第1話 温かいうちに
湯が沸く前に、できることが三つある。
窓を少し開ける。
昨夜洗った布を裏返す。
朝に食べる分と、明日まで残す分を分ける。
ファステは火にかけた小鍋を一度見てから、音を立てないよう窓の留め具を外した。
朝の冷たい空気が、細く開けた隙間から入ってくる。
開けすぎてはいけない。
まだ寝台にいる叔母が冷える。
けれど、閉め切ったままでは寝具に湿気が残る。
風が布の端を揺らす程度で窓を止め、ファステは椅子の背に掛けていた布へ手を伸ばした。
乾いている。
表面へ指を滑らせ、まだ湿りの残る端だけ外へ向けた。
次は朝食だった。
籠には、小さな芋が四つ。固くなり始めたパンが二切れ。葉の端が萎れた野菜が少し。
芋は二つだけ使う。
パンは今日中に食べた方がいい。
野菜は傷んだところを除けば、まだ十分に使える。
ファステは包丁を入れ、食べられない部分だけを薄く落とした。
背後で、床板が一度だけ鳴った。
「おはようございます、叔母様」
「……まだ何も言っていないよ」
眠そうな声が返ってくる。
振り向くと、エルマが寝台の端へ座っていた。肩へ布を掛け、乱れた髪を手で押さえている。
「起こしてしまいましたか?」
「自分で起きたんだよ。それより、どうして分かったの」
「そこの板は、踏むと音がしますから」
ファステが足元を示すと、エルマはゆっくり下を見る。
「昨日も鳴っていたかい?」
「はい」
「一昨日も?」
「おそらく」
「それなら、先に教えておくれ」
「困るほどの音ではありませんでしたので」
「朝から人が驚くには十分だよ」
叔母の顔に浮かんだのが本当の不満ではないと分かり、ファステは小さく笑った。
「今日は、その板を直すのかい?」
「いいえ。釘が足りません。先に戸棚の取っ手を直します」
「あれは、まだ開くだろう」
「昨日は二度外れました」
「戻せば使える」
「熱い鍋を持っている時に外れたら危ないです」
言いながら、ファステは切った野菜を鍋へ入れた。
湯はちょうど小さく泡立ち始めている。
火を少し弱める。
芋を薄く切れば、燃料を余計に使わずに済む。
「叔母様。顔を洗うお湯は、こちらへ残してあります」
「朝食は?」
「もう少しです」
「あんたの分は」
「あります」
「本当に?」
ファステは卓上へ二枚の皿を置いた。
パンは一切れずつ。
大きさも、ほとんど同じである。
「本当です」
「なら、よろしい」
「私だけ減らしたりはしておりません」
「そこまで聞いていないよ」
「叔母様は、いつも先に確かめますから」
「あんたが、聞かれなければ自分の分を後へ回すからさ」
「今日は同じだけございます」
「今日だけでなく、明日もそうしておくれ」
エルマは満足したようにうなずき、ゆっくり立ち上がった。
以前なら、もっと素早く歩いていた。
最近は、朝になると右脚をかばう。
本人は何も言わない。
ファステも、そのたびに指摘はしなかった。
椅子を引く位置を少しだけ変える。
歩く距離が短くなるよう、洗面用の器を近くへ置く。
その程度なら、叔母の機嫌を損ねずに済む。
「また動かしたね」
「何をでしょう」
「その器。昨日は窓の近くにあった」
「こちらの方が使いやすいと思いまして」
「あんたは、よく見ているねえ」
見つかった。
ファステは答えず、朝食をよそった。
エルマも、それ以上は何も言わなかった。
二人で卓を囲む。
温めた野菜と芋には、塩をほんの少しだけ使った。パンは鍋の湯気へ近づけ、固さを和らげてある。
豪華な食事ではない。
けれど、昨夜より食べやすくはなっている。
「おいしいよ」
「まだ何も召し上がっていません」
「見れば分かる」
「味は見ただけでは分かりません」
「作った人の顔を見れば、失敗していないことくらい分かるさ」
ファステは自分の頬へ触れた。
「顔に出ていましたか?」
「少しね」
叔母は笑い、パンをちぎった。
ファステも、自分の皿へ手を伸ばす。
朝食が終わるまで、立つ必要はなかった。
◇
茶葉は、缶の底が見えるほどしか残っていなかった。
