十四番:都築響弥
愛に飢えている少年の過去話。
母親が親父と離婚して家を出て行ったのは、俺が八歳のとき。それまでは人付き合いが良く、家族想いの若奥さんで通っていた。また、見目が美しいことでも近所の評判を集めていた。
けれども外での振る舞いが演技だというのを、俺は物心付いたときから察していた。
「上手ね、響弥」
幼稚園で家族の絵を描き、それを家に持って帰ってきた俺の頭を撫でながら、母親は目を細めて笑った。その彼女の目に浮かんでいた畏怖と侮蔑、そして嘲笑の色。十年経った今でも俺の脳裏にはしっかり焼き付いている。
愛されていないことを幼心なりに分かっていた俺も、無邪気に笑うことなどしなかった。
そもそも昔から喜怒哀楽の感情が乏しい子どもだった。母親が偶に見せる、俺に対する恐れの起因はそれだったのかもしれない。おまけに生まれながらの白髪赤眼。自分の子ながら薄気味悪い存在だったに違いない。
幼稚園、小学校一、二年の授業参観に彼女が現れたことは一度もなかった。仮に足を運んだとしても、他人が異質の目で俺を観察し、その視線がやがて母親へ向けられることは想像に難くない。
いくら母親が近所で家族を愛しているふりを装っていても、それが本音だったということだ。
「じゃあね。あなた、響弥」
家の中では見せたことのなかった、派手な化粧とそれに見合った服。親父とは違う男の腕に自らのそれを絡ませて、今までにない嫣然とした笑みと開放感を身に纏わせ、颯爽と去っていった。
親父は別れた妻を追いかけることもせず、ずっと玄関先で罵り続けていた。そんな煩い男と並んで立っていた俺は、女の後姿を見届けることなく、さっさと自室に引っ込んだ。
別に衝撃は受けてなかった。
聞かされた離婚理由は、夫が度々風俗へ足を運び、帰らない日が増えてきたから。母親が親父を見限っていたのは薄々感づいていたし、息子として言わせてもらっても、精神年齢が低いまま体だけ大きくなったような父親だった。
けれどもきっと、別れた原因はそれだけじゃない。
「……俺がアルビノじゃなかったら、出て行かなかったかな?アルビノでも、クラスの子達みたいに、明るくて素直な子だったら……」
自然と漏れた言葉ではあったが、すぐにそれは自分の中で否定された。所詮、仮説だ。過去をやり直すなんて出来やしないことだと分かっていたし、自分の存在がなくともどのみち、彼女が親父に愛想を尽かせて出て行っていたのは間違いない。
涙一つ零すこともなかったが、それでも心の一部が冷めてしまっているのを、頭のどこかで理解していた。
無意識にも、母親の愛情に飢えていたのかもしれない。
……母親が出て行ったその日、空がいつもより遠く感じた。
母親がいなくなったのを機に、親父は家の中で暴れるようになった。会社ではそれなりに真面目なサラリーマンを演じていたらしいが、家に戻ったら酒に溺れ、近所迷惑を考えず奇声と怒鳴り声を上げる有様。俺はというと、特に何も変わってなかった。強いて言えば、親父の散らかした物を綺麗にする為に、家事に多少の意欲を持ったくらいだろうか。それはもちろん親父の為なんかではなく、自分の家をゴミ屋敷にしない為だ。
「ほら、あの子」
近所の主婦達が設ける井戸端会議の内容は、耳を塞いでいても分かった。昼間はエリートでも夜は酒乱の父親。夫と息子に愛想を尽かし、出て行った母親。アルビノで、常に表情を変えないの息子。
世知辛い世の中に、ほとほと嫌気が差していた。
親父の荒れ具合が一層激しくなったのは二年前、俺を“狂犬”扱いする連中が増え始めた頃。
校内で暴力事件を起こしたのを切欠にあちこちから喧嘩を売られ、怪我が堪えなかった。
幸いにも一匹狼になることもなく、親友の泰平や友人の馬場、早乙女のおかげで親父のように落ちぶれず、そこそこ平穏な学生生活を送っていた。
しかし夜は最悪だった。マンションの壁が薄いことも構わず、親父は毎晩女を連れ込み、抱いた。そんな情痴と無縁でいたかった俺は、ウォークマンの音を最大にして勉強に取り組んだ。
親父の連れ込んだ女が一人じゃなかったときは、巻き添えを食らう前に――露出の多い格好をした女に迫られた過去がある――泰平の家か、伯父が寮監として勤めている麻生学院寮に避難した。
俺が麻生学院大の付属高校を受験したのも、伯父の勧めがあったからだ。
そして受験に合格した俺はすぐに入寮を申し込み、翌日にはそこに避難していた。本当は家が近いこともあって入寮を断られる可能性もあったが、伯父の強い推薦もあって許可されたのだ。
佐伯がまた、外を見ている。茫然としているような、しかし深く考え込んでいるような、そんな眼差し。目線は遠くの空を向いているが、黒い瞳にその空が映っているとは思えない。
(遠くにいる家族のことでも思い出してるのか……?)
家族――――親族関係にあり、共に住む集団。
今親父がどうしているのかは、知らない。毎月通帳に教育費その他が振り込まれているので、生きてはいるようだ。
あのマンションの一室は、もはや俺の帰るべき場所じゃなくなっている。今の家は学院寮で、家族はいないが、代わりに傍にいてくれる友達がいる。
改めて佐伯の方を向くと、今度は視線が合った。彼女は目を細めて微笑んだ。母親とは違って、畏怖も侮蔑も、ましてや嘲笑の色も浮かんでいない。
今はまだ友達の関係だが、近いうちに告白しようと思っている。友情とは別の、唯一佐伯にだけ抱いている、特別な感情。
人一倍愛に飢えた俺が恋をするなんて、高校に入学するまで考えてもみなかった。




