Second Escape
波子が自分のアパートに戻るとドアの前にアツシが立っていた。
iPodで音楽を聴きながら小さく口ずさんでいる。
黒のパーカをだらしなくはおり、手には缶コーヒーを持っている。
波子に気がつくとにやりと笑ってみせた。
中に入り波子が何か飲むかと聞くとアツシはちょっと迷っていらない、と答えた。
「何か用?もう、うちにはこないでっていったはずだけど」
アツシは返事をしなかった。立ったまま、パーカの裾をいじっている。
波子が冷蔵庫からお茶を出し、コップに注いでいると、アツシはやっとあぐらをかいて座り、並べてあるCDの中から5秒くらい迷って一つ選び出し、プレーヤーにかけた。
曲が流れ、波子は固い表情を少し緩め、アツシの様子をうかがった。アツシはようやく波子の方を見た。
「お前、田中と知り合いだったんだな。知らなかったよ」
「なんで美里のこと知ってるの?」
意外な言葉だったので波子は思わず声が大きくなった。アツシは一瞬目を細めてああ、と言い、ポケットからタバコとライターを出して火をつけた。
「お前、あの映画観なかったの?」
「映画?映画は‥観たけど‥途中まで‥」
アツシの鋭い視線に波子は怯んだようにうつむいてぼそぼそ答えた。
「あの女、あの映画に出てたんだ。最後の方にちょっとだけ」
「美里があの映画に?美里はサークルの一員なの?」
「彼女は大賀が連れてきたんだ。サークルの人間じゃない」
アツシは苛立ったような表情を浮かべて立ち上がり、持ってきた缶コーヒーにタバコを押し付けると責めるように言った。
「何で最後まで観なかったんだよ?」
波子は何か言いたげに口を開いたが、すぐに口をつぐんだ。
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「これからどうするんだよ?」
トモオは怯えた顔で賢治に聞く。
「何そんなに怖がってんの?」
賢治はむしろ晴れ晴れとした顔で快活に笑う。
「こうしていればどうにもならねぇよ」
車は交代で運転すればいいし、眠くなったらお気に入りの音楽をかけて歌をうたえばいい。飽きたら窓の外の景色でも眺めるさ。
トモオと賢治の逃亡の始まり。
賢治はただひたすら車を走らせる。トモオはしばらくすると平常心を取り戻す。
二人は逃げる。
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波子がだまったままだったので、アツシはあからさまに不機嫌な顔をし、小さく舌打ちすると部屋から出て行った。
場違いな程明るい音楽がうるさくかかっていた。ぼんやり曲を聴きながら波子はぽつりとつぶやく。
「ばかじゃないの」
波子はプレーヤーのストップボタンを荒々しく押してCDを取り出すと、壁に思いっきり投げつけた。
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賢治はトモオに向かって飲みかけの缶ジュースを投げつける。狭い車の中、よけることもできず、トモオの膝にジュースが飛び散った。
「その耳障りな曲、止めろよ」
トモオは賢治の剣幕に怯えながら音楽を止めた。
賢治はくわえていた煙草を窓から放り投げると大きく舌打ちをした。
トモオは賢治の様子をちらちら伺い聞こえないように小さくため息をついた。
3日たっていた。
既に何かがちょっとずつ狂い出していた。
賢治はトモオの一挙一動にイライラをぶつける。そうされるトモオは日に日に口数が少なくなっていった。
「お前どっか行け。うざい。お前といると」
とうとう賢治はトモオにそう言った。
トモオはしばらくうつむいて唇をかみしめていた。
やがて顔をあげるといきなり奇声を発し、運転している賢治につかみかかった。
「やめろっ」
予測もつかなかった逆襲に賢治は慌てる。トモオは半狂乱になって賢治に殴りかかる。賢治はハンドルを握ったままの状態で必死にトモオから逃れようとする。
「あああああああああああああ」
トモオは叫び続けた。
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美里と波子は映画を観に出かけた。
人でごったがえす日曜の銀座で待ち合わせ、映画が始まる時間までプランタンの中をぶらつき、疲れるとスタバでお茶をした。
美里はアイスコーヒーをストローで一気に吸い上げるとわざとらしく波子の顔をのぞきこんだ。
「アツシくんから聞いた?映画のこと」
一瞬意味がわからず波子はぽかんとしたがじわじわと表情を曇らせた。
「何も聞きたくない」
波子は乱暴にケーキを頬張り、あらぬ方向を見て美里の視線を外した。
ちらりと美里を盗み見ると美里は何か考え込んでいるようだった。
「そろそろ時間みたい。いこう」
波子がケーキを食べ終わるのを見計らうかのように美里はトレイを持って立ち上がった。
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「やめろっ。ヒトが、ヒトがいるんだよ!」
トモオは賢治の言葉に反応し、殴るのをやめ、前方を見た。
女が道の真ん中で横たわっている。
車が急ブレーキでとまる。車は女の2メートル程手前で止まった。
トモオと賢治は思わず顔を伏せたが車が止まったことを認めるとおそるおそる顔をあげた。
轢かずにすんだが女はぴくりとも動かない。トモオと賢治は顔を見合わせるとのろのろと車から降りた。
照りつける日差しに二人は目を細める。女に近づくとトモオは肩を軽く揺すってみる。女は二十歳前後といったところだろうか。額にうっすら汗をかいて眠っているようだった。女が死んでいるかもしれないという不安から開放されると二人は道に座り込んだ。
「何なんだ?このオンナ」
そう言いながらも賢治の表情はこの状況を楽しんでいるようだった。トモオは先程まであらわにしていた賢治に対する怒りなどすべて忘れてしまったらしくぼんやりとした表情で女の顔をじっと見ていた。
女が目を覚ます。
自分を顔を覗き込んでいる見知らぬ男たちの出現に驚いた風もなく、ぶすっとしながら二人の顔を交互に見た。
「こんな所、クルマ通るんだ」
目をとろんとさせて、また眠ってしまいそうだった。
「冗談じゃねぇよ。すんでのとこで轢くところだったぜ」
賢治が笑いながら抗議すると女はじわじわと顔を緩め、笑みこぼした。
「ヒトミ」
女は親指で自分を指しながらはっきりとした口調で言った。名前を名乗ったらしい。
「オレは賢治。こいつはトモオ」
賢治が言うとヒトミはゆっくり頷き、周りをぐるりと見回すと急にがばっと立ち上がり、すたすたと車の方に歩き出した。二人はヒトミの後を追う。