ファステは傾けた缶を戻し、指先で蓋を閉じた。
「今日はやめておこうか」
エルマが言った。
「買い足せるのは、しばらく先だろう」
「二人分はございます」
「一人分なら、もう一度飲める」
「一人で召し上がりたいのですか?」
エルマが黙った。
ファステは缶を持ったまま待った。
「そう聞かれると、嫌だとは言いにくいね」
「私も一人分だけ淹れるのは嫌です」
「なら、二人分にしよう」
「はい」
茶葉の香りは、買ったばかりの頃より弱い。
量を多くすれば、味は濃くなる。
だが、それでは最後の茶葉がなくなる。
ファステは先にカップへ湯を入れた。
冷えた器を温め、その湯を捨てる。
新しく沸かした湯を茶葉へ注ぎ、蓋をする。
「そこまでして、違うものかい?」
「少しだけ」
「私には分からないかもしれないよ」
「私には分かります」
エルマが目を細める。
「それなら、した方がいいね」
待つ時間も長すぎてはいけない。
ファステは蓋を開け、二つのカップへ少しずつ交互に注いだ。
片方は、縁が滑らかで欠けもない。
もう片方は、小さく欠けた場所を補修してある。
よい方を叔母の前へ置く。
補修した方を自分の席へ置いた。
「ありがとう」
「熱いうちにどうぞ」
ファステは空になったポットを持ち上げた。
流しへ運ぶ前に、エルマが卓を指で二度叩く。
「どちらへ行くんだい」
「先に洗っておこうかと」
「茶は、あんたの分もあるんだろう」
「冷めるまでには戻ります」
「それでは遅いよ」
エルマは、向かいの椅子を足で少し押した。
「淹れるところまでが、あんたの時間じゃない。座って、温かいうちに飲むところまでだ」
何度か聞いた言葉だった。
「分かっています」
「分かっている人は、今すぐ洗い物へ行こうとしない」
ファステはポットと椅子を見比べた。
洗うのは、あとでもよい。
茶渋が落ちなくなるほど長く置くつもりもない。
「では、あとにします」
ポットを卓上へ戻し、席へ座る。
カップを両手で包むと、指先へ熱が移った。
香りは淡い。
それでも、何も考えずに湯を注ぐよりは残っている。
ひと口飲む。
「どうだい?」
「叔母様は、いかがですか?」
「先に聞いたのは私だよ」
ファステはもう一度味わった。
少し薄い。
けれど、後に残る柔らかな香りは好きだった。
「私は好きです」
「私もだよ」
「同じ味だからでしょうか」
「同じ茶を飲んでいても、同じ味に感じるとは限らないよ」
「では、違っていても?」
「あんたが好きで、私も好きなら、それで十分だろう」
二人の好みが同じかどうかは、分からない。
同じ言葉でも、感じている味まで同じとは限らない。
それでよかった。
ファステは自分のカップを持ち、叔母は叔母のカップを持っている。
窓から入る風が少し強くなった。
火は消してある。
洗い物は残っている。
直すべき戸棚の取っ手も、鳴る床板もある。
それでも、今すぐ立つ必要はない。
茶が温かい間くらいは、このままでよかった。
◇
「これで全部です」
ファステは卓上へ、小さな袋を三つ並べた。
食べ物に使う分。
燃料と灯りに使う分。
家の補修や、急に必要になった物へ使う分。
エルマは一番小さな袋を持ち上げた。
「軽くなったね」
「先月より、少し」
「少し、かい?」
ファステは返事をしなかった。
叔母が縫った布は、以前ほど売れなくなっていた。
仕事そのものがなくなったわけではない。
ただ、仕上がるまでに時間がかかるようになった。
細かな縫い目を追うと目が疲れる。
長く座っていると、右脚が痛む。
休む時間が増えれば、仕上がる数は減る。
仕上がる数が減れば、受け取れる金銭も減る。
どれも突然起きたことではない。
少しずつ減り、今月になって、分けた袋の軽さをごまかせなくなった。
「食べ物は、あとどれくらい保つ?」
「今と同じ使い方でしたら、十日ほどです」
「燃料は」
「もう少し」
「屋根は、雨の前に見てもらわないとね」
「はい」
最近、壁際へ置いた器に雨水がたまっていた。
布を当てるだけでは、次の強い雨を防げない。
