↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/10

第六章 コルセット事件

 第一演習場に漂う空気は、もはや武闘大会のそれではなく、超一流レストランのグランメゾン、あるいは怒濤のフードバトル会場の熱気そのものであった。炎、水、召喚、氷——。 学内屈指の実力者たちが繰り出す強力な魔法を、完璧なマナーと圧倒的な胃袋で次々と平らげてきたリゼット・アストリア。 観客席の生徒たちは、もはや彼女の勝利を疑う者などおらず、ただただ「今日はどれほどのフルコースが完成するのか」という奇妙な期待と狂熱に包まれていた。「す、すごすぎる……!もう何人目の実力者が撃破されたんだ!?」「撃破っていうか、完食だろ! 全部ごちそうさまされてるぞ!」だが——。 当のリゼット本人の身体には、密かに「重大な危機」が押し寄せていた。



(あ……あぁ……っ!)



 可憐な姿勢を保ち、表面上は優雅な微笑みを浮かべているリゼットであったが、その内情は極めて切迫していた。いくら彼女の固有能力『ひとときの食卓』と特別な消化膜が、迫り来る高密度の魔法エネルギーを「極上の料理」へと変換し、即座に消化・吸収できるとはいえ、短時間での連戦である。物理的な質量こそ変換されているものの、体内に満ち満ちた膨大な魔力の「満腹感」は、確実に彼女の華奢な肉体を圧迫していた。(お腹が……お腹がパンパンですわ……っ!まさに満漢全席を一人で平らげた後のような、幸せで苦しい満腹感……!)ぐぅ、と小さく重い音が、彼女の可憐な腹腔から響く。息を吸うたびに、細い腰を締め上げる上質なシルクと骨組みが、悲鳴を上げるように肉体を圧迫してくる。そう——十九世紀貴族の淑女にとって最も重要であり、同時に最も残酷な装飾品。『コルセット』である。(くっ……苦しいですの……!このままでは、美味しいデザートや食後のお茶を味わうどころか、息絶えてしまいますわ……!)リゼットの可憐な額に、一筋の清らかな汗がつつと伝落ちた。彼女の手が、そっと自分の背中——ドレスの下で極限まで締め上げられている紐へと伸びかける。



その瞬間。



「お、お嬢様ァァァァァッ!!??」



 背後から、これまで聞いたこともないような悲痛で狼狽した老執事アルベールの絶叫が響き渡った。アルベールは燕尾服の裾を激しく翻し、まさに鬼の形相でリゼットの傍らへと滑り込んできた。その顔は、先ほど三十人の暗殺者を三分で撃滅した時とは比べものにならないほど蒼白になり、滝のような冷や汗を流している。「お、お止めくださいませお嬢様! 何をなさろうとしているのですか!正気にお戻りくださいませ!!」「爺……!ですが、もう限界ですの……!苦しくて息が……!」「なりませぬ!断じてなりませぬぞ!!」アルベールはガタガタと全身を震わせ、胸に手を当てて懇願した。「貴族の令嬢が……公爵家の筆頭令嬢たるお方が、人前で……ましてやこのような演習場の真ん中で『ドレスのコルセットを緩める』など……!!そのような社交界の禁忌(タブー)を犯してしまえば、アストリア公爵家の名誉は地に堕ち、それこそ本当にお嫁にいけなくなってしまいますぞ!!」「そんなこと言っていられませんわぁぁ!苦しいものは苦しいのですもの!背中の紐を……ほんの数ミリ……数ミリ緩めるだけでよろしくてよ!!」「だめですお嬢様!数ミリの妥協が、やがて大食いタレントのような怠惰を生むのです!わたくしアルベール、お嬢様の名誉とお姿の美しさをお守りするためなら、この命に代えてもお止めいたします!!」「爺の分からず屋!わたくしのこの苦しみが分からないのですかーッ!?」涙目で自分の背中に手を回そうとする美少女と、それを全身全霊でブロックしようとする老執事。二人が演習場の中央で繰り広げる、泥沼の「コルセット死守攻防戦」。観客席の生徒たちは、突然始まった謎の寸劇に開いた口が塞がらなかった。「な……なんだ……?何が起きているんだ……!?」 「食い過ぎて腹が苦しいからコルセット緩めようとして、執事に全力で止められてる……のか……!?」「貴族の威厳とかマナーってレベルの話じゃねえだろ!!」主従が熾烈な押し問答を繰り広げているその時。「ハッハッハ!どうしたアストリアの落ちこぼれ!急な体調不良か、あるいは私のプレッシャーに恐れをなしたか!?」演習場の対角線上に立っていたのは、学院の「暗黒魔導科」の頂点に君臨する男、黒魔導師ヴァルツ・フォン・グラウサムであった。彼は禍々しい骨の杖を掲げ、全身から溢れ出る邪悪な黒銀の魔力を滾らせていた。「他の連中はお前の奇妙な術に後覚を取ったようだが……私の魔法は次元が違う! 古代の禁書より紐解きし、数多の犠牲の上に完成させた呪われし禁呪!一口で食えるものなら食ってみるがいい!!」ヴァルツが骨の杖を地面に突き立てると、演習場全体が激しく揺れ動いた。 空が暗雲に覆われ、不吉な紫色の雷鳴が轟く。「生贄の血を求めよ、漆黒の虚無! 全てを呑み込み、滅びの渦へと誘え——禁呪『アビス・デストラクション』!!!」



