鳴澤斉希 前編
気がついたときには、自分の太陽は決まっていた。
鳴澤斉希は生まれたときから――否、生まれる前から自分の人生が決められていたと知ったとき、それを幸運だとしか思わなかった。
自分が主家である西條家の黎と出会ったのが、いつのことだったのかは覚えていない。物心ついたときにはそばにいて、ひとつ年上の彼とは兄弟のようにして一緒に育った。
年の近い少年同士となれば、もしかしたら年下の斉希は彼に対して、少しは対抗心や反発心を抱くのが普通だったのかもしれない。
だが、そんなものなど生じる余地もないほど、黎は幼い頃からひどく大人びた子どもだった。
大人たちの中にいるときは何ひとつわがままを言うこともなく、小さな体には不似合いなほど完璧な仕草で礼を取る。
そんな彼が、自分とふたりでいるときだけは、無邪気に笑ってごく普通の子どものような顔を見せてくれるのが嬉しかった。
子どもながらに、黎が大人たちの世界にいるときはひどく気を張っているのが伝わってきたし、そんなとき彼はいつもぐったりと疲れきっていた。
「れい? だいじょぶ?」
あるとき、大人たちの目を盗んできらきらとした広い空間から抜け出してきた黎が、斉希がひとりで遊んでいた子ども部屋にやってくるなり膝を抱えて蹲った。
心配になってその額に手を伸ばすと、少し冷たく感じる。
「ん……大丈夫、大丈夫」
斉希は黎の頬を両手で挟んで、その目をじーっと覗きこんだ。
「だいじょぶじゃないときに、だいじょぶは、だめ。ね?」
母親から常々「嘘をつくのはいけないことですよ」と教えられていた斉希は、彼女を真似て黎を叱った。
少し驚いた顔をした黎は、斉希の額にこつんと額をぶつけると、「ごめん」と笑う。
「うん。……ちょっと、疲れた」
「……あそこは、きらい。れい、いっつもつかれてる」
斉希がふくらませた頬を、黎は人差し指でつんつんとつつく。
「そんなこと、誰にも言ったらダメだよ。そのうち斉希も、僕と同じことをしなきゃならないんだよ?」
斉希は首を傾げた。
「れいと、おなじ?」
「そうだよ」
それがまるで自分のせいであるかのように、申し訳なさそうな顔をして言う黎に、斉希は笑う。
「れいとおなじなら、だいじょぶ。ぼく、へーき。ぼくがいるから、れいもだいじょぶ。ね?」
「……そっか。そうだね」
黎も笑って、斉希は嬉しくなった。
それからしばらくして、『黎と同じこと』をするよう教育係から厳しく躾けられたときには、こっそり「ぜんぜん、だいじょぶじゃなかった……」と泣き言を言いたくなった。
けれど、大人たちの待ち受けているきらきらした世界には黎がいたから、そこに入っていくことは全然怖くはなかった。
黎はいつだって斉希の一歩先を歩いていて、その背中に手を伸ばせばすぐに振り返って笑ってくれる。
斉希にとって黎は兄であると同時に親友であり、家族の誰よりも同じ時間を多く過ごした。
黎は幼い頃から、本当になんでもよくできる子どもだった。
しかし、性格がよく言えば大らか、悪く言えばかなり大雑把なところがあったから、ときどき斉希が「何やってんのーっ!?」と絶叫したくなるようなことも平気でしてくれたものだ。
他人の目のあるところではいつだって『西條家の後継者』として完璧に振る舞っているくせに、斉希が言ったことはどんな些細なことでも忘れたりしないくせに、彼はなぜか自分自身のことに関してはときどきぽこっと抜けていた。
黎が初等部三年の夏休み、毎日忙しそうにしていた彼が宿題をいつやっているんだろうと不思議に思っていたら、始業式の三日前になって「あ、忘れてた」と真顔で言うものだから、うっかり素でその額に手刀をぶちこんでしまったこともあった。
炭酸飲料をよく振ると中身が吹き出してくると聞いたときには、西條の広い屋敷中を炭酸飲料の缶を蹴りながら一巡りして、天井まで吹き上がった炭酸を頭から被ったりもしていた。
彼はとても好奇心が旺盛で、夜空を見上げて星を眺めるのが好きだった。
「知ってるか? 星がぴかぴか瞬いているのは、星が点滅しているわけじゃなくて、空のずーっと上の方の空気が揺れているからなんだぞ。だから星を見るってのは、風を見てるってことなんだ」
そんなことを、嬉しそうに声を弾ませて言っていた。
いつかボリビアのウユニ塩湖に行ってみたい、と笑っていた。もし上手く雨の通った夜に巡り会えたなら、きっと星空の中に立つことができるから。
……けれど、黎を取り巻く現実は、いつまでもそんな夢を見続けることを彼に許してはくれなかった。
黎の前にある道は、西條家の傘下にある多くの企業グループを支える人々の生活を、一生守り続けるためのもの。
いつか黎がその道をひとりで歩けるようになれば、もしかしたら少しは自由な時間を作り出すことができるかもしれない。
だが今はまだ、そんなことは許されない。
少しでも多くを学び、少しでも多くの人脈を築いて、少しでも多くの必要な経験を積むこと。
それが、今の黎に許されているすべてだった。
社会的にはまだまだ子どもとみなされる年齢であっても、『西條家の後継者』というステージに立った瞬間から、黎はすでに無邪気な子どもであることを演じていた。
いつでも穏やかに笑って、他人の言葉をよく聞き、自分の感情を抑えて――常に周囲のことを考えて間違いのない行動をするよう、『完璧な』自分自身を作り上げていた。
黎にとって学園生活は楽しむものではなく、あらゆる意味で学習の場だった。
