第1章 第1話:世界を欺く無能の朝
その男、カイル・ヴァン・クロムウェルの一日は、世界に対する「敗北」から始まる。
「……反応なし、か。相変わらずだな、カイル」
魔導管理局の地方支部。錆びた鉄の匂いと、冷え切った石造りの床が支配する測定室で、担当官が吐き捨てるように言った。
カイルの目の前には、水晶球を象った最新鋭の魔導測定器が鎮座している。本来なら、ここに手をかざせば個人の魔力量や適性属性が鮮やかな光となって現れるはずだった。
だが、カイルが触れた水晶は、澱んだ灰色を一度だけ明滅させた後、沈黙した。
「申し訳ありません。昨晩、少し体調を崩しておりまして……」
カイルは猫背をさらに丸め、愛想笑いを浮かべた。使い古された、冴えない男の表情。
「体調のせいにするな。お前の適性値は、この五年、最低ランクの『G』だ。生活魔法すらまともに扱えん欠陥品が、この管理都市で生きていられるだけでも幸運だと思え」
担当官はカイルの身分証(IDプレート)に、屈辱的な『更新不可:要監視』の刻印を荒々しく刻んだ。
「ありがとうございます。……次は、もう少し頑張りますので」
カイルは何度も頭を下げながら測定室を後にした。背中に浴びせられる「社会の荷物め」という嘲笑すら、彼の耳には心地よい子守唄のように響く。
彼らは何も知らない。
今、カイルが水晶に触れた瞬間、実際には何が起きていたのかを。
カイルの手のひらが水晶に触れた刹那、測定器内部の魔導回路は、宇宙の始原に等しい高純度のエネルギーを感知していた。もし、カイルがわずかでも「偽装」を解けば、この測定器は瞬時に蒸発し、管理局の建物ごとこの街は消滅していただろう。
カイルは一秒の数千分の一という刹那の中で、測定器が感知するはずの「魔力」という概念そのものを「無」へと書き換えたのだ。
彼にとって、世界を欺くことは、呼吸をするよりも容易いことだった。
管理局を出て、カイルは市場の雑踏を歩く。
この都市『アイギス』は、魔導によってすべてが統制されている。空を舞う監視用の魔導機、市民の行動を記録する端末、そして何より、個人の魔力を「燃料」として徴収するシステム。
人々は自らの魔力を国に捧げる代わりに、安全と安価なインフラを享受している。
カイルのような「魔力を持たない」とされる者は、文字通りこの社会の底辺であり、清掃や重労働といった、魔導を使わない汚れ仕事で細々と糊口を凌ぐしかなかった。
「おい、カイル! また測定に失敗したんだってな!」
工事現場の親方が、積み上げられた魔導石の山を指差して怒鳴る。
「さっさと運べよ、この無能! 魔法が使えないなら、体を使って返せ!」
「はい、はい! すぐにやります!」
カイルは大きな籠を背負い、泥にまみれながら重い石を運ぶ。
周囲の労働者たちは、魔導強化された義肢や簡易魔法を使って、軽々と荷物を動かしている。彼らはカイルの泥臭い働きを見て、優越感に浸る。
「あいつを見てみろよ。今の時代、あんな原始的な方法で働いてる奴がいるなんてな」
「家族がかわいそうだよ。確か、あいつには娘がいたよな?」
カイルは黙々と働き続けた。
指先が割れ、血が滲んでも、彼の心は凪いでいた。
なぜなら、この「苦労」こそが、彼の大切なものを守るための盾だからだ。
もし、彼がこの場所で「指一本」動かせば、これらの石は羽毛のように浮き上がり、親方の怒鳴り声も、社会の差別も、すべてはこの世から消し去ることができる。
だが、それをすれば、彼は「バグ」として管理システムに捕捉される。
その先にあるのは、研究施設での解体か、あるいは「戦略兵器」としての戦場への強制送還だ。
そうなれば、もう二度と、あの温かな食卓には戻れない。
(……あと三時間で仕事は終わりだ)
