第38話 いつものミーティング
対バンライブ三日前。
狸狸亭の二階、いつものちゃぶ台に、いつものように四人で座っていた。烏龍茶の入ったグラスが、それぞれの前に並んでいる。変わらない光景のはずなのに、その日は部屋の空気だけが、どこかしんとしていた。
「じゃあ、当日の確認するね」
片桐さんがノートを開く。『明日も笑えるように』『ぽんぽんぺいん』『あっち向いてポン!』の三曲、十五分のステージ。衣装の最終確認、MCの流れ。僕が一つ一つ読み上げると、三人が順番に頷いていく。
手順はいつも通りだった。それでも、確認が一つ終わるたびに、誰かが本題を切り出すのを待っているような間ができた。
最後の項目を読み終えたところで、ふたばが口を開いた。
「この前、最後になるかもって言ったでしょ。あれ、ちゃんと決めたから」
両手をちゃぶ台に置いて、片桐さんと理沙を見て、それから僕を見た。
「対バンライブが終わったら、私、アイドル卒業する」
声は落ち着いていた。一度言葉にして、自分の中で何度も確かめてきたのが伝わってくる落ち着き方だった。
「子どもたちのこと、ちゃんと考えたいの。あの子たちといる時の自分が、一番自分らしい気がして」
それ以上は説明しなかった。理由なら、もう保育園の話を聞くたびに、僕たちの中に積もっていた。
「……ふたばちゃんらしいね」
片桐さんが、ふたばの手をそっと握る。
「うん。応援する」
理沙の言葉は短かったけれど、ふたばはそれで充分わかったらしく、目元を拭いながら笑った。
「最高のライブにしましょう。ふたばちゃんの、最後のステージなんだから」
僕がそう言うと、少しだけ考えてから付け加えた。
「それと……このライブ、ふたばちゃんの卒業ライブってことも、ちゃんと告知しませんか」
三人が、こちらを見た。
「ファンの人たちにも、最後の姿をちゃんと見届けてほしいんです。黙ってやめるより、その方がふたばちゃんらしいと思うので」
ふたばが、少しだけ目を見開いた。
「……いいの?私の都合で卒業なのに、わざわざ告知なんて」
「いいに決まってるよ」
片桐さんが、すぐに言った。
「ふたばちゃんを応援してくれてた人、たくさんいるもん。ちゃんと『ありがとう』を言える場にしよう」
理沙も静かに頷いた。
「中途半端に消えるより、その方が絶対いい」
ふたばは、しばらく俯いてから、顔を上げて笑った。
「……うん。じゃあ、告知してください。最後、いっぱい来てもらえるように」
「任せてください。SNS、明日にでも出します」
僕がそう答えると、ふたばの声がようやく少しだけ軽くなった。
提灯の灯りが、ゆらゆらと揺れている。階下から、誰かの注文を受けるマスターの低い声が、かすかに聞こえてきた。
その音にまぎれるように、理沙が口を開いた。
「……私も、考えてることがある」
片桐さんとふたばが、同時に顔を向ける。
「まだ決めてないよ。決めてないけど、なんとなく、ずっとここにいるとは限らないなって」
理沙はそれ以上は言わず、烏龍茶を一口飲んだ。ふたばのように行き先が見えているわけではない。ただ、自分の中で何かが動き始めている。そういう言い方だった。
「……そっか」
片桐さんが小さく呟く。寂しさを噛み殺したような声だった。
僕は何も言えずに、三人の横顔を順番に見ていた。
誰も声を荒げていない。誰かを責めてもいない。それなのに、四人がこうして同じちゃぶ台を囲める時間が、もう長く残っていないことだけは、全員がわかっていた。
「対バンライブ、全力でやろう」
片桐さんが顔を上げた。声に、わずかに震えが混じる。
「今の三人でしかできないステージにしよう。後で振り返っても、悔いが残らないやつ」
「うん」とふたばが頷き、「うん」と理沙も頷いた。
僕もノートを閉じて、できるだけいつも通りの調子で言った。
「じゃあ、明日からの練習、詰めていきましょう」
三人が笑った。泣き笑いに近い表情だったけれど、それでも、ちゃんと笑っていた。
ミーティングが終わると、ふたばと理沙が先に帰っていった。片桐さんと僕は、一階に降りて、カウンターに並んで座った。
「ねえ、清水くん」
片桐さんが、出された烏龍茶のグラスを両手で包みながら言う。
「ふたばのこと、引き止めないでいてくれて、ありがとう。卒業ライブのことも」
「マネージャーとして、当然のことをしただけです」
「ううん」
片桐さんは首を振った。
「清水くんだったから、ふたばも安心して言えたんだと思う」
返す言葉が見つからなくて、僕はただ頷いた。マスターが、カウンターの向こうから何も言わずにこちらを見ていた。
帰り道は、一人だった。
ふたばは地元へ帰る。理沙も、いつか自分の行き先を見つけて出ていくのかもしれない。そして片桐さんは……その先のことを、僕はまだ何も聞けていない。
それでも、これは悲しいだけの話ではないはずだった。三人がそれぞれ、自分の進む方向を見つけ始めている。ただ、その矢印が少しずつ、別々の方を向いているだけだ。
腹に手を当てて、軽く叩いてみる。
ぽん。
夜風が頬を撫でていった。見上げた空に月はなく、雲の隙間に星がいくつか散っているだけだった。
対バンライブまで、あと三日。
足音だけが、静かな夜道に残っていった。




