第10話 これはデートですか?
土曜日の午後、奈緒はダニエルの部屋でコーヒーを飲んでいた。
窓の外はよく晴れていて、十月に入ったばかりの空気が、開けた窓から少しだけ入り込んでいる。テーブルの上には奈緒が途中まで食べたクッキーの袋と、二人分のマグカップが並んでいた。
ルークはキッチンで洗い終えた食器を片づけている。食器の触れ合う規則正しい音を聞きながら、奈緒はスマートフォンを操作していたが、ふと思い出したように顔を上げた。
「ダニエル、明日は空いてる?」
「特に予定はないけど。どうした?」
ソファに座っていたダニエルは、手にしていたタブレットから目を上げた。
「じゃあ、映画を見に行かない? 前からちょっと気になってたのがあって」
「映画か、いいな。何時の回にする?」
「二時くらい。駅前の映画館なら、そのあと適当にご飯も食べられるし」
「じゃあ、その予定で行こう。上映時間が決まったら教えてくれ」
話はそれで決まり、奈緒が上映時間を確認し始めると、キッチンから食器棚を閉じる音がした。ルークが二人のところへ戻ってくる。
「確認があります。明日は奈緒様とご主人様のお二人で映画を鑑賞され、そのあと食事もされる予定ですか?」
奈緒はスマートフォンをテーブルへ置いた。
「まだ店は決めてないけど、そのつもり」
「承知しました」
ルークは一度黙った。その沈黙が少し長かったので、ダニエルが顔を上げる。
「まだ何かあるのか?」
「確認ですが、それはデートですか?」
「違う。ただ映画を見て、飯を食うだけだ」
返事にはほとんど間がなかった。奈緒は何も言わず、代わりに少しだけ笑ってダニエルを見る。
ルークの視線が奈緒へ移った。
「奈緒様は否定されませんでした」
「そうだね」
ダニエルは思わず奈緒を見た。奈緒は平然としている。
「……そこは否定しないのか」
「しないと駄目?」
「いや、駄目とは言ってないけど……」
そこで言葉が止まった。もう一度「ただ映画を見て飯を食うだけだ」と言えば、今度は自分だけが必死に否定しているように聞こえる。ダニエルは続きを諦め、マグカップへ手を伸ばした。
「確認した条件を整理します。私的な外出、お二人のみ、映画鑑賞と食事」
「……予定はそのとおりだけど、さっきから何を確認してるんだ?」
「一般的な分類では、デートに該当する可能性があります」
「分類するな」
「分類しなければ判断できません」
「別に判断しなくていいだろ」
ルークは納得していないようだったが、それ以上は言わなかった。奈緒がテーブルに頬杖をつく。
「ルークちゃんも来る?」
「いいえ」
即答に、奈緒が少し意外そうな顔をした。
「奈緒様からご主人様へのお誘いです。私が同行する理由はありません」
「遠慮しなくていいのに」
「お二人の関係が良好になることにも問題はありません」
奈緒は一瞬だけ目を丸くしたあと、笑った。
「意外と応援してくれるんだね」
「応援という表現が適切かは判断できませんが、阻害する理由もありません」
「そこまで真面目に考えなくていいよ」
ルークは奈緒の言葉を処理するように少し黙り、それからダニエルへ視線を戻した。
「ご帰宅予定は何時頃ですか?」
「九時くらいには戻ると思う。映画は駅前で、飯はその辺で決めるつもりだから」
「承知しました。帰宅予定が変更された場合は、ご連絡をお願いします」
ダニエルが眉を寄せる。
「何でそこまで確認するんだよ。出張に行くんじゃないんだぞ」
「認識しています。予定把握です」
ダニエルは少しだけ怪訝な顔をしたものの、それ以上は追及しなかった。奈緒も特に気にした様子はなく、スマートフォンへ目を戻す。
「せっかくだし、駅で待ち合わせにしよ」
「同じ建物なのにか?」
「そういうものなの」
「……分かったよ」
ルークはそのやり取りを黙って聞いていた。
◇
翌日の午後一時四十分。
ダニエルは駅前の時計台の下で奈緒を待っていた。休日らしく人通りが多く、家族連れや学生の集団が改札から次々と出てきて、その間を買い物袋を提げた人たちが抜けていく。
「待った?」
声のした方を見ると、奈緒が人混みの向こうから歩いてきた。肩にかかるダークブラウンの髪を下ろし、薄手のジャケットにスカートという、普段より少しだけ外出向けの格好だった。
「五分くらい」
「待ってるじゃん」
