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夜が来た。
四人はバラバラだった。ヴェルナーは窪地の自陣で剣の手入れをし、モルスは森の別区画で「夜行性の菌類の分解パターン」を研究し、カイは——おそらくどこかの木の上にいるのだろうが、気配は完全に消えている。
セレーナは一人で、空き地に簡素な防御結界を構築していた。闇魔法で周囲の魔力を再配置し、魔物の知覚を欺く迷彩型の結界。完璧ではないが、小型魔物程度なら回避できる。
その作業の最中に、異変を感知した。
アナライズの視界で、遠方の魔力に異常な揺れが走った。方角は北東——王都の方向。星の魔力が、大規模に、急速に、引き抜かれている。
セレーナは手を止めた。
魔力の波形を解析する。膨大なエネルギーが一点に集束し、爆発的に解放されている。通常の魔法では説明がつかない規模。この波形に合致するのは——
「——勇者の奇跡」
呟きが唇から漏れた。これほどの規模の奇跡が行使されれば、周辺一帯の魔力バランスは確実に崩壊する。森の生態系にどんな影響が及ぶか、計算が追いつかない。
ほぼ同時に、暗闇の中からカイの声が降ってきた。
「魔物の動きがおかしい」
姿は見えないが、声は近い。木の上から森全体を監視していたのだろう。
「縄張りから動かないはずの連中が、一斉に同じ方向に走り始めた。何かから逃げてる」
セレーナの脳裏に仮説が走った。
奇跡の大規模行使。星のエネルギーの急激な攪乱。広域にわたる魔力バランスの崩壊。それが引き起こすのは——
森の地面が、揺れた。
最初は微かだった。次の瞬間、遠方から地鳴りのような轟音が響き渡った。獣の咆哮ではない。何十、何百もの魔物が同時に叫んでいる。大地そのものが悲鳴を上げているかのような、途方もない振動。
スタンピード。魔物の大暴走。
大規模な魔力攪乱が森の生態系を根底から揺さぶり、魔物たちの本能が一斉に暴走を始めたのだ。縄張りの秩序は崩壊し、弱肉強食の論理すら通じない。恐慌に駆られた獣の群れが、あらゆるものを踏み潰しながら突進してくる。
セレーナの防御結界は小型魔物に対する迷彩であって、暴走する群れには無力だった。今から再設計する時間はない。頭の中で瞬時に十二通りの対処法を検討し、全て棄却した。単独でこの規模の暴走に対抗する手段がない。
森の奥から、ヴェルナーの気配が動いた。
離れた場所にいたはずの男が、一瞬で空き地の近くまで来ていた。鎧を纏い、大剣を携え。鉄灰色の瞳が闇の奥を射抜くように見据えている。
「——来る」
ヴェルナーが剣を抜いた。
短い一言。しかしその声には、長年戦場に立ち続けた男だけが持つ確信があった。
セレーナはその一言を聞いた瞬間、不思議な感覚を覚えた。
この男の判断力を、信用できる。根拠も数字もない。しかし、そう感じた。
それは、セレーナ・ヴァルモントがヴェルナーという人間の声を、初めて信用した瞬間だった。
轟音が近づいてくる。
地面の振動が靴底を通じて全身に伝わる。木々が揺れ、鳥たちが一斉に飛び立ち、森全体が恐慌に陥っている。
セレーナは手袋を握りしめた。父の最後の贈り物。上等な革の感触。
まだ、汚すわけにはいかない。
まだ——ここで死ぬわけにはいかない。
証明していない仮説がある。暴いていない欺瞞がある。正しいことを正しいと言い、それを実行するための力を、まだ手に入れていない。
こんな場所で終わるほど、私の計算は甘くない。
セレーナはアナライズを全力起動し、迫り来る魔物の群れの密度、速度、進行方向を解析し始めた。退路を計算する。最適な回避ルートを割り出す。しかしそれを実行するための「手足」がいない。自分一人では、解析結果を行動に変換できない。
歯噛みした。
ここに、連携があれば。あの暗殺者の機動力があれば。あの騎士の剣があれば。あの死霊術師の壁があれば——
だが、今は「ない」。それが現実だ。
闇の奥から、最初の魔物の赤い目が光った。