ゴオオオオオオオオオッ!!!!!



 空中に開いた巨大な穴から放たれたのは、物質も魔力も関係なく破砕し呑み込む、超高密度の黒ホール状の質量兵器であった。その威力はこれまでの魔法とは画を画すものであり、触れた地面が一瞬で消失し、絶対的な「虚無」の圧力がリゼットたちを押し潰さんと迫る。「ひいっ!禁呪だ!本当に禁呪を使いやがった!」「あんなもの、飲み込めるわけがない! 触れた瞬間に胃袋ごと消滅するぞ!!」絶叫する観客たち。 迫り来る「アビス・デストラクション」の圧倒的な破壊力。



だが——。



 激しいコルセット攻防戦を繰り広げていたリゼットの動きが、ピタリと止まった。彼女はゆっくりと首を巡らせ、迫り来る黒い虚無の渦を見つめた。その瞬間。彼女のエメラルドグリーンの瞳に、これまでにないほどのメラメラとした圧倒的な輝きが宿った。「あ……あぁ……っ!」リゼットの口から、感嘆の吐息が漏れる。満腹で苦しんでいたはずの彼女の目には、その漆黒の禁呪が——まるで「極上の苦みと濃厚なコクを持つ、最高級トリュフをたっぷり使った超濃厚フォンダンショコラ」のように映っていたのだ。「お……お嬢様……?いけません、あのような禍々しい魔力……いくらお嬢様でも満腹の状態で召し上がっては……!」焦るアルベールに対し、リゼットは静かに、そして力強く言い放った。「……爺」「は、はいっ!?」「……あれは別腹ですわ」「別腹ァァァァァッ!!??」アルベールが魂の底から絶叫した。「お、お嬢様!?別腹とは何ですか別腹とは!あれは甘味でもデザートでもなく、古代の邪悪な禁呪でございますぞ!?」「いいえ爺!あの濃厚でビターな魔力の輝き……!間違いなく、お食事の最後にいただく至高の濃厚スイーツですわ!あれを残すなんて……料理人に恥をかかせろと言うのですか!!?」ビシッ!と、圧倒的な迫力でヴァルツを指差すリゼット。その瞳に宿る「食への絶対的な執着」と「お嬢様としての威圧感」に、あの絶対無敵の老執事アルベールすらも、「ひ、ひぇっ……!」と気圧されて一歩後退した。「り、料理人に恥を……?い、いいえ、わたくしはお嬢様の健康とマナーを……!」 「お退きなさい爺!わたくしは……あのフォンダンショコラ(禁呪)をいただくまで、絶対に諦めませんわぁぁぁっ!!」リゼットは苦しいコルセットの締め付けすらも「別腹」の情熱でねじ伏せると、両手を大きく広げて、迫り来る黒い虚無の渦——『アビス・デストラクション』へと自ら猛ダッシュで飛び込んでいった。「な……なんだあいつはぁぁぁっ!?」叫ぶヴァルツの目の前で、リゼットの手元に巨大な銀のスプーンが現れる。効果音:ズズズズズズズズッ……!!超高密度の破壊エネルギーである禁呪が、彼女が開いた小さな口へと、吸い込まれるように集中していく。「あぁぁ……!この濃厚な苦み……!口の中で広がる芳醇なカカオのような深いコク……! 温かいチョコがトロリと溢れ出してまいりますわ……っ♪」パクッ!モグモグ……ごっくん♪文字通り、城一つを灰にするはずの古代の禁呪が、彼女の口の中で「とろける濃厚スイーツ」として完璧に味わわれ、綺麗に完食された。ごっくん、と飲み込んだ後、リゼットはうっとりと自分の頬を手で包み込み、最高の笑顔を咲かせた。「ごちそうさまでした!最高の別腹スイーツでしたわ、料理人様!」



