1.二度目の人生
卒業式の朝、春の日差しが白い塔を照らしていた。
その日の王立学院はいつもの厳かな学び舎ではなく、祝祭の場となっていた。正門から続く並木道には学院の紋章が描かれた旗が掲げられ、青と銀の横断幕が風にはためいていた。
中庭は生徒たちで溢れていた。あちこちから笑い声が聞こえた。卒業生の誰もが、輝かしい未来へ進もうとしていた。
ソフィア・グレアムは、いつものように取り巻きに囲まれ、輪の中心にいた。
深紅のドレスに金の刺繍、首にはグレアム伯爵家に代々受け継がれたルビーのネックレス。その佇まいに、誰もが視線を向けた。
王立学院で過ごした三年間、ずっとそうであった。
婚約者のカール・シュルトが近づいてきたのは、式典が終わり、祝賀の茶会が終盤に差し掛かった頃のことだった。
亜麻色の髪に整った顔立ち。シュルト伯爵家の次男ながら、野心は長男に勝る。
ソフィアはカールの性格を、ある意味で気に入っていた。婿養子など、出世欲の強い者でなければ務まらない。
「ソフィア」
カールは周囲に聞こえない声量で言った。低い声だった。
「話がある」
ソフィアに目を合わせず視線を逸らすカール。その顔を見た瞬間、ソフィアの本能が警鐘を鳴らした。
ソフィアは愛想笑いを浮かべ、声が上ずらないように言った。
「何かしら」
「婚約を、解消させてほしい」
カールの声量は大きくなかったが、周囲の生徒を黙らせるには充分であった。
**
その日の夜、ソフィアは寝室の鏡の前に座っていた。
婚約破棄の件を聞いた父は怒り狂ったが、その父は酒に酔いつぶれて寝ていた。屋敷全体が静寂に包まれていた。まるで、腫れ物に触るような静けさだった。
ソフィアは鏡の中の自分を見つめた。
青色の目は何の感情も映していなかった。白い肌に、金色の髪が光っていた。
綻びのない美しさ。完璧な伯爵令嬢。ソフィアはそう思っていた。
「婿養子が、婚約破棄」
声に出すと、より滑稽だった。
グレアム伯爵家に婿として入る立場の男が、伯爵令嬢との婚約を破棄した。前代未聞だ。明日には王都中に噂が広まるだろう。
高慢なグレアム嬢が婿養子に捨てられた、と国中の笑いものになる。
「婚約破棄を受け入れなければ、君を告発する」と、カールはソフィアの悪事を綴った書類を持参していた。
カールは婚約破棄の理由を言わなかった。言わなくても、ソフィアにはわかった。
ミシェル・カラン侯爵令嬢。カールはミシェルと婚約するのだろう。
伯爵よりも侯爵の方が格上。カールのような男には、婚約破棄をする充分な理由である。
そしてメアリー・ホルム子爵令嬢。カールの持参した書類には、メアリーしか知らない事実が描いてあった。
メアリーは三年間、ソフィアの隣に侍り、笑い、頷き続けた。ソフィアが誰かを退学させるとき、一番熱心に加勢したのはメアリーだった。
そのメアリーが、カールに情報を流した。
恐喝のこと。気に入らない令嬢の実家を破産させたこと。表に出ないように、ソフィアは父の名を使って握り潰したはずだった。カールの書類が明るみに出れば、王都中の貴族からソフィアへの、グレアム伯爵家への非難が湧き起こるだろう。
鏡を見つめながら、ソフィアはため息をついた。
どこで間違えたのか? いや、正確には、どこで対処すべきだったのか。
メアリーが裏切ったのはいつか?
昨年の秋、ローレン男爵令嬢を退学させようとしたら、メアリーが難色を示したことがあった。あのとき、ソフィアはメアリーの反応を気にもしなかった。
メアリーが裏切る兆しだと気づかなかった。あのとき、メアリーを切り離すべきだった。
カールが婚約破棄に向けて動き出したのはいつか?
ミシェル・カランが学院に編入してきた春だろう。あのとき、ソフィアはカールの視線が侯爵令嬢に向くのを見た。見て、大したことではないと判断した。それが甘かった。
野心家の婿養子を侮っていた。潰しておくべきだった。
ソフィアの脳裏は後悔で溢れていた。先手を打つべきだった。
裏切られる前に、切り捨てるべきだった。陥れられる前に、陥れるべきだった。婚約を破棄される前に、こちらから破棄すべきだった。
「やり直したいか?」
長いため息をついたら、声がした。
ソフィアの声ではないし、侍女の声でもない。それは鏡の中から聞こえた。
鏡の中の自分を見た。
ソフィアの目の奥に、光が宿っているようだった。
「やり直したいか?」
もう一度、その声は繰り返した。
ソフィアは鏡に映った自分を睨みつけると、強い意志を込めて答えた。
「ええ、当然でしょ」
すると、鏡が光った。氷のような、青い冷たい光だった。
それがソフィアの視界を覆うと、意識がなくなった。
**
ソフィアが目を開けると、寝室の鏡の前にいた。
同じ寝室。同じ鏡。だが何かが違った。
ソフィアは鏡の中の自分を注意深く観察した。
髪飾りが目に入った瞬間、ソフィアの手が止まった。それは三年前、一時期だけ流行った羽根の髪飾りだった。流行遅れになった今は、誰もその髪飾りを身に着けない。今は……。
ソフィアはゆっくりと立ち上がり、窓の外を見た。中庭の木に葉があった。春の初めの、新緑の葉だった。卒業式の頃には、まだ葉は生えていなかった。
引き出しから日記を取り出した。最後のページをめくると、三年前の日付だった。
ソフィアは静かに息を吐き出した。
声を出して笑うのは品がない。だから口角だけを上げた。
三年の時間が戻ってきた。
何をすべきか――ソフィアは頭の中で三年間の手順を組み立てた。
まず、メアリー。この時点ではソフィアを裏切っていないが、裏切る人間を近くに置く必要はない。しかし、使える手駒を早々に始末するのは早計だ。
秘匿したい事実に触れさせず、使える間は使い倒す。そして、メアリーが裏切る前に、先に息の根を止める。
次に、カール。あの野心家の男を縛り付けるか……あるいは、別の男を婿養子にするか。答えは後者だろう。ソフィアに恥をかかせたカールには、それ以上の屈辱を与えることにする。
ソフィアは鏡の前の自分を見た。
前の人生は甘すぎた。小者が裏切るはずがない、婿養子が婚約破棄をするはずがない。ソフィアの過信が失敗を招いたのだ。
見逃した小さな反抗、聞き流した陰口、泳がせすぎた危険な駒。それらが積み重なって、卒業式の日の破滅を生んだ。
今回は違う。全てを疑う。笑顔の裏を読み、好意の奥の打算を探り、忠誠を誓う者の心の底を測り続ける。誰一人、本当には信じない。全員を駒として扱い、不要になれば切り捨て、危険になれば潰す。
それがこの世界の正しい歩き方だ。
二度目の人生は間違えない。
髪をかき上げると、鏡の中の自分が同じ動作をした。
金色の髪、青色の目、整った顔立ち。隙のない完璧な令嬢。
ソフィア・グレアムの二度目の人生が、今日から始まる。