釘も必要だった。
戸棚の取っ手より、そちらが先になる。
ファステは頭の中で順番を変えた。
「私が、もう少し縫えば――」
「叔母様」
「前と同じ数は無理でも、あと二枚くらいなら」
「昨日も、遅くまでなさっていました」
「見ていたのかい」
「灯りが消えていませんでしたから」
「本当に、よく見ているね」
エルマは困ったように笑った。
ファステは三つの袋を、もう一度見た。
食べる量を減らす。
燃料をさらに使わない。
屋根の補修を遅らせる。
どれも、一時的にはできる。
だが、それだけだった。
「私が働きます」
「今も、十分働いているよ」
「家の中だけではなく、外でです」
エルマの笑みが消えた。
「どこか、考えているのかい」
「まだです。ですが、料理や洗濯でしたらできます。掃除や、物の管理も」
「できるだろうね」
「町で探してみます。通いが難しければ、住み込みでも――」
「住み込み」
叔母が静かに繰り返した。
ファステも、その言葉の重さに気づいた。
朝、同じ卓へ座ることはできなくなる。
鳴る床板も、外れかけた戸棚の取っ手も、すぐには直せない。
叔母が夜遅くまで灯りをつけていても、気づけない。
「休みには戻ります」
「まだ何も決まっていないだろう」
「はい」
「それなら、戻る約束もまだ早い」
「……はい」
ファステは、一番小さな袋を手に取った。
「嫌なのかい?」
「何がでしょう」
「外で働くのが」
すぐに答えようとして、ファステは止まった。
この家を離れるのは嫌だった。
知らない場所で、知らない相手のために働くことも怖い。
けれど、料理も洗濯も嫌いではない。
散らかっていた物が使いやすくなるのは嬉しい。
食べにくかったものを、少しでもおいしくできれば安心する。
疲れていた人が、温かいものを口にして息をつく瞬間も好きだった。
「嫌ではありません」
「それは、私のために?」
「叔母様のためでもあります」
「でも?」
「私にできることが、ほかの場所でも役に立つのなら……してみたいと思います」
「役に立つかどうかを聞いたんじゃないよ」
ファステは叔母を見た。
「あんたが、そうしたいのかを聞いている」
同じことだと思っていた。
自分にできることで叔母を助けられる。
必要としている家でも働ける。
それなら、したいと答えてよいはずだった。
けれど、エルマは返事を待っている。
ファステは一度、考え直した。
叔母のためでなければ。
金銭が必要でなければ。
それでも、知らない台所を見てみたいと思うだろうか。
使ったことのない道具を覚え、たくさんの人が暮らす場所を整えてみたいだろうか。
「してみたいです」
今度は、先ほどより小さな声になった。
「私が、してみたいと思います」
言葉にすると、胸の中の不安が少しだけ形を変えた。
知らない場所へ行くことだけを考えれば怖い。
自分にできることをしに行くのだと思えば、前へ進めそうだった。
「そうかい」
エルマは袋を卓上へ戻した。
「なら、止めないよ」
「ありがとうございます」
「ただし、一つだけ」
「はい」
「できないことまで、できると言わないこと」
「申しません」
「それから、できることを全部引き受けないこと」
「それは……」
ファステは少し考えた。
「できるのでしたら、した方がよいのではありませんか?」
「一日で終わるならね」
「毎日でも、必要なことでしたら」
「あんたは、一人しかいないんだよ」
当然のことを言われた。
ファステは自分の両手を見る。
できることには限りがある。
それは分かっていた。
「無理はしません」
「その言葉を、先に働かせすぎている人から何度聞いたと思う?」
「私が申し上げたのは、初めてです」
「これから数が増えないことを願うよ」
「もし、私がお役に立てなかったら」
口にしてから、ファステは自分でも意外に思った。
まだ会ってもいない相手の家で、何もできなかった時のことを考えている。
「戻ってくればいい」
エルマは、迷わず答えた。
「ですが、こちらの暮らしは」
