最終話 聖女レイナ23歳編 たんぽぽの約束
アルドリック三世退位から5年後、23歳になったレイナは、城のバラ園で王子公爵のクリスと散策していた。
薫り高いバラの間を歩く2人の姿は、絵のように調和していた。
28歳になったクリスは、王子公爵として威厳を備えていたが、レイナの前では相変わらず少年のような笑顔を見せた。
彼の目は、彼女を見つめる時だけ、特別な輝きを宿していた。
ここ数年、エドワルド王や宮廷の貴族たちが幾度となく縁談を持ちかけても、クリスはすべて丁寧に、しかし確固として断り続けていた。
宮廷では「鉄壁の王子公爵」と囁かれるほど、彼の意志は揺るぎないものだった。
クリスの心には、3年前の母アメリア王妃との会話が、今も鮮明に蘇る。
あの晴れた午後、アメリア王妃はクリスを私室に呼び寄せた。
クリスは覚悟を決めたように言った。
「母上、また縁談の話でしょうか?」
窓辺に立ち、春の庭を眺めていたアメリアは、ゆっくりと振り返った。
彼女の目には、深い理解と慈愛の光が満ちていた。
「もう縁談の話はしないわ。あなたの心は、ずっと前から決まっているのでしょう?」
彼女は優しい口調で続けた。
「この先、縁談の話がきたら私がお断りしておきます。一番熱心な陛下には、私から強く伝えておきますから」
その言葉に、クリスの目が潤んだ。
長年、胸に秘めてきた想いを、母が理解してくれているという安堵が、彼の心を温かく包んだ。
「母上……ありがとうございます」
アメリアは優しく微笑んだ。
「あなたの幸せが、何より大切だから」
その言葉に、クリスの胸に灯り続けてきた一つの想いが、確かな決意へと固まり、レイナへの愛を、正式に形にすることを心に誓った。
バラ園の散策の最中、クリスは突然、懐かしい記憶を口にした。
「レイナ、覚えてる?あの日、君が城に来て間もない頃、僕が君を案内したこと」
レイナの唇に笑みが浮かんだ。
「もちろん覚えてるわ。クリスお兄ちゃんが、空っぽの鎧を見せてくれたよね。あの時、中に誰かいると思って、びっくりしたんだった」
2人は笑いながら、あの日のことを思い出していた。
突然、クリスが歩みを止た。
バラの香りが漂う小道の中央で、彼はレイナの前にひざまずいた。
彼の表情は真剣で、目は一瞬の緊張を浮かび、そして深い決意に変わった。
「レイナ、僕は子どもの頃からずっと……君のことが好きだった。あの日、君がおじいさまのひげにたんぽぽを挿した時、君の無邪気な笑顔に、この城の氷が溶けるのを見た。それからずっと、君のそばにいたいと思っていた」
レイナの心臓が高鳴った。
長年、胸の奥で育ててきた想いが、一気に溢れ出そうだった。
彼女は言葉を失い、ただクリスの真剣な瞳を見つめることしかできなかった。
クリスはポケットから小さなベルベットの箱を取り出し、慎重に開けた。
中には、たんぽぽの形をしたダイヤモンドの指輪が輝いていた。
細工は精巧で、一つ一つの花弁が微かに揺れるかのような造形だった。
「これは……城の宝石職人に特別に作ってもらったんだ。デザインを考えるのに2年。最高のダイヤモンドを探すのに、さらに1年かかった」
クリスの声には、深い愛情が込められていた。
「あの日、君が持ってきたたんぽぽのように、この城に幸せをもたらしてくれた君への、僕の感謝と愛の証だ」
レイナは息を呑んだ。
目に涙が浮かび、喉が詰まった。
「クリス……私もずっと……」
言葉が続かない。長年の想いが、一瞬で溢れ出そうだった。
「結婚してくれないか?僕と一緒に、この城に永遠に笑い声を響かせてほしい」
レイナはうなずくことしかできなかった。
言葉にならない感動が、胸いっぱいに広がった。
その夜、2人はエドワルド王の書斎を訪れた。
そこには、呼び寄せられたレイナの両親、トーマスとエラの姿もあった。
王は既に報告を受けていたようで、2人が入室するなり、満面の笑みを浮かべた。
「来たか。アメリアからは聞いているよ」
エドワルド王は温かい眼差しで二人を見つめた。
「長い道のりだったな、クリス。そしてレイナ……お前がこの城に来た日から、私は何となくこうなる気がしていた」
レイナ……」
エラが声を詰まらせた。
「本当によかった……」
トーマスは娘の手を取り、しっかりと握り返した。
「お前の幸せが、何よりの喜びだ」
エドワルド王は二人の前に進み出た。
