終
もうすぐ夜が明ける。
白み始めた東の空をイオは荒れ地で見上げていた。
すぐ隣にはハツユキが立っている。
村はまだ静かだ。無人の畝の上を風が吹いている。
「ありがとうございました」
深々と頭を下げたハツユキの躯は頼りなげだ。
元々薄かったカガシとしての精気が、今やほとんど感じられない。
このカガシの寿命はもうすぐ尽きる。
だがその顔には満足そうな笑みが浮かんでいる。
「リュウ殿のおかげです」
「なんか、はなっからあんたに、はめられた気がする」
だが気分は悪くない。
イオはハツユキが気に入った。
カガシを好くなんて初めてだ。
リュウの者に、特に口の悪い婆様らに知られたら、何を言われるか分かったもんじゃないが、それも良い。カガシにも気の合う奴がいるのだと。みなに教えてやろうとさえ思っている。だが、してしまった事が正解かどうか。それはイオにも判断がつきかねた。
「これで、良かったんだね?」
「はい」
イオの迷いをかき消すように、ハツユキが力強く頷く。
「ただ本当に低い確率だ。ゼロにちかい。あたしゃあ、責任もてないよ」
「それはわたしも。あの子も分かっております」
ナツキの願いは、ハンの子供としての生であった。
ハンに認めてもらう為ならば、寿命の短いヒトであることも厭わなかった。
良くも悪くもあのカガシは、赤子のまま大きくなってしまい、赤子のまま母親を求めている。
だがカガシの姿で、それをハンに理解してもらうのは無理であった。悲しいが、それがヒトとカガシとの越えられない壁だ。
ハツユキはそれを理解している。
だがナツキは駄目だ。
あの赤子には理解できない。母親と自分がまだいっしょくたなのだ。
ーー息子を殺していただきたい
ハツユキの提案はイオを瞠目させた。
好き好んでカガシ殺しをする気はないと、拒否するイオにハツユキは、「生きるためなのです」
そう言うと、ナツキの肩に手を置いた。
「わたしは、この子に半端な生しか与えられなかった」
ハツユキには最初から分かっていた。
だからこそリュウの者が必要だった。
ハツユキはナツキの着物の肩袖を抜いた。
あらわになった躯に、イオが息をのむ。
「あんたは……分かってやったんだな」
恨みがましそうに、ナツキが呟く。
「お前を地に封じ込めた時には、既にこうなる可能性も考えていた。呪いの気を発しているカガシを元に戻す術を、わたしは知らない。それでも時間をかければ。そう願ったが……駄目だった。わたしを恨むか? この様な躯をお前に与えたわたしを」
そこにあるのは朽ちかけた躯であった。
なめらかな皮膚が右肩から脇腹にかけて、ごっそりと黒く爛れている。もう人型を保つのが無理なのだろう。
蛇の鱗の上を、じくじくと黒い膿みが流れ出している。
「あんたを恨んじゃあいない」
ナツキは左手で肩を押さえると言った。
「これは……僕の呪いだ。この身が朽ちるとしても、僕には止めることなどできなかった。そうとも。あのままだったら、僕は母さんの腹のなかで死んでいた。それを考えたら、呪いなどいくらでも受けてやる」
「……そうか。ならばもうわたしに迷いはない。リュウ殿、見てくれた通りだ。この子の呪いを、わたしは抑えることができなかった。あなたでなければならないのです」
ナツキの躯に視線を送り、「この状態でイドに送るのは、いくらなんでも無理だぞ、途中でくたばっちまう」イオは断言した。
「そうでしょう。リュウ殿がおさめるイドでも。現世でも。この子が生き延びるのは難しい。ならば」
ぐっと口元を一旦引き締めると、「呪いを断ち切り、次の生へ送って頂きたいのです。私はこの子をヒトの生に送りだしてやりたいのです」
ナツキは驚いたように、ハツユキの横顔を見上げた。
ヒトとしての生。
カガシが望むには、あまりに無謀な賭けだ。しかも叶えられる可能性はなきに等しい。
だが母さんの元にいけるのであれば。
少しでも願いを抱けるのならば。
それでも良い。僅かでも可能性があるのならば、それにかける。
呪いに朽ちかけているカガシとしての生など惜しくはない。
そう言い切るナツキから、イオはカガシの力の源であるカガシ玉を抜いた。
カガシ玉を抜かれるのは、カガシにとっての死を意味する。しかし逆にそれは呪いからの解放ともなる。
今のナツキでは現世でも、イドでも生きながらえはしない。それならばせめて次の生に送って欲しい。それがハツユキの願いであった。
