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四十番:山田十和子

幼馴染に逆らえない少女の話。

四歳のとき、お父さんの転勤で引っ越してきた先が、宗像家の隣だった。

新居ならではの白い壁やワックスのかかったフローリングというのは、清潔感もあって見目は良かったけど、そこから薄っすら漂う臭気が嫌で、挨拶回りに出かけるお母さんの後について行くことにした。

そこで初めて、宗像君と出会った。

「や、山田(やまだ)十和子(とわこ)……です」

当時から極度の人見知りだった私は、お母さんの後ろから少しだけ顔を出し、苦心の思いで言葉を紡ぎ出した。

顔に薄くファンデーションを塗り、ベージュの口紅を纏った唇で弧を描いた隣人の奥さんは「可愛らしいお子さんですね」と微笑んで、隣に立っていた、私と同い年くらいの男の子にも挨拶を促した。

宗像(むなかた)伊佐武(いさむ)

ブスッと不機嫌そうに名乗った少年は、まるで珍獣でも見ているかのように、頭の天辺から爪先まで私達親子を観察していた。

眦の吊り上がった目つきが怖くて、宗像君と目が合うと即座にお母さんの背中に隠れてしまったけど、帽子の鍔を後頭部に回し、頬や手足に幾つも絆創膏を貼っていた姿は、瞼の奥に焼きついた。いかにも活発そうな見た目から、宗像君に対する第一印象は“怖そうな男の子”だった。

引っ越した翌日から、宗像君は山田家を訪ねに来ては、私を外へと引っ張り出した。第一印象に間違いがなかったことを確信するのに、丸一日とかからなかった。

そんな幼少の頃から、私は宗像君の言いなりだった。小さいうちは「あれ買ってこい」とか「あいつを呼んでこい」といったもので済んでいたけれど、小学校に入ってからは宿題なども押し付けられるようになった。問題を間違えれば怒鳴り散らされるのは目に見えていたので、必死に勉強した。

小学五年生のとき、友達がそんな私を見かねて一度、宗像君に抗議したことがある。

「宗像は山田のことが好きなんだよ」

宗像君が口を開く前に、彼と仲の良かった小沢(おざわ)君がそう揶揄った。

「違うっての。山田は俺の奴隷なんだよ」

宗像君は小馬鹿にしたように軽い口調で周りに言い聞かせた。

分かってはいたけれど、言葉にされるとさすがに胸が痛んだ。……それでも私は反論できなかった。

ろくに文句一つ言えない私に呆れたのか、仲の良かった女友達は次第に私を遠巻きに見るようになった。

このことが原因かは分からないけど、どうやら宗像君の逆鱗に触れたらしい小沢君は、私をはじめとする一部の同級生達と同じ扱いを受けることとなった。

中学生になっても、私達の間柄は変わらなかった。宿題を押し付けられることはさすがに減ったけれど、それでも主従関係は続いていた。

あれは確か、二年生の秋だったと思う。私は小沢君に呼び出された。小沢君は小学校を卒業するまで宗像君の言いなりになっていたけれど、中学生になってからは何の干渉も受けていなかった。

「好きなんだ。だから付き合ってほしい」

指定された場所に足を運んで言われたのが、告白だった。貶されることには慣れていた私だったけれど、さすがにこの場合どのような反応を返すのが最善なのか分からず、困惑した。

身動き一つ取れなかった私を動かしてくれたのは、私の首に見えない鎖を繋ぎ、小沢君を蔑ろにした人だった。

「山田は俺の彼女なんだよ」

とうに変声期を終えた、聞き慣れたその声に振り返ると、案の定宗像君が立っていた。彼は私の腕を引き千切りそうなくらい強い力で掴んで、その場を後にした。

辿り着いた先は宗像君の部屋。ベッドに乱暴に放り込まれた私の上に、支配者は覆いかぶさった。

……行われたのは陵辱。身に纏うものを全て剥がされ、愛撫なんてものは一切なく、強引に、強欲をそのまま私にぶつけてきた。

ひりつく喉。軋む身体。揺らぐ精神。……しかし何も言えなかった。

しかしこのときに初めて気付いたことがある。自分が宗像君の前で泣いたことがないという事実。

宗像君の前では絶対に泣かない。それが私の最後の砦で、切り札で、そしてプライドだった。



部活動が終わって帰宅した私を待ち構えていたのはお母さんではなく、十四歳年の離れたお姉ちゃんだった。

「お姉ちゃん。……帰って、たんだ」

「うん。実家が恋しくてね〜」

一昨年結婚したお姉ちゃんはこの家を離れ、今は義兄さんと二人暮しをしている。お母さん達は早く孫の顔が見たい、なんて騒いでいるけれど、お姉ちゃんは仕事第一のキャリアウーマンなので、当分その願いは叶えられそうもない。

小一時間くらい世間話をしていたけれど、それまで明るい顔をしていたお姉ちゃんはふと、真剣な表情をして訊いてきた。

「あんた、まだあの男と付き合ってんの?」

“あの男”が誰を指すのかなんて、考えるまでもなかった。

「一週間も、もたなかった、よ。もつはず、ない、じゃない」

苦笑を浮かべる私を見て、お姉ちゃんは鼻に皺を寄せる。

「当時のあんたとアレに清いお付き合いができなかったことは、最初から分かりきってるわよ。馬鹿げた関係が今でも続いてるのかって、訊いてんの」

不機嫌なお姉ちゃん。それなのに表情一つ崩さない私。

焦れたのか、お姉ちゃんは深い溜息を吐いた。

「下手な主従関係を取り除かない限り、あんた達、一歩も前には進めないわよ」

「……うん。そう、だね」

膝の上に乗せた手に、キュっと力が入る。

「お父さんやお母さんは、前住んでたところよりこっちの方が快適だ、なんて喜んでたけど……あんたを思うと、ここに来たのはとんでもない間違いだったって思うよ」

いつの間にか俯かせていた顔を、私は暫く上げることができなかった。

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