First Escape
前方からアツシが歩いてくる。波子は一瞬にして無表情な顔を作り、彼に近づいていった。
「なんだよ、昨日のメール。あれって別れ話?」
アツシは茶色に染めた髪をわざとらしくかきあげながら横柄な口調で
言った。
二人の距離が3メートルくらいに近づいた時、波子は足を止めた。
「もう、二度と会いたくない」
波子は顔を歪めながら絞り出すように言う。
「家にもこないで」
目にうっすら涙が浮かんでいた。
言葉を失っているアツシを残し、波子は足早に去っていった。
その背中をアツシはしばらく見つめていた。
学生の三分の二は好き放題やっている国際経済学の授業中、波子はお気に入りのファッション雑誌を虚ろな表情でぱらぱらめくっていた。
「最近一緒にいないんだね」
隣りに座っている美里に話しかけられ、波子はゆっくりと顔を美里の方に向けた。美里と波子は知り合ったばかりで、美里が波子に「ノートを見せて欲しい」と声をかけたことがきっかけで二人は仲良くなった。最近二人はずっと行動を共にしている。
「誰と?」
「アツシくん」
波子は雑誌を閉じ、顔をしかめた。
「アツシは…」
アツシは。
アツシは将来ヤクシャになりたいと思っている。エーガのサークルに入っていて精力的に活動している。私はアツシのヤクシャとしての才能を買っている。サークルが作ったアツシ主演のエーガを私は何度か見たことがある。アツシの親友という男が監督で、先日、最新作の上映会が行われ、私は見に行った。
確か。主人公は二人の男だ。彼等はギャンブル好きでお金にだらしなく、ヤミ金に手を出し、借金が莫大に膨らんでしまう。ヤミ金業者から逃れる為に二人は車であてのない旅を続ける。
それで。結末はどうだったんだっけ?
思い出せない。
オモイダセナイ
美里のアパートは大学から15分程歩いた閑静な住宅街の中にあった。
似たような細い道を何度も曲がらなければならないので方向音痴の波子は一人で美里のアパートに行き着く事が出来ない。
「私には無理。覚えられない」と波子が言うと美里はあきれた顔でうちくるの今回で5度目だよね?と嫌味を言ってみせた。
美里の部屋は驚く程殺風景だ。6畳のワンルームには驚く程物がない。
備え付けの収納、最低限の家具と家電。
アルミのブラインドは若い女性の部屋、というより事務所として使われている空間を連想させた。
部屋に入って向かって右側の壁にはたくさんの写真がピンでとまっていた。
それらの写真はみな風景を写したものばかりで写真の鮮やかな色は殺風景な部屋に唯一存在感を放っていた。
「これ、どこのお寺?」
波子は写真の一つを指して美里に尋ねる。
「んー、と、ね。京都旅行に行った時の写真なんだけど。平安神宮とか平等院みたいなメジャーなお寺じゃなくてなんとか寺っていうマイナーなお寺」
波子は答えになってないな、とぶつぶつ言い、美里は波子の肩越しにその写真を覗き込んだ。
「よくとれてるでしょ?それ。いいよね、お寺って。流れてる空気感違うし」
その日の美里は機嫌がよく、普段より饒舌だった。美里のしゃべりに耳を傾けつつ波子は一枚一枚の写真をじっくり見ていった。
1ヶ月ごとくらいに変えられる写真たち。全部で30枚程。不規則に配置され、ピン1本でルーズに留められている。
窓から強い風が入ってくる。写真がはたはたと動いた。
美里は顔をしかめ、窓を少し閉じた。波子は風など少しも気にならないといった様子で写真をじっと見ていた。
その真剣なまなざしに美里は「何?どうかした?」と声をかけたが波子は無反応だった。
「波子?」また声をかけてみる。返事なし。
美里は軽くため息をつくと冷蔵庫から飲み物を取り出す為に立ち上がった。
美里の写真を見ていたら悲しくなった。
アツシを思い出したからかもしれない。
一瞬で好きな「絵」を見つけ、映像にするアツシ。
美里の写真の撮り方に似ている。
似ている。
美里は冷蔵庫から取り出した透明のビンを波子に渡した。
青みがかったビンの中には波子のお気に入りのメーカーのオレンジジュースが入っており、常に冷蔵庫に冷やされている。オレンジジュースは絶やされることはない。
当然美里の仕業なのだがこの気配りに波子は時々恐怖を覚える時がある。
いつか美里は波子の何もかもを知り尽くし、波子の好きな物をすべて周りに並べ、嫌いな物をすべてを遠ざけてしまうのではないかという恐怖。
波子はオレンジジュースを一口飲み、ビンの青みとジュースのオレンジの混ざった微妙な色をしばらく楽しんだ。
美里は波子とおそろいのビンに入ったミネラルウォーターを飲みながら先週二人で見に行った映画のパンフレットをめくっている。
部屋が徐々に暗くなり、美里の横顔がシルエットになって浮かび上がってくるのを波子はじっと見ていた。
波子はこの時刻が一番好きだった。
このまま部屋の一部になってしまうような感覚。風。
美里がパンフレットをめくる音。
波子は目を閉じた。
次の瞬間、美里の問いかけは波子を一瞬にして現実に戻した。
「アツシくんとはどうなった?」
波子は美里の目をじっと見つめた。
「さっき答えなかった」
淡々とした口調で美里は続けた。
「そういえば」
思い出したように波子は言った。
「アツシの事、なんで知ってるの?」
美里はビンをもてあそびながらちょっと笑っただけだった。




