第2話
「大丈夫かい? ライル?」
ガシャン! という派手な陶器の砕ける音とともに、俺の視界は大きく反転し、後頭部に鈍い痛みが走った。
婚約者であるセレーナ=ヴァルムントとの茶会が不安だからついてきてほしい。そう親友のルシウスに泣きつかれ、身を乗り出して返事をしようとした瞬間、俺は盛大に椅子ごとすっ転んだのだ。
そして、床に頭を打ち付けた衝撃で、俺の脳内に雷のような「前世の記憶」が蘇った。
俺は前世、重度のギャルゲーマーの20代会社員で、トラックから猫を助けて死んだ。
そしてここは、俺が一番やり込んでいたギャルゲー『Andore』の世界。
俺のポジションは、目の前で呑気に俺を覗き込んでいる主人公・ルシウスの、都合の良いサポートキャラ「ライル=レイセン」だった。
「ライル? 血は出てないかい? セレーナが来る前に立ってくれよ」
「……っ、ルシウス、お前……っ」
俺は床に這い蹲ったまま、親友の胸ぐらを掴みそうになるのを必死に堪えた。
主人公じゃないのは百歩譲っていい。問題は、俺がこいつの「選択肢」次第であっさり死ぬ巻き込まれキャラだということだ。
これからここに来る、ルシウスの婚約者セレーナ=ヴァルムント。彼女はファン人気投票1位のメインヒロインだが、少しでも選択肢を間違えると、速攻でヤンデレルートに突入しルシウスを監禁する。そして、ついでとばかりに親友の俺を「ルシウス様を唆す悪魔!」と嬉々として殺しに来るのだ。
『これでずっと一緒ですわね……』と血に塗れた部屋でルシウスの手をとるスチルはあまりにも怖いと界隈で有名だ。まあ、それがいいという業の深いプレイヤーもいたが、現実で巻き込まれる俺の身にもなってほしい。
冗談じゃない。俺の命は、このアホな親友の選択肢にかかっているのか。
「お待たせいたしました、ルシウス様。そして……ライル様?」
鈴を転がすような、可憐で美しい声が頭上から降ってきた。
見上げると、日傘をさした完璧な令嬢――死のフラグそのものであるセレーナが、床に転がる俺を不思議そうに見下ろしていた。
俺の目標はただ1つ。絶対に、こいつにヤンデレルートを進ませないことだ。
「……あー、セレーナ嬢? 少しルシウスと内密な用があるんだ。そこの席に座って待っていてくれないか」
俺は引きつりそうになる頬の筋肉を必死に抑え込み、努めて爽やかな笑みを浮かべて立ち上がった。
「分かりましたわ」
セレーナは淑やかに微笑むと、真紅のドレスの裾を揺らして素直に席についた。その完璧すぎる令嬢の振る舞いすら、今の俺には『血に塗れたスチル』の伏線にしか見えなくて胃が痛い。
「よし、ちょっとこっち来いルシウス」
俺は親友の腕を掴むと、セレーナから離れた部屋の隅へと引きずり込んだ。
「どうしたんだい、ライル? 急に」
「ルシウス、お前は『女の子の正しい接し方』ってやつを知っているか?」
「あいにく何も……ライルなら、そういうことにも詳しいんだろう?」
純粋な目で俺を見つめてくる主人公(アホの子)。
そうだ。こいつは天然のタラシだが、恋愛の機微には絶望的に疎い。俺の百戦錬磨のギャルゲー知識で、こいつの選択肢をコントロールし、穏便なエンディングへと導かなくては。
「よし。じゃあ、まずは彼女の前に立って『婚約を破棄させていただく!』と力強く宣言しろ」
「……は? え、そんなひどいことを彼女に? なんでだい!?」
驚いて声を上げそうになるルシウスの口を、俺は慌てて塞いだ。
理由は簡単だ。ゲーム序盤のこのセリフに対する彼女のリアクションを見ることで、現在の隠しパラメーターである『好感度』と『嫉妬値』がどれくらい溜まっているか測定できるからだよ!