「その時は、二人でまた考える」
「叔母様のご負担が増えます」
「あんたが役に立たなくなったくらいで、ここからいなくなるわけじゃないよ」
叱られたわけではない。
けれどファステは、すぐに返事ができなかった。
この家では、それはあまりにも当然のことだった。
できる日も、できない日も、二人で暮らしてきた。
どうして今、それを確かめたくなったのか、自分でも分からなかった。
叔母が笑ったので、ファステも笑った。
まだ、何も決まってはいない。
明日、町で仕事を探す。
条件を聞き、自分にできるか確かめる。
合わなければ、別の仕事を探せばよい。
そのつもりだった。
◇
「家政婦の経験は?」
「仕事として雇われたことはございません」
机の向こうに座る女性は、手元の紙へ目を落とした。
町の仕事を取り次いでいる人物だと聞いている。
年は叔母より少し下に見えた。
髪をきつくまとめ、質問のたびにファステの顔と手元を見比べる。
「料理は」
「普段からしております。大人数の宴席は経験がありません」
「洗濯」
「衣類と寝具でしたら。扱ったことのない布については、先に教えていただきたいです」
「掃除」
「できます」
「茶は淹れられる?」
「はい」
それだけは、少し早く答えてしまった。
女性が顔を上げる。
「好きなの?」
「……はい。好きです」
「飲むのが?」
「淹れるのも、飲むのも」
「それなら両方できるね」
女性は紙へ何かを書き足した。
「読み書きは?」
「簡単な記録でしたら」
「買い物と在庫の管理」
「家で行っています」
「自分で判断して動ける?」
「分からないことは、先に伺います」
「聞かなければ動けないという意味?」
「いいえ。任された範囲は自分で考えます。ただ、知らない家の物を、初めから私の判断だけで動かすことはできません」
女性の指が止まった。
何か間違えただろうか。
ファステは膝の上で手を重ねた。
「いい答えだよ」
女性は紙を置いた。
「何でもできますと言う人ほど、勝手に物を捨てたり、分からないまま壊したりする。できることと、教わることを分けられるなら、その方がいい」
ファステは小さく息を吐いた。
「一つ、住み込みの話がある」
「どのようなお宅でしょうか」
「ここから歩いて半日ほど。町の外れにある大きな家だよ。家族のほかに使用人もいる。ただ、最近一人辞めてね。手が足りないらしい」
「お仕事は?」
「最初は台所と洗濯の手伝い。慣れたら部屋の掃除や来客の茶も任せたいそうだ」
「お休みはございますか」
「十日に一度。事情があれば前もって相談する。食事と部屋は向こうが用意する」
女性は賃金も伝えた。
ファステは頭の中で分ける。
自分が向こうで使う分。
叔母へ渡す分。
屋根を直す分。
茶葉を買う余裕も、少しは残るかもしれない。
「いかがでしょう」
「すぐに決めなくていい」
「面会だけでも、お願いできますか」
「できるよ。ただ、先方が気に入れば、そのまま試しに働いてほしいと言うかもしれない」
「準備をして伺います」
「怖くはないの?」
叔母と同じことを聞かれた。
「少しは」
今度は、すぐに答えられた。
「ですが、料理や洗濯は嫌いではありません。物の置き場所を整えたり、残っている物を確かめたりするのも好きです」
「変わっているね」
「そうでしょうか」
「普通は、もう少し楽なところを先に挙げる」
「整っていれば、そのあとが楽になります」
女性は声を立てて笑った。
「向いているよ、あんた」
その言葉が、胸の中へ温かく残った。
自分が好きでしてきたことを、外でも必要としている人がいる。
それで叔母との暮らしも支えられる。
「明日の朝、ここへ来られる?」
「はい」
「先方まで案内する者をつける。話を聞いて、嫌なら断って戻ってくればいい」
「分かりました」
ファステは礼を言い、席を立った。
扉へ向かいかけて、机の端に置かれたカップが目に入る。
中身はほとんど残っている。
もう湯気はなかった。
「あの」
「何だい?」
「お茶が、冷めています」
女性はカップを見た。
