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帝国の朝が来た。
光が消えた世界の、何度目かの朝。
セレーナは解析室にいた。
壁の図表が更新されている。復興計画の第二フェーズ。旧王国領の農地復旧スケジュール。水源の再生プログラム。教育制度の設計草案——「次の世代は、誰かの力に頼らないことを最初から学ぶ」。
机の上に革紙が積まれている。隣の机では、エルザが記録帳に書き込んでいる。二人は仕事の話しかしない。それで十分だった。時折、エルザが質問し、セレーナが答え、エルザが記録する。学術院の図書室で二人が論文を読んでいた夜と、構図だけは似ていた。しかし、あの夜には書けなかった言葉を、今は書いている。
セレーナの手は素手だった。手袋はポケットの奥にある。父が最後に握らせた白い革の手袋。煤と泥に汚れたまま、洗われていない。いつか——全てが落ち着いたら——洗うかもしれない。しかし、つけ直すつもりはない。あの手袋が必要だった頃の自分は、もういない。
訓練場では、旧討伐軍の兵士たちと帝国の民兵が同じ場所で槍を振っている。ヴェルナーは壁際に立ち、腕を組んで見ている。口は出さない。それぞれが自分のペースで振るのを、鉄灰色の瞳で見ている。
訓練場の隅で、オルトが予備の長剣を振っていた。光のない、ただの鉄の剣。重い。遅い。しかし——自分の腕の力だけで振っている。他の何からも借りていない剣。振るたびに汗が飛び、息が上がる。光を纏っていた頃とは比較にならない負荷。しかしオルトは止めなかった。
ヴェルナーはオルトを見なかった。しかし、見えていた。あの剣筋は——五年前に自分が教えた基本形だ。光で飾り立てる前の、素朴な一振り。弟子がようやく、出発点に戻ってきた。
帝国の外れでは、モルスが新しい研究室を構えていた。テーマは「星のエネルギー還流後の生態系変化」。接続が切れた後、星に還ったエネルギーが大地にどう浸透しているか。土壌の魔力濃度の変化。植生の回復速度。水質の改善度合い。記録すべきデータが山のようにある。
「数百年ぶりに面白いデータが取れます」
独り言。しかしその声には、以前にはなかった温度がある。研究室の窓から見える森は、日々わずかに緑が濃くなっている。星の命が還り始めている。三百年前のティリアでは見られなかった回復。今度は——間に合った。
カイは森にいた。偵察網を拡張している。帝国の勢力圏が広がるにつれ、監視すべき範囲も広がる。新しい木に印を刻み、新しい罠を仕掛け、新しいルートを開拓する。
偵察の精度が、以前より上がっていた。印の刻み方がより丁寧になり、罠の配置がより緻密になり、ルートの選定がより周到になっている。
時折、帝国の拠点を横切る時に、炊事場の横を通る。リオンが不器用に配膳の手伝いをしている姿が見える。椀を落とす。粥をこぼす。隣の女性に叱られている。かつての勇者が、粥の配膳に苦労している。
カイは何も言わない。足を止めることもない。
ただ——あの乾燥肉が無駄にならなかったことを、カイの中の、計算式に入らない場所が、静かに記録していた。
そして——夜。
セレーナは解析室に一人だった。エルザは居住区に戻っている。壁の図表が、蝋燭の光に照らされて揺れている。
壁の隅に、一枚の紙が貼ってある。
帝国で最初に作られた図表よりも前から、そこにある紙。セレーナが自分で書き、自分で貼った紙。
「マルコ。靴職人。享年六十七」。
帝国で最初に死んだ人間の名前。
確率二パーセントの向こう側にいた人間。配給停止の六日目に、防壁の外で、一人で死んだ老人。
セレーナの計算が正しかった日に、それでも消えなかった名前。
セレーナはその紙を見つめた。
毎晩見ている。一日の業務が終わり、全ての図表を更新し終えた後に。蝋燭の光の中で、この一枚だけを見る。
壁には復興計画の設計図が並んでいる。帝国の未来を描く巨大な構想。その全ての図表の起点に——たった一枚の、名前だけが書かれた紙がある。
セレーナは蝋燭を吹き消した。
闇の中で、紙は見えなくなった。しかし、そこにある。
この世界に、もう奇跡はない。
あるのは、泥と汗と計算と、自分の足で立つ人間たちだけだ。
それで十分だった。