「正式な許可は必要ないだろうが、王家として、心から祝福する。レイナ、お前はこの城に、かけがえのない光をもたらしてくれた。これからも、その光をクリスと分かち合ってほしい」
アメリア王妃は息子とレイナを見つめ、満足そうに頷いた。
「これでやっと、あの子の長い恋が実るのね」
書斎には、温かい祝福の空気が満ちていた。
翌日にはクリスとレイナの結婚の話題が国中を駆け巡った。
城の門前には祝福のメッセージが次々と届けられ、町国の人々も2人の結婚を心から喜んだ。
翌年の結婚式は、春のたんぽぽが咲き乱れる季節に行われた。
式場には、レイナの希望通りたんぽぽをあしらった装飾が施され、優しい黄色が白い花々を引き立てていた。
地面から空まで、幸せの色が広がっているかのようだった。
レイナのウェディングドレスの裾には、小さなたんぽぽの刺繍が施されていた。指には、あのたんぽぽの指輪が輝いていた。
参列者の中には、レイナの実の父母であるトーマスとエラの姿もあった。
トーマスは勉強に励み、誠実な働きで周囲の信頼を集め、今では次席補佐官として立派に働いていた。
かつての不安げな面影はなく、自信に満ちた笑顔で娘を見つめていた。
エラは侍女長となり、かつて自分が務めていた役割を、若い侍女たちに優しく指導していた。
今日は特別に用意された青いドレスを着て、誇らしげに胸を張っていた。
2人は並んで座り、花嫁となった娘の姿に、目を潤ませながら微笑んでいた。
前王のアルドリック三世は、エドワルド王とアメリア王妃の隣の席に座っていた。
退位から5年、彼は以前より穏やかな表情で、孫のクリスの結婚式を楽しんでいるようだった。
エドワルド王とアメリア王妃は、新郎の両親として、誇らしげな表情を浮かべていた。
アメリア王妃は、式の最中に何度もハンカチで目頭を押さえていた。
彼女は息子の長年の想いが実る瞬間を見て、心から祝福していた。
ウィリアム王太子はすでに結婚し、二人の子供の父親になっていた。
彼は妻のダイアナ王太子妃と、3歳になる息子ジョージ王子と1歳になる娘アン王女を連れて参列し、弟の結婚を祝福していた。
子供たちは式場のたんぽぽの飾りに興味津々で、時折母親に「あの花、取って」とせがむ声が、式の厳かな空気を柔らかく包んだ。
式が終わり、新郎新婦が退出する時、参列者全員が立ち上がり、拍手と祝福の声を送った。
出口で、レイナが何かを思いついたように立ち止まり、彼女はブーケを投げる代わりに、式場の飾りから小さなたんぽぽの綿毛をそっと摘み取ると、息を吹きかけた。
無数の綿毛が春の風に乗って大広間中に舞い、金色の光の中をふわふわと漂った。
子供たちが「わあ!」と声を上げ、手を伸ばして捕まえようとする中、レイナはクリスの手を握り、にっこり笑った。
「これで、幸せがみんなに届くわ」
クリスは彼女の手にキスをし、囁いた。
「君自身が、この城に幸せを届けてくれたんだよ」
それからさらに2年後、春の訪れとともに、レイナとクリスの間に1人の女の子が生まれた。
出産は驚くほど穏やかに無事に終わり、城には新しい命の泣き声が響いた
赤ちゃんは目を閉じ、小さな拳をぎゅっと握りしめていた。彼女の頬には、ほんのりとピンク色が差し、金色の産毛が柔らかな光を帯びていた。
レイナは疲れた顔にもかかわらず、幸せそうな笑みを浮かべ、腕に抱かれた小さな命を見つめていた。
「何て名前にしようか?」
クリスがベッドの脇に座り、レイナの汗ばんだ額にそっとキスをしながら尋ねた。
レイナは少し考え、ゆっくりと言った。
「シンシアはどうかしら?アルドリックおじいさまの最愛の王妃様の名前から頂いて」
クリスの目が優しく細まった。
「美しい名前だ。きっとおばあさまも喜んでいるよ。天国から、この子を見守ってくれるだろう」
その夜、前王アルドリック三世が赤ちゃんを見に訪れた。
シンシアと名付けられた赤ちゃんを見つめる彼の目には、静かな涙が光っていた。
「シンシアか……」
彼はかすかな声で呟き、赤ちゃんの小さな手をそっと握った。
「彼女もきっと、君のようにこの城を明るくしてくれるだろう」
レイナは微笑みながらうなずいた。
「ええ、きっとそうよ。たんぽぽみたいに、どこにいても春を連れてくる子に育てたいわ」
窓の外では、今年最初のたんぽぽが咲き始めていた。黄色い花々が風に揺れ、また新しい物語の始まりを告げているようだった。
城には、再び笑い声と幸せが満ちていた。
たんぽぽ一本から始まった物語は、世代を超えて、これからもずっと続いていくのだろう。