「仕事をしていたからね」
「申し訳ありません」
「どうして、あんたが謝るの」
そのとおりだった。
ファステは少し迷い、口を閉じた。
「明日は、温かいうちにお飲みください」
「働き始める前から、もう世話を焼くのかい」
「冷めてからでは、せっかくの香りが弱くなりますので」
「覚えておくよ」
女性は笑って、冷めた茶をひと口飲んだ。
◇
帰りに、ファステは茶葉を買った。
よい品ではない。
量も少ない。
それでも、昨日まで缶に残っていたものより香りは強かった。
「仕事が決まってからでもよかったのに」
話を聞いたエルマはそう言ったが、茶葉を戻せとは言わなかった。
「まだ決まっておりませんから、今夜飲みたいと思いました」
「明日は飲めないかもしれないから?」
「帰ってくれば飲めます」
「住み込みなのだろう」
「十日に一度、お休みがあるそうです」
ファステは買ってきた茶葉を缶へ移した。
古いものと混ぜず、間に薄い布を挟む。
「休みには戻ってまいります」
「まだ雇ってもらえると決まったわけではないよ」
「叔母様が、先ほどそうおっしゃいました」
「そうだったかい?」
「はい」
「年を取ると、同じ話を繰り返すものさ」
「先ほどのことです」
「それなら、まだ年のせいではないね」
叔母は笑った。
ファステも、茶葉の缶を閉じながら笑う。
その夜は、新しい茶葉を少しだけ使った。
朝と同じ二つのカップ。
同じ卓。
違うのは、窓の外が暗いことだけだった。
「どうだい?」
「私は好きです」
「今度は、ずいぶん早いね」
「朝より香りが残っていますから」
「向こうでも、茶を淹れるんだろう」
「来客へのお茶も、いずれ任せたいそうです」
「自分の分も淹れるんだよ」
「使用人が勝手に飲んではいけないかもしれません」
「なら、休みの日にここで飲めばいい」
「はい」
「私のために淹れるだけでは駄目だよ」
エルマが自分のカップを持ち上げる。
「あんたも座ること」
「分かっています」
「本当に?」
「今も座っています」
「なら、よろしい」
二人はカップを傾けた。
ファステは、向こうの家で働く自分を思い浮かべた。
広い台所。
たくさんの食材。
今まで扱ったことのない布や道具。
何人分になるか分からない食事。
覚えることは多いだろう。
失敗もするかもしれない。
それでも、できることが増えていくのは楽しみだった。
誰かが帰ってきた時、整った場所と温かい食事がある。
茶を淹れたあと、自分もどこかでひと息つく。
十日後にはここへ戻り、叔母へ向こうでの出来事を話す。
その時は、もう少しよい茶葉を買えるかもしれない。
ファステは、まだ温かいカップを両手で包んだ。
◇
翌朝、荷物は小さくまとまった。
着替え。
髪をまとめる紐。
針と糸。
補修に使える布。
身支度に必要な物。
それ以外は、向こうで用意されると聞いている。
何でも持っていこうとすれば、必要な物まで取り出しにくくなる。
ファステは包みを一度開き、使う順番に並べ直した。
「もう三度目だよ」
エルマが椅子へ座ったまま言う。
「足りない物がないか心配ですので」
「三度見てなければ、四度目でも同じさ」
「では、これで終わりにします」
布を結び直す。
叔母は荷物ではなく、ファステの顔を見ていた。
「嫌なら戻っておいで」
「はい」
「仕事ができなかった時だけではないよ」
「分かっています」
「できても、嫌なら戻っておいで」
ファステは少しだけ返事に迷った。
できるのに辞める。
まだ始めてもいないせいか、その形をうまく想像できなかった。
「……はい」
「今の間は覚えておくからね」
「お仕事の途中で帰るわけにはいきません」
「途中なら、終わるところを決めればいい」
「それは、雇ってくださる方が決めることでは?」
「あんたも決めるんだよ」
「私が決めても、よいのでしょうか」
「あんたが働く場所だろう」
エルマは、何を不思議がっているのか分からないという顔をした。
