第1章 第2話:静寂なる拉致
「……パパ、パパ助けて!」
その叫び声が、朝の柔らかな日差しを切り裂いた。
カイル・ヴァン・クロムウェルが仕事へ向かうために玄関の扉を開けた数分後、三人の男たちが彼の家を包囲していた。彼らは魔導管理局の制服を纏っていたが、その瞳には公僕としての正義感など微塵もなかった。あるのは、稀少な検体を見つけた研究者のような、歪んだ好奇心だけだ。
「リナ! エレン! 何をしている、離せ!」
カイルは慌てて家の中に駆け戻り、リナの腕を掴んでいた大男の肩に縋り付いた。
だが、男は鼻で笑うと、無造作に左手をカイルの胸元に突き出した。
「邪魔だ、無能(Gランク)」
男の掌から放たれた衝撃波魔法『衝撃の波動』。
本来なら、成人男性を数メートル吹き飛ばし、肋骨を数本折るはずの威力だ。
カイルは、衝撃が自分の体に触れる一瞬前、自身の肉体の『因果関係』をほんのわずかにズラした。本来受けるはずの衝撃を「空振った空気の揺れ」程度に変換し、しかし見た目上は派手に吹き飛ばされるよう、自ら後ろに跳んだ。
「ぐわああっ!」
カイルは古びた木の椅子を巻き込みながら、無様に床を転がった。
口の端をわざと噛み切り、鮮血を散らす。
「あなた! カイルさん!」
「パパ! パパあ!」
泣き叫ぶエレンとリナ。
カイルは震える手で床を這い、男たちの足元へ向かって必死に手を伸ばした。
「待ってくれ……娘は、娘は関係ない。何かの間違いだ……金なら、仕事をして必ず払う。だから、リナを……」
男の一人が、カイルの頭を軍靴で踏みにじった。
「金の問題じゃない。この娘の血液サンプルから、未登録の変異魔導波が検出されたんだ。これは国家の資産だ。貴様のような出来損ないが抱えていていいものではない」
カイルは顔を床に押し付けられながら、視界の端で娘の姿を追った。
リナの瞳には、恐怖と、そして大好きな父親が目の前で蹂躙されていることへの絶望が浮かんでいた。
(……ごめんよ、リナ。今だけは、パパは無力でなければならないんだ)
カイルの胸の奥で、氷のような殺意が静かに、だが確実に結晶化していく。
もし、今ここでこの男の首を跳ね飛ばせば、リナは助かる。
だが、家の周囲には管理局の広域監視網が展開されている。ここで「理」を振るえば、リナは一生、逃亡者として追われることになる。それは、カイルが最も避けたい未来だった。
男たちはリナを魔法封印の檻に押し込み、エレンを突き飛ばして、足早に去っていった。
静まり返った部屋に、エレンの嗚咽だけが響く。
カイルは、男たちが去った後も数分間、床に伏したまま動かなかった。
彼が待っていたのは、階下の路地裏で監視を続けている「視線」が消える瞬間だ。
路地裏。
執行官レイスは、端末に表示されるカイルの生体反応を冷徹に見つめていた。
「……脈拍の上昇、筋肉の収縮、脳波の混乱。典型的な、無力な凡人が家族を奪われた際の反応だ。演技の形跡はない。……いや、そもそも『Gランク』に、執行官の監視を欺くほどの精神制御など不可能か」
レイスは端末を閉じ、漆黒のコートを翻した。
「……やはり、この男はバグではない。連れ去られた娘の方にこそ、事象の歪みの原因がある可能性がある。追跡を娘の移送班に切り替える」
レイスの気配が、カイルの感知範囲から完全に消えた。
その瞬間。
床に伏せていたカイルの指先が、ぴくりと動いた。
「……エレン、大丈夫かい」
カイルはゆっくりと立ち上がった。
先ほどまで彼を支配していた「怯え」や「絶望」は、霧が晴れるように消え去っていた。
エレンはカイルの肩を掴み、泣き崩れる。
「カイルさん……どうしましょう、リナが、あんな怖い人たちに……! 私、すぐに管理局へ行ってくるわ!」