「五分は待ったうちに入らない」
「そういう基準なんだ」
奈緒は笑いながら隣へ並び、二人で映画館へ向かった。
日曜日のシネマコンプレックスは混んでいた。チケットを発券し、売店の列に並ぶと、奈緒がポップコーンのメニューを見上げる。
「塩とキャラメル、どっちがいい?」
「俺は塩かな。奈緒は?」
「私はキャラメル。あ、半分ずつ入ってるのもあるよ」
「そういうのがあるなら先に言えよ」
結局、半分ずつ入った大きな箱を一つ買った。
上映が始まれば会話は止まり、そのまま二時間ほど映画を見る。内容は、地球外探査隊が遭難した惑星から脱出するというSF映画だった。映像は派手だったが、ダニエルは途中から、劇中に出てくる自律作業機械の挙動がどうにも気になっていた。
映画館を出ると、奈緒がすぐに聞いた。
「途中で三回くらい変な顔してたけど、何?」
「作業ロボットのアーム。負荷がかかってるのに、あの角度で保持できるわけないだろ」
「そこ? 普通の人はそこ見てないよ」
「見えちまうんだから仕方ないだろ」
「ルークちゃんと見に来たら、二人でずっと文句言ってそう」
「……否定はできねえな」
夕食にはまだ少し早かったので、二人は駅前の商業施設を適当に見て回った。特に目的もなく本屋へ入り、奈緒が雑貨店へ寄り、ダニエルが家電量販店の前で足を止める。
「見る?」
「買うものはないけど……ちょっとだけ。見るだけな」
「いいよ。ルークちゃんが喜びそうなのあるかもね」
十分ほど家電売り場を回ったところで、奈緒が腕時計を見る。
「そろそろご飯にする?」
「そうだな」
二人が選んだのは、駅から少し離れた洋食店だった。日曜日の夕方で店内はそこそこ混んでいたが、奥の二人掛けの席が空いていた。
注文を終えて店員が離れると、奈緒は水のグラスを持ち上げながら、しばらくダニエルを見ていた。
「今日さ、ダニエルはデートだと思ってる?」
ダニエルの手が止まった。
「お前まで始めるなよ。……昨日も言っただろ。映画を見て、飯を食いに来ただけだって」
「それ、デートの説明にも使えるよ」
「……そういう言い方すんなよ」
「でも、間違ってないでしょ」
奈緒は笑って水を飲んだ。ダニエルは反論しかけたが、ちょうど料理が運ばれてきたので口を閉じた。奈緒もそれ以上は追及せず、話題は映画の内容へ戻り、途中から横須賀の基地公開の話になった。
「そういえば、あの小さいロボット、本当に六台全部ルークちゃんが動かしてたんだよね」
「ああ。俺が一台ずつ動かしてたら、肝心の仕事ができなくなるからな」
「今でも反射で動かしちゃうくらいなんだね。ダニエルもすぐ気づいてたし」
「あいつが動いた瞬間に分かった」
「……やっぱり、ルークちゃんとは長い付き合いなんだね」
奈緒はそう言って、料理へ視線を落とした。ダニエルもフォークを持つ手を止めた。
「……まあ、長いな」
それ以上は二人とも何も言わなかった。
◇
同じ頃、ダニエルの部屋では掃除機の音が止まった。
ルークは床面を確認してから掃除機を所定の位置へ戻し、リビングの時計へ視線を向けた。午後六時二十二分だった。
そのまま洗濯物を取り込み、シャツとタオルを畳んで収納する。もう一度時計を見ると、午後六時五十一分になっていた。
キッチンへ移り、朝から残っていたカップを洗う。食器棚へ戻したあと、冷蔵庫の中身を確認して扉を閉じる。午後七時十三分。
テーブルを端まで拭き終え、表面を確認する。汚れは残っていなかったが、ルークは布巾を畳み直し、もう一度テーブルを拭いた。午後七時三十七分。
ゴミ箱の中身を確認する。まだ交換の必要はない。午後八時四分。
室温を確認し、エアコンの設定を一度だけ下げる。午後八時三十一分。
ルークはソファの横に立ち、時計を見る。午後八時四十八分。
特にすることは残っていなかった。キッチンへ戻ったルークは先ほど拭いたテーブルを見て、それからもう一度時計へ視線を向ける。午後八時五十六分だった。
九時ちょうどになると、ルークは現在の身体に備わった通信機能を使い、ダニエルのスマートフォンへメッセージを送った。
『ご帰宅予定時刻に変更はありますか、ご主人様』
返信は一分ほどで届いた。
『少し遅れる。十時前には帰る』
『承知しました』
ルークはそれ以上、何も送らなかった。
◇
「ルークちゃん?」