「向こうの家には向こうの決まりがある。仕事なら、守らなければならないこともある。けれど、そこで働き続けるかまで、全部ほかの人に決めてもらう必要はないよ」
ファステは、すぐにはうなずけなかった。
働く前から、辞める時のことを考えるのは失礼に思えた。
それでも叔母が待っているので、やがて小さくうなずいた。
エルマは立ち上がった。
右脚へ一瞬だけ手を添える。
ファステが近づこうとすると、叔母は手で止めた。
「ここから扉までなら、自分で歩ける」
「存じています」
「なら、荷物を持ちなさい」
ファステは言われたとおりにした。
二人で扉へ向かう。
戸棚の取っ手は昨日のうちに直した。
鳴る床板は、そのまま残っている。
屋根も、まだ直せていない。
茶葉の缶と二つのカップは、棚の中に並んでいた。
持っていこうとは思わなかった。
十日後に戻ってくる。
その時に使うものだ。
「行ってまいります」
「行っておいで」
「十日後には戻ります」
「十日後でなくてもいい」
「ですが、お休みは十日に一度です」
「そういう意味ではないよ」
エルマは、ファステの持つ包みへ触れた。
「帰りたい時に帰っておいで。うまく働けた話でも、うまくいかなかった話でも、座って聞くから」
その時には、棚の二つのカップを使うのだろう。
ファステはそう思い、今度は迷わずうなずいた。
抱き合うほど長い別れではない。
叔母は休みの日になれば会える距離にいる。
ファステは扉を開け、朝の道へ出た。
一度だけ振り返る。
エルマが戸口に立っていた。
その向こうには、二人で使ってきた小さな家がある。
戻る場所を確かめ、ファステは前へ向き直った。
◇
雇用先の家は、遠くからでも分かった。
高い塀。
大きな門。
その向こうに見える、いくつもの窓。
ファステが叔母と暮らす家なら、いくつ入るだろう。
数えかけて、やめた。
「緊張している?」
案内してきた女性が尋ねる。
「少しだけ」
「昨日も同じことを言っていたね」
「昨日よりは、少し多いかもしれません」
「正直でよろしい」
門を通る。
中では、何人もの使用人が動いていた。
荷を抱えて裏手へ向かう者。
窓を開ける者。
籠いっぱいの布を運ぶ者。
忙しい時間なのだろう。
玄関近くの台には、届いたばかりらしい荷物が重ねられている。
奥から来た使用人が一つを避け、別の者も同じ荷物を避けて外へ出た。
通る場所へ置かれている。
どこへ運ぶ物か、まだ決まっていないのかもしれない。
廊下の先では、盆を持った女性が別の使用人に呼び止められていた。
盆には二つのカップが載っている。
もう湯気は見えなかった。
「ファステ」
名を呼ばれ、視線を戻す。
「勝手に見て、申し訳ありません」
「見るくらいは構わないよ。何か気になった?」
「皆さま、お忙しそうだと思いまして」
「だから人を探しているんだ」
案内役は扉の前で止まった。
家の奥へ続く、大きな扉だった。
「この先で、仕事の説明を受ける。条件を聞いてから、働くかどうか決めればいい」
「はい」
「昨日も言ったけれど、断って帰っても構わない」
叔母にも、同じことを言われた。
できなければ戻る。
できても嫌なら戻る。
決めるのは自分だと。
ファステは、扉の取っ手へ伸ばしかけた手を一度止めた。
今なら、まだ帰ることもできる。
朝の家へ戻り、叔母と二つのカップを出すこともできる。
その選択が残っていることを確かめてから、もう一度扉を見た。
知らない家。
知らない人たち。
自分より経験のある使用人もいる。
教わらなければならないことは多い。
それでも、通路に置かれた荷物をどこへ移せばよいか考えていた。
冷めた茶は、新しく淹れ直せるだろうか。
運ぶ布は、用途ごとに分けた方が扱いやすいかもしれない。
自分にできることがある。
そう思うと、緊張の中へ少しだけ楽しみが混ざった。
「働く意思はありますか」
案内役が、改めて尋ねた。
「はい」
生活のためだけではなかった。
ここで、自分の得意なことを役立ててみたい。
ファステは、自分の手で扉を開いた。
そして、自分で選んで、その家の中へ一歩入った。