イオにも迷いはあった。
ナツキがハンの子供として生まれ変われる保証はどこにもない。
第一カガシがヒトとして転生したなどと聞いたこともない。
それでも良い。
ハンの子の、そのまた子でも良い。自分と母に縁があるのならば、自分はきっとハンの血筋に生まれ変わる。
そう言い残して、幼い蛇神はひっそりとこの世を去った。
はたしてカガシが、ヒトとして生まれ変われるのか。
そもそも生を受けてこの世に産まれてくること事態が奇跡なのだ。
ナツキの母を思う執念は凄まじかった。ならば奇跡をおこすのかもしれない。
「それにしても、あなたを札師にしておくのは惜しい」
ハツユキがイオに目配せをした。
「別にあたしゃあ札師の流儀に反した事なんざ、しちゃいない」
「ですが、あそこまでして下さるとは、正直思っておりませんでした」
目覚めたハンにイオは薬を差し出した。
あの蛇は退治したので、もうあんたを脅かすものはいない。しかしあんたはどうやら蛇に好かれる性質らしい。この粉薬を七日間飲み続けなさい。蛇除けの妙薬だ。
そう言って渡した粉薬。
「あれはナツキのカガシ玉を削ったものですね?」
「まいったな」
イオは鼻に皺をよせた。
ハンがハツユキを見て卒倒すると困るから。そう言い含めて、この蛇は外に追い出していたっていうのに。まったくカガシという奴は油断できない。
ハンはナツキの力の源を微量ながら体内に取り込んだ。
それはナツキの魂の目指す道標となり、ハンの血筋に受け継がれるだろう。だが、あれを飲んだからといって躯にさわりはしない。
そうとも。
飲んだからって蛇がすぐさま現れるってわけではない。
「あんた口は堅いんだろうね」
「わたしは何も言いません。それに」
ハツユキは空を仰いだ。もうすぐ日が昇る。
「わたしはここで消えます」
「……」
穏やかな笑みを浮かべるハツユキにかける言葉はみつからなかった。
イオもとうに分かっている。
ハツユキは自分の力を使い終わった。
息子を待つためだけに。その為だけにこのカガシは生きてきたのだ。
「少しでもお前が楽になるのならば」
そう言って残った力の全てを差し出したハツユキに、ナツキは鼻を鳴らした。
「死ぬ者に何て無駄なことをするんだ」
せせら笑う口元が、微かに震えて見えたのはイオの気のせいではあるまい。
「ただ死に行くだけではない。だからこそやらせてくれ」
そう言って息子の穢れた肩へ己の力を注ぐハツユキへ、「馬鹿だね。父さん」ナツキは幼い表情で呟いた。
ナツキはどこまで気がついていただろうか。
ハツユキの思いを。
しかしイオは口をはさみはしなかった。
分かっていようが、いまいが、ハツユキは構わないはずだ。
「力を使い果たしたわたしは、カガシ玉も残せません。この地で塵となり、ここの土塊となります。ここで、ハンを。ハンの産む子供たちを見守ります。リュウ殿」
ハツユキの青い双眸が、弓形ににこりと弧をかいた。
「あなたに出会えて良かった。わたしはカンノを守れなかった。しかしあなたのおかげで、ハンは守れた。ナツキとも出会えた。感謝する、リュウ殿。ありがとう」
そう言ってハツユキが、イオの手に己のそれをそっと重ねた。
手のひらに微かな重みが伝わる。
赤い宝玉。
ナツキのカガシ玉だ。
玉は削られ、完全な形は成していない。
「あの子は確かにここにいた。これはあなたへ……」
うっすらと、ハツユキの輪郭が溶け出した。
差し込んで来た日の光のもとで、それが蛇の形を成したようにも思われたが、後には一握りの塵が、こんもりと残っているばかりであった。
三百年待った蛇神の想いを助けるように、風が塵を舞上げ、それは村のあちらこちらに溶けていく。
静かにイオだけが、その光景を見守っていた。
完
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
「荒れ地に立つ蛇」は5年程前の作品です。最初30枚程度の小品でしたのを、今の形に書き直し小説宝石新人賞に応募しました。
今読み返しますと、色々と粗も目立ちますが思い出深い作品です。100枚という規定は、思いのほかまとめずらく四苦八苦して書き上げた記憶があります。
尚なろうに投稿するにあたって、かなり改行をしました。その為今作については原稿用紙換算100枚以上となっています。