「いいえ、エレン。君はここにいてくれ」
カイルの声は、いつもの穏やかさを保っていたが、その芯には鋼のような響きがあった。
「彼らは管理局の者じゃない。制服は本物だが、術式の組み方、魔力の質が違いすぎる。あれは……管理局を隠れ蓑にしている『組織』だ」
「え……? でも、どうしてあなたがそんなことを……」
「少し、心当たりがあるんだ。職場で噂を聞いたことがあってね」
カイルは嘘を重ねる。
「僕が、知り合いの伝手を頼ってリナを探してくる。君は、もし本当の管理局の人が来たら、今のことを伝えてほしい。いいかい? 家の中で鍵をかけて待っていて」
カイルの瞳に見据えられ、エレンは吸い込まれるように頷いた。
カイルは彼女の額に一度だけ優しく口づけをすると、部屋を後にした。
外は、皮肉なほどに澄み渡った青空だった。
カイルは街の喧騒を避け、人跡稀な廃工場跡地へと足を運んだ。
周囲に人の気配がないことを確認すると、カイルは深呼吸を一つした。
その瞬間、彼を覆っていた「無能の殻」がパキパキと音を立てて崩壊していく。
「……さて。世界を欺くのはここまでだ」
カイルは右手を空間に突き出した。
指先が空をなぞると、そこには現代の魔導理論では決して描くことのできない、三次元的な幾何学模様……『古代文字』が浮かび上がった。
「――理の検索。因果の糸を辿れ」
カイルの視界が変貌した。
街全体を覆う無数の魔力回路、人々の歩行ログ、空気の振動、そして……リナを連れ去った男たちが残した『因果の残滓』。
現代の追跡魔法が「熱源」や「魔力反応」を追うのに対し、カイルの「理」は、「リナがその場に存在したという事実」が世界に与えた変化そのものを遡る。
数秒後。
カイルの脳内に、一本の太い光の筋が見えた。
それは、街の北西部にある廃棄された地下貯水池へと続いていた。
「見つけた。……管理局の犬ですらない、ただの『真理の探求者』か。あんな腐った連中に、リナを触れさせた自分を呪いたくなるな」
カイルは一歩、踏み出す。
その歩みは、先ほどまでの猫背な労働者のものではなかった。
一歩ごとに、彼を囲む空間の密度が跳ね上がる。
彼が通り過ぎた後の地面には、ひび割れ一つなく、ただ「そこにあったはずの重力」が書き換えられたような違和感だけが残る。
「リナ。今行く。……パパが、少しだけ『悪い子』になるのを許してくれ」
カイルの姿が、陽炎のように揺れ、消えた。
現代魔法の最高峰である『転送魔法』ですら、発動には巨大な魔導陣と数分の詠唱を要する。だが、彼は「今ここにいる」という理を「あそこにいる」という理に上書きしただけだった。
地下貯水池、入り口。
武装した「真理の探求者」の傭兵たちが、暇つぶしにタバコを吹かしていた。
「おい、さっきのガキ、とんでもねえ魔力波形だったな。ボスが喜ぶぜ」
「ああ。あの親父の方は笑えたな。土下座して泣き言ばっかりでよ。無能ってのはあんな風にしか生きられねえのかね」
傭兵の笑い声が、冷たい風に混じって消えた。
いや、風そのものが止まった。
「――そうか。君たちには、あんな風に見えていたんだね」
傭兵たちが驚愕して振り返った。
そこには、いつの間にか一人の男が立っていた。
泥にまみれた作業服、傷だらけの顔。しかし、その瞳だけは、底なしの深淵のように黒く、静まり返っていた。
「だ、誰だ貴様! どこから入った!」
「質問には答えない。……ただ、娘に触れたその腕だけは、置いていってもらうよ」
傭兵が魔導銃を構えようとした瞬間。
彼らの視界から、すべての『色』が失われた。
「伏せろと言いたいところだが。君たちには、伏せる時間すら与える必要はないな」
カイルが静かに指を鳴らす。
地下貯水池を支配する物理法則が、その音一つで完全に崩壊した。




