第2章 第1話:死神の隣人
昨夜の「嵐」が嘘のように、アイギスの街には再び退屈な朝が訪れていた。
カイル・ヴァン・クロムウェルは、いつものように建付けの悪いベッドから起き上がり、錆びた蛇口から出る冷たい水で顔を洗う。鏡に映るのは、目の下に隈を作り、覇気のない表情をした、どこにでもいる三十代の男だ。
「パパ、おはよう! 今日も一緒にお仕事?」
「おはよう、リナ。今日はパパ、現場が少し遠いから、お留守番をお願いできるかな?」
リナは昨夜の恐怖を忘れたかのように、元気にパンを頬張っている。カイルが「理」を綴り直し、彼女の記憶から恐怖の残滓だけを丁寧に摘み取ったからだ。エレンもまた、リナが無事に戻ってきた喜びで、管理局への疑念よりも安堵を優先させていた。
カイルにとっては、この光景こそが守るべき世界のすべてだった。
だが、仕事へ向かうために部屋を出たカイルは、通路で足を止めた。
隣の、ずっと空室だった二〇四号室のドアが開いていたのだ。
「――おはようございます。今日からこちらに越してきた、レイスと申します」
低く、抑揚のない声。
そこには、昨夜の地下空洞で一輪の青い花を拾い上げた、あの執行官が立っていた。
漆黒のコートは脱ぎ捨て、地味な事務員のようなシャツを着ているが、その瞳の奥にある絶対的な秩序の光までは隠せていない。
「あ、ああ……おはようございます。カイルです。ええと、お隣さんですね。よろしくお願いします」
カイルは、自分でも感心するほど見事な「動揺する小市民」を演じてみせた。肩をすくめ、少しだけ視線を泳がせ、相手の威圧感に気圧されたふりをする。
レイスの視線が、カイルの全身をスキャンするように動いた。
「このアパートは少々古いですが、静かで良い場所ですね。管理局の事務局に勤めることになり、職場に近いここを選んだのです」
「管理局……! へぇ、エリートさんだ。僕みたいな『Gランク』には縁のない場所ですが、心強いな」
カイルは卑屈な笑みを浮かべて頭を下げた。
レイスの持つ生体情報端末は、カイルの脈拍を「緊張した凡人」の数値として記録しているはずだ。だが、カイルの内心では、すでに数千の『理』が編み上げられていた。
(……こいつ、昨夜の事件を追ってここまで来たか。偶然を装うにしては、あまりに不自然なタイミングだ)
その日の仕事中も、カイルは背中に刺さるような視線を感じ続けていた。
現場で石を運んでいても、休憩中に安物のパンを食べていても。レイスが直接姿を見せることはないが、街の監視カメラや魔導センサーが、執拗にカイルの「挙動の乱れ」を探っているのが『理』を通じて伝わってくる。
そして夕刻、最悪の事態が起きた。
仕事を終えて帰宅したカイルを待っていたのは、エレンの明るい声だった。
「あなた、おかえりなさい! ちょうど良かったわ。お隣のレイスさんが、お引越しの挨拶に来てくださったの。お一人で夕飯も寂しいでしょうからって、一緒にとお誘いしたのよ」
カイルの思考が一瞬、空白になった。
台所では、レイスがリナと並んで座り、絵本を眺めている。
「……このお話の結末は、因果関係として少々不自然ですね。なぜ勇者は、何の代償もなく力を手に入れられたのでしょう」
「むずかしいことはわかんないけど、かっこいいからいいの!」
カイルは、頬を引きつらせながら笑った。
「ははは……エレン、それは名案だね。レイスさん、うちの質素な食事で良ければ、歓迎しますよ」
地獄のような食卓が始まった。
エレンが作った温かなシチューを囲み、家族の団欒が繰り広げられる。その中で、レイスは時折、鋭いナイフのような問いを投げかけてくる。
「カイルさんは、魔導適性検査で苦労されているとか。……不思議ですね。あなたの筋肉のつき方、歩き方の重心の置き方は、とても『Gランク』のそれとは思えない。まるで、膨大な力を抑え込む術を知っているかのようだ」
「よ、よしてくださいよ。ただの肉体労働で鍛えられただけですよ。重い石を運ぶには、コツがいるんです」
カイルはシチューを啜りながら、レイスの瞳を真っ直ぐに見返した。
(今、こいつは俺の瞳孔の開き具合を見ている。……脳内麻薬を操作して、恐怖の感情を擬似的に生成しろ。もっと、『図星を突かれて焦る無能』を演じろ)
「……そうですか。コツ、ですか。ぜひ今度、詳しく伺いたいものだ」
レイスはスプーンを置き、ふとリナに目を向けた。
「リナちゃん。昨日の朝、何か変わったことはなかったかな? 管理局の人が来たとか、どこかへ行ったとか」
カイルの指が、テーブルの下で止まった。
リナの記憶は書き換えてある。だが、レイスのような専門家が「精神の綻び」を突けば、何が起きるかわからない。
「うーんとね、昨日はね……パパが、うさぎさんをくれたの! ずっと一緒に遊んでたよ!」
リナは無邪気に、カイルが贈った木彫りの人形を掲げた。
レイスはその人形をじっと見つめ、それからカイルに視線を戻した。
「……良い人形だ。手彫りにしては、寸分の狂いもない。まるで、彫刻の理を知り尽くしているようだ」
「……ただの、趣味ですよ」
二人の視線が空中で激突する。
一人は、秩序を乱すバグを屠らんとする死神。
一人は、愛する者の日常を守るために世界を騙し続ける怪物。
食卓のキャンドルが、一瞬だけ不自然に揺れた。
それは、カイルが「理」を微調整し、レイスの放った探知魔法を無効化した余波だった。
食事を終え、レイスが自室へ戻った後。
カイルは窓の外、夜のアイギスを見つめていた。
隣の部屋からは、かすかに電子機器が作動する音が聞こえる。レイスは今、この食卓でのデータを分析しているのだろう。
(……徹底して、無能を突き通す。どんなに疑われても、滑稽なまでに)
カイルは心の中で誓った。
たとえ、隣に死神が住まおうとも。
明日もまた、自分は世界に敗北する「無能」として目覚めるのだ。