だが、当然そんなシステム的な事実を、現実の住人であるこいつに言えるわけがない。
俺は咳払いを1つすると、前世の知識から捻り出した言い訳を、さも重大な秘密のように囁いた。
「いいかルシウス。これは彼女の本当の心を知るための『愛の試練』だ」
「あ、愛の試練……?」
「そうだ。政略で決められた婚約だからこそ、一度白紙に戻すフリをして揺さぶりをかける。そこで彼女がどういう態度を取るかで、君への真実の愛が測れるんだ。愛する彼女との未来のためだ、心を鬼にして言え!」
「な、なるほど……! そういうことか、分かったよライル!」
チョロい。
見事に丸め込まれたルシウスは、キリッとした表情を作ると、紅茶を飲んでいるセレーナの正面へと歩き出した。
さあ、来い。これで彼女が泣き崩れれば通常ルート。もし無表情でティーカップを握り潰したら即・逃亡だ。
俺は部屋の隅で、冷や汗を流しながら親友の背中を見守った。
――と思ったがセレーナの反応は予想のどちらとも違った。
彼女は目を見開いたまま、口元に運ぼうとしていたティーカップを空中でピタリと止め、石像のように固まってしまったのだ。
そして数秒後、ハッと我に返ったかと思えば、優雅さの欠片もなく、ゴクゴクと音を立てて熱い紅茶を一気にがぶ飲みし始めた。
……なんだこれ。ゲーム本編に、セレーナのこんなトンチキなスチルあったか?
「あの、セレーナ。大丈夫かい? 顔色が悪いよ」
驚愕する俺をよそに、ルシウスがあっさりと「冷酷な婚約者」の仮面を脱ぎ捨て、甘やかな声音で彼女の顔を覗き込んだ。ご丁寧にレースのハンカチで彼女の額の汗まで拭ってやっている。
バカ!アホ!何やってんだお前!
これじゃあ『愛の試練』のテストにならないだろ! ヤンデレヒロインの地雷原でタップダンス踊る気か!
「……大丈夫です、ルシウス様。少し自分の人生について考えていただけですので」
「そうか。それならいいんだ。体を壊したら大変だからね」
セレーナが引きつった笑顔で応えると、ルシウスは心底ほっとしたように微笑んだ。
ダメだ、こいつの天然タラシは手遅れだ。俺が頭を抱えていると、セレーナが探るような視線をルシウスに向けた。
「あの、ルシウス様。先ほどの婚約破棄とは、一体どういうことで……?」
「……えっと」
理由を問われたルシウスの視線が、スッと泳ぐ。そして、あろうことか部屋の隅に隠れている俺の方をチラリと見た。
「い、いや、僕はライルがこのセリフを言えって言ったから……」
「違うだろ! ルシウス! そこは『君との婚約を破棄させてもらう、なぜなら〜』って続けるところだろ!」
俺はヤンデレフラグの隠蔽と、親友への怒りに任せて、気づけばルシウスの顔面に右ストレートを叩き込んでいた。
鈍い音とともに、ルシウスが床に吹っ飛ぶ。
「あ――! 何の話かなルシウス!?」
俺は慌てて大声を出し、ルシウスの口を物理的に塞ぐために馬乗りになった。
「おおそうだルシウス!そろそろ君の幼馴染のアリア嬢との待ち合わせじゃないか?」
「いや僕はアリアよりセレーナの方を」
「すまないセレーナ嬢あいにく彼は忙しくてね。茶会はまた今度で」
さあ、どう来る。強力な嫉妬トリガーである幼馴染の名前を出したぞ。
目のハイライトがなくなったらヤンデレルート確定。寂しそうに伏し目がちになったら、まだ通常ルートの可能性が高い。
俺はルシウスの口を塞いだまま、セレーナの瞳をガン見した。
すると、セレーナはぱちりと二度瞬きをしたあと――パァァッ、と顔を輝かせた。
「アリア様! 男爵家の光魔法の使い手であるアリア様ですね!? なるほど、ルシウス様は彼女と!」
……は? なんだその反応は。
顔を輝かせる? なんでテンション上がってんだ?
「そういうことでしたら、先ほどの『婚約破棄』のお言葉、深く納得いたしましたわ! どうぞルシウス様、私にかまわずアリア様のもとへ急いであげてくださいな!」
セレーナは立ち上がると、まるで厄介払いが済んだかのような、この上なく晴れやかな笑顔で俺たちに向かって優雅にお辞儀をした。
一滴の嫉妬も、一滴の未練もない、完璧な笑顔。
――いや、待て。
俺のギャルゲーマーとしての直感が、けたたましく警報を鳴らしている。
ゲーム本編にこんなルートは存在しなかった。婚約破棄されて、ライバル女のもとへ行く男を、こんな満面の笑みで見送るはずがないのだ。
もしやこれは……『感情がバグるほど嫉妬値が振り切れた結果、笑顔で殺しに来る』という、最悪のバグ技系隠しヤンデレルートなのでは!?
「ル、ルシウス! 逃げるぞ!」
「ふがっ!? ライル、苦し……っ」
もはや一秒の猶予もない。
これ以上彼女を刺激したら、ティーカップの破片で首の動脈を掻き切られる!
俺は親友の首根っこをひっつかむと、背後から向けられるセレーナの笑顔の圧に震えながら、全速力で茶会から逃亡した。