どういった行動が、周囲の人間にどんな感情を喚起するものなのか。
どういった言葉で、周囲の人間が動くのか。
それらを学ぶのが、同年代の人間が集う学舎というものなのかもしれないけれど、意識的に学ぶか否かというのは大きな違いだ。
そんな黎が疲れた顔を見せるのは、斉希とふたりになったときだけだった。
それがわかっていたから、自分の背中に背中を預けてぼーっと部屋の床に足を投げ出した黎が「なんなんだ、あの将来若ハゲ確定の小物臭漂いまくりの豚野郎は。あんな自意識過剰のガキのくせしてぷんぷん香水くせえ痛女なんて誰も相手にしてねーよ、さっさと持ってけよむしろ持ってってくださいよあああぁああうぜええええぇえぇええええ……」と不気味にぼやき倒していても、黙ってそれをスルーしていた。
我ながら、黎に関してはかなり心が広いと思う。
そしてやはり、黎が一番消耗してしまうのは、きらきらとした大人の世界で過ごす時間だった。
幼い昔に、自分がいるから大丈夫、なんて軽々しく言ってしまったのを後悔してしまうほど、黎は常に大人たちの品定めする視線に晒されていた。
もしかしたら、黎がほんの幼い頃――自分の置かれている立場を自覚する以前に『西條家の後継者』としてほぼ完璧な振る舞いをすることができていなければ、こんなことにはなっていなかったかもしれない。
けれど彼はすでに、『西條家の完璧な後継者』という評価を得てしまった。
その評価は年を重ねるごとに、黎を縛りつける鎖となって太く重く絡みついてくる。
西條家の後継であるならばかくあるべきという期待――周囲の大人たちの幻想は、もし少しでも裏切ってしまったなら、それは即座に大きな失望と反感を生むだろう。
黎が応え続けてきた期待が大きければ大きいほど、きっと壮絶なまでの闇となって彼に襲いかかってくる。
周囲の人々は誰もが――西條家の家族でさえ、黎に『完璧』であることを求めていた。
黎がほかと同じようにひとりの子どもでしかないことなど考えもせず、自分たちの望む通りの姿を見せなければ許さないと、その期待に満ちた瞳で言っていた。
……いっそ黎に、そんな期待に応えられるだけの能力がなければよかったのに、と何度も思った。
おまえたちの期待なんて知らない、勝手にそんなものを自分に押しつけるな、と爆発することができていれば、黎がこんなふうに疲れてしまうこともなかっただろう。
なのに黎は、必死になって努力さえすれば彼らの期待に応えられるから――何より、周囲の期待を簡単に裏切ることなどできないほどに優しすぎるから、それができない。しようとしない。
幼い昔、大人たちの世界に足を踏み入れたとき、斉希は当然のように黎に縋った。
ひとつ年上の彼が「大丈夫だよ」と笑って導いてくれたから、臆することなくそこにいられた。
だから、周囲の大人たちも斉希が黎に甘えることをよしとしたし、いずれは黎を支える存在にならねばならない自分が彼を頼っていることも、まだ幼いゆえだと当然のように許された。
はじめての世界に戸惑う斉希を正しく導いている黎の姿に、周囲は一層彼を『完璧』だと讃えた。
だからこそ――斉希は、自分だけは絶対に黎に対して『完璧さ』なんてものを求めないと決めた。自ら『完璧』であることを己に課した黎にはできないことを、代わりに自分がやろうと決めた。
黎には自分に敵意を向けてくる者、浅ましい思惑を持って近づいてくる者に対してさえ、明確な敵意を持って対峙することは許されない。
愚かな者をまともに相手にすることは、それだけで黎にとっては傷となってしまうから。
けれど、斉希にはそれができる。
己が『完璧』にはなり得ないことなど端から知っているから、なる必要もないとわかっているから、黎が望んでもできないことを自分がする。
黎を傷つけようとする者は、徹底的に叩きのめす。気持ちの悪い作り笑いですり寄ってこようとする女たちは、その教養のなさを嘲笑って追い払う。
そんなことを繰り返していれば、無駄に敵を作ってしまうこともあった。
けれど、その矛先が自分であるならばいくらでも対処のしようがある。
醜い悪意を垂れ流すことに恥じることもない、口だけは達者な連中が何をどう騒いでいようと、そんな無価値なものに意味などない。
その分だけ黎にまとわりつくものが減ってくれるのなら、それでいい。
自分が男としてはいささか迫力に欠ける、中性的な容貌をしていることはわかっていたから、斉希は高等部に上がった頃から度の入っていないメタルフレームの眼鏡を掛けるようになった。
黎は「そこまですることもないだろう」と苦笑していたけれど、「おまえに言われたくはないな」と冷たく言うと、黙って引き下がった。
斉希がしていることも、それを斉希自身が望んで選んだことも、黎は知っている。
ただ、一度だけ――多分、黎にとっては最初で最後の問いを向けられたことがある。
後悔はしないか、と。
いつも通りに自分の背中に背中を預けたまま、まるで何かのついでのように告げられた問いに、斉希は笑った。
「するかもしれないな」
先のことなど、誰にもわからないのだから。
それでも。
「黎は、したいようにしろよ。……おれも、自分がしたいことをしてるだけだよ」
黎が『完璧』であろうとするなら、それを助ける。
黎が『完璧』であることをやめたとしても、自分だけはそばにいる。
誰に強制されたわけでもなく、自分の頭で考えてそう決めた。
そのことだけは――きっと、何があっても後悔しない。




