神にお願いして、これからなにが起ころうと、ミシュアの居館には誰も近づかないように触れてある。
愉快なことの大好きな神は軽い調子で請けあうと、真っ先にドノアのところに飛んだらしい。
驚くべき短時間のうちにやって来たドノアは、どういうことかとわたしに厳しく詰め寄った。
そうだった。
ミシュアの館の護りを固めていたのは、ドノアだったわ……。
ドノアは執拗に食い下がってきてどうにも引き下がってくれそうになかったので、リプエに『枷』をはめるためだとだけ告げて渋々了承させた。
館に施した結界はどうするのか? リプエにあれをどうにかするのは無理だろうと聞いてきたけど、構わないと答えて、ドノアと同様に駆けつけた近隣の女神に彼女を引き留めておくよう押しつけた。
この間のこともあるから、ぎりぎりまで結界はそのままにしておきたい。
慎重でヘンなところで用心深いドノアは、
だが、それでもし、リプエが結界を解除できなかったら?
などと気を回して、ミシュアの居館に出向いていくかもしれなかった。
ドノアと彼が鉢合わせなんてしたら、……考えただけで目眩がするわ。
それにリプエにも、そのくらいは頑張ってもらわないと。
ねぇ、リプエ。
あなたをそんなにも悩ませ躊躇わせているのは、わたし達のせいなのよね。
わたし達がうまくいかなかったから……。
晩年のリプエとわたしの心は、完全にすれ違ってしまっていた。
彼のことがわからなくて怖くて誰かにすがりたくて、でもそんなことできるはずもなくて。
リプエ神の『枷』となる者は、心が彼から離れることを許されない。
わたしのうちにある彼の力は見えない鎖となってわたしを縛り上げ、昼夜を問わず苦しめた。
『あなたの肉体の、どこにも損傷はありません』
医療の神は穏やかな顔に憐憫の情を滲ませて、すまなさそうにそう告げて帰っていった。
その必要はないと言ったのに、心配した友人の女神が請うて彼に診てもらうことになったのだ。せっかく来てもらったのに、かえってこちらが悪いことをした気分だった。
これほどの痛みがありながら、わたしの体には傷ひとつない。
それはわたしのなかにあるリプエの力が、わたしの体を護っているから。
矛盾するようだけど……。
わたしは身をもって、思い知らされることになった。
リプエ神あるかぎり、『枷』となる者は生を失うことはない。
つまりリプエの力は、わたしをこんなにも痛めつけておきながら、わたしに死を与えることを許さないのだ!
酷い、……と思った。
彼の最期となる戦いを前にして、わたしは具合が悪いからと、わたしの様子を見に立ち寄ってくれた彼の顔を見ることもしなかった。
そのときが、いつだったかなんて覚えていない。
その頃には、わたしは寝台のうえでひたすらもがき苦しむ日々を過ごしていたのだもの。
――あれほどわたしを苛んできた締め上げられるような痛みが、嘘のようにすう……っと消えていった。
同時にわたしのなかにあったものも……感じられなくなっていた。
血の気がひいた。
全身が震えて、とまらなかった。
ドノアに言われた。
彼が死んでしまうような戦いではなかったと……。
『あなたが死ぬことは許さない! それでは死んだリプエが浮かばれない』
それでわたしは、絶望という名の苦痛の待ち受ける現実に突き落された。
わたしは、信じることができないでいた。
彼の存在を、感じることができなくなっても。
彼の力を、身のうちに確かめることができなくても。
あの彼が、この世界からいなくなってしまうなどと。
……彼が、そんなことをするだなんて、信じられなかった。
わたしのために?
そんなこと、あるはずがない
彼は……尊大で傲慢で自分勝手で……わたしの身も心も踏みにじり続けてきたのだもの!
さんざんなじられ、ねめつけられてきたけれど、彼に最後に睨み据えられたときの目は……リプエと同じ目をしていた。
怒りに燃える彼の瞳にちらつくもの。
何かに必死に堪えているような……
彼は、度し難い激昂に震えているのだと、単純に思っていた。
庭園でリプエを前にして、リプエの瞳にあのときの彼と同じ色を見つけて、ようやく気付いた。
あれは……
わたしを傷つけたくはないのだという想い。……哀しみ。
彼は、変わろうとしてくれていたのだ。
リプエの、今の姿は…………。
リプエが選ぶのは、魂までもが純潔な者。
わたしがもう一度選ばれることなど絶対にありはしない。
もとより、――――あなたは彼ではない。
あなたはあのこと結ばれて、互いが互いを繋ぐ『枷』となる。
今どんなことが行われているか……。
想像するだけで、体が魂までもが熱くなる。
あれほどに、苛烈なまでに愛されていたのに……。
邪魔者は来ないわ。存分に――――。
ずっとずっと、幸せに。
お読みいただいて、本当にありがとうございました。