その瞬間——。



 「俺、料理人じゃなくて敵なんだけど!!!!!」ヴァルツの血を吐くような叫びが、秋空に高く高く響き渡った。ヴァルツは骨の杖を放り出し、髪を掻き抱いて激しくツッコミを入れた。「何が別腹だ! 何がフォンダンショコラだ!!俺は暗黒魔導科のヴァルツだぞ!?お前を呪い殺すために三日三晩不眠不休で陣を描いて禁呪を準備したんだぞ!? なんで『食後のデザート』扱いなんだよ!!なんで美味しく召し上がってんだよ!!」「まあ、ヴァルツ様。お料理に対するその情熱、本当に素晴らしかったですわ」リゼットは上品に口元を拭いながら、うっとりと語りかける。「ですが、次回はぜひ……もう少し甘みを抑えた、ビターなスフレ仕立てにしていただけると、さらに私好みですわ」「次回作の注文までつけるなァァァァァッ!!」ヴァルツは血吐くような叫びを残し、精神的衝撃と魔力切れのダブルパンチにより、泡を吹いてその場に卒倒したのだった。



「勝者……リゼット・アストリア……!」



 審判の声が虚しく響き渡る。演習場はもはや歓声すら起こらず、ただただ「禁呪すら別腹で平らげた」という圧倒的な事実に対する、深い畏怖と感動に包まれていた。「見たか……禁呪だぞ……」「別腹って言えば何でも食えるのかあいつは……」「アストリア家のお嬢様、底が知れねえ……!」倒れたヴァルツをよそに、リゼットは満足そうにお腹をさすっていた。 不思議なことに、あれほど苦しかったコルセットの締め付けも、別腹スイーツを完食したことで爽快な充足感へと変わり、気にならなくなっていた。「ふぅ……美味しかったでございますわね、爺」リゼットが振り返ると、そこには深く深く首を垂れ、魂が抜けたような顔をしている老執事アルベールの姿があった。「……お嬢様」「なぁに、爺?」「……わたくしの負けでございます」アルベールは静かに胸に手を当て、力なく微笑んだ。「お嬢様の『食』に対するあまりにも高潔で強固な情熱(執着)の前に、わたくしの浅はかなマナー論など、微風に過ぎませんでした。お嬢様が幸福であれば……たとえコルセットが弾け飛ぼうとも、わたくしはお供いたします」「まあ!弾け飛んでは困りますけれど……理解していただけて嬉しいですわ!」嬉しそうに微笑むリゼット。アルベールは手元の通信魔導具を取り出すと、静かな声で本邸の厨房へと連絡を入れた。「……あ、厨房か。わたくしだ。お嬢様が間もなくお戻りになる。……ああ、今日の勝利の宴の準備だ。メニューは……そうだな、お嬢様の『別腹』をさらに満たす、特製の口直し用ハーブティーと、極上のライトなフルーツタルトを用意しろ」電話を切ると、アルベールは完璧な執事の笑顔を取り戻し、リゼットに向かって深々と一礼した。「さあ、お嬢様。本日の第一演習場(バイキング)はこれにて一区切りでございます。お屋敷で温かいお茶をご用意しておりますよ」「まあ! 素敵! 急いでお帰りになりましょう、爺!」可憐にドレスの裾を持ち上げ、軽やかな足取りで演習場を後にするリゼット・アストリア。その背中を見送りながら、全校生徒と講師たちは確信していた。 この学院において、彼女の胃袋を満足させられる者など存在しないこと。 そして、彼女が歩む道のりには、これからもあまたの「魔法(ごちそう)」と「災難(ツッコミ)」が待ち受けているということを——。——お嬢様の至高にして暴虐なる美食の日々は、これからも永遠に続いていくのであった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。