奈緒が尋ねると、ダニエルはスマートフォンをポケットへ戻した。
「帰宅予定が変わったかって聞かれた。十時前には戻るって返したよ」
「九時って言ってたもんね」
「一時間くらい誤差だろ。あいつ、時間に細けえんだよ」
食事を終えてからも二人は話し込んでいて、店を出る頃には九時を少し回っていた。駅へ向かって歩く二人の周囲は、夜になって人通りが少し減っていたが、飲食店の並ぶ通りにはまだ看板の明かりが残っている。
奈緒は少し考えるように前を見た。
「ルークちゃん、帰りが遅いの心配してるのかな」
「十時前には帰るって送ったし、そんな遅い時間でもないだろ」
「遅いかどうかじゃなくてさ。ルークちゃん、ダニエルの帰りを待ってるんじゃない?」
奈緒はそれ以上言わず、二人はそのまま歩いて帰った。
◇
ダニエルの部屋へ戻ったのは、九時四十七分だった。奈緒は「ルークちゃんにも、ただいまって言っとく」と言って、そのままダニエルの部屋までついてきた。
玄関を開けると、ルークがリビングから出てくる。
「お帰りなさいませ、ご主人様。奈緒様」
玄関で待っていたわけではなかった。
「ただいま」
「ルークちゃん、ただいま」
奈緒が靴を脱ぐ。ルークは二人が室内へ入るのを待ってから、いつもの調子で続けた。
「当初のご帰宅予定より四十七分遅れています」
ダニエルが振り返る。
「十時前には帰るって連絡しただろ」
「変更後の予定には収まっています」
「じゃあ何で最初の時間まで覚えてんだよ」
「当初の予定との時間差をご報告しただけです」
「お前、ほんと面倒くさい奴だな」
ダニエルはそれ以上言わず、上着を脱いだ。奈緒も何も言わず、ルークを少しだけ長く見ていた。
「奈緒、コーヒー飲む?」
「ううん。今日はもういいかな」
「じゃあ、今日はありがとな」
「その前に一個だけ」
奈緒はそう言って、ルークへ向き直る。
「ルークちゃん」
「はい」
「ダニエルが私と出かけるの、気になってた?」
ダニエルが上着を掛ける手を止めた。ルークは奈緒を見る。
「いいえ。お二人の外出を妨害する意図はありません」
「それは分かってる」
「奈緒様とご主人様の関係が良好であることにも問題はありません」
「それも分かってるんだけど」
奈緒は少し考え、言葉を選ぶように間を置いた。
「でも、それってちょっと嫉妬に近くない?」
ルークはすぐには答えず、ダニエルも黙って二人を見ていた。
「嫉妬ですか?」
「うん」
「私は、お二人の外出を中止してほしいとは思いませんでした」
「うん。でも、私が聞きたいのはそこじゃないんだ」
奈緒は笑ったが、茶化すような笑いではなかった。
「ダニエルが私と出かけるのは嫌じゃない。でも、何時に帰ってくるかは気になるし、予定の時間になったら連絡して確かめたくなる。そういうの」
ルークは奈緒を見たまま動かなかった。
「嫉妬って、相手の邪魔をすることだけじゃないよ」
そこでダニエルが口を挟んだ。
「別に、無理に名前をつけなくてもいいだろ」
奈緒が振り返る。
「今、ルークちゃんに聞いてるの。一回だけ黙ってて」
「……分かったよ」
ダニエルは苦笑しながらソファへ座った。ルークはしばらく考えてから、ゆっくり口を開く。
「判断できません。ご主人様の帰宅予定が気になったことは事実です。しかし、奈緒様との外出を不快とは判断していません」
「それなら、今すぐ決めなくてもいいんじゃない?」
ルークは数秒沈黙した。
「では、未分類として保留します」
ダニエルがソファの背にもたれる。
「お前、保留案件増えてないか。前の保留もまだ残ってるだろ」
「整理は進めています」
奈緒が小さく笑った。
「何を笑ってるんだよ」
「二人って、こういう感じなんだなと思って」
「今さら? ずっとこんなだろ」
「今日、改めて分かったの」
奈緒は軽く伸びをした。
「じゃあ、私はそろそろ帰るね」
「せっかく誘ってくれたんだ。帰りくらい見送らせてくれよ」
「すぐそこだからいいって」
「近いのは分かってる。エレベーターまでは送るよ」
「じゃあ、お願い」
ダニエルが立ち上がり、玄関へ向かいかけたところで、ルークが声をかけた。
「なお、本日のご主人様と奈緒様の外出については、デートとして分類して問題ないと判断します」
ダニエルが足を止める。
「そっちは保留しろ」
奈緒は否定せず、その横で笑っていた。