カイルは内ポケットに入れた小さな包みに触れた。
娘のリナへの誕生日プレゼント。安物の木彫りの人形だが、これを用意するために、彼は一ヶ月前から昼食を抜いて働き続けたのだ。
仕事を終え、カイルは家路を急ぐ。
都市の華やかな中心部から外れた、古びた集合住宅。
階段を上り、少し建付けの悪いドアを開ける。
「ただいま」
「パパ! おかえりなさい!」
小さな影が飛びついてきた。七歳になる娘のリナだ。
続いて、台所から妻のエレンが優しい微笑みを浮かべて現れる。
「おかえりなさい、あなた。今日も遅くまでお疲れ様」
カイルの胸に、一日の疲れをすべて吹き飛ばすような安らぎが広がった。
エレンは、カイルがかつて戦場という地獄で「理」を振りかざしていた頃、行き倒れていた彼を救ってくれた恩人だ。彼女は、カイルがこの世で最も恐ろしい魔法使いであることも、世界を滅ぼす力を持っていることも知らない。
彼女にとって、カイルは「不器用で、魔法は使えないけれど、誰よりも優しい夫」だった。
「リナ、お誕生日おめでとう。これ、少ないけどパパからのプレゼントだ」
「わあ! 木彫りのうさぎさん! かわいい、ありがとうパパ!」
リナの弾けるような笑顔。これだ。この笑顔を守るためなら、カイルは何千回でも土下座をし、何万回でも「無能」と呼ばれてみせる。
しかし。
幸せな食事の最中、カイルの背筋に氷のような感覚が走った。
(……来ている)
カイルの「理」が、外部からの異質な干渉を感知した。
それは、通常の魔導官が放つ捜査の波動ではない。もっと鋭く、冷徹で、対象を「消去」することに特化した、絶対的な秩序の匂い。
家の外、数百メートル先の路地裏。
街灯の影に溶け込むようにして、一人の男が立っていた。
男は銀色の髪を短く刈り込み、一切の装飾を排した漆黒のコートに身を包んでいる。その胸元には、魔導管理局の最高執行機関『第零分室』の紋章が刻まれていた。
男は手元の端末を見つめている。
端末には、この街全体の「魔力流」のグラフが表示されていた。
「……異常なし、か」
男の声は、感情を完全に削ぎ落とした機械のようだった。
「だが、計算が合わん。数時間前、この地区で一度だけ、因果関係の整合性が0.0001パーセントだけ狂ったポイントがある」
男の名は、レイス。
管理社会における「バグ」を消去する、死神の如き執行官。
彼は無意識のうちに、カイルの住む集合住宅を見上げていた。
「私の勘を疑うのは非論理的だが。……あの部屋に住んでいるのは、ただの『Gランク』の無能か」
部屋の中で、カイルはリナにスープを食べさせながら、窓の外の気配を完全に無視した。
「パパ、どうしたの? スープ、冷めちゃうよ」
「ああ、ごめん。ちょっと、外の風の音が気になっただけだよ」
カイルはいつもの「優しい父親」の顔で笑う。
だが、そのテーブルの下で、彼の手は静かに、しかし力強く握りしめられていた。
(……まだ、バレるわけにはいかない)
(この平穏が、明日も続くように。俺は世界を騙し続ける)
しかし、運命の歯車はすでに、カイルの平穏を粉砕する方向へと回り始めていた。
彼がどれほど完璧に演じようとも、彼の中に眠る「理」そのものが、もはや隠しきれないほどの巨大な光を放とうとしていた。
翌朝。
カイルが仕事に出かけた後。
リナとエレンの前に、管理局の制服を着た男たちが現れた。
「エレン・ヴァン・クロムウェルさんですね。……あなたの娘さんに、特殊な適性の疑いがあります。精密検査のため、同行願います」
それは、管理社会が仕掛けた、最も卑劣で効果的な罠だった。
そして、これが後に、世界の理が「書き換えられる」最初の引き金となることを、まだ誰も知らない。




