アビス4
アビスの町には乞食や浮浪者で溢れていると言われているが、実際には所帯持ちで、乞食の装いをした者もいる。教会を中心とした宗教都市であるアビスでは、貧者への施しの為の需要として、貧者の役を演じる者が必要になる。その為、普通の貧者に混ざって、需要を満たすために敢えて貧者に変装する「強かな乞食」と呼ばれる一種の大道芸人が存在している。このような人々は、普段は他の仕事をしつつ、観光客の集中する時期を見計らって服装を整えて町へ繰り出したり、仕事の閑散期にビジネスとして行ったりすることが多い。グランド・ツアーに合わせて、こうした「強かな乞食」が少なからず紛れ込んでいても、何ら不思議ではない。
さて、教会を出たバニラ達は、こうした強かな乞食もいるかもしれない、教会の前にいる物乞い達に善意の寄付をして、ようやく教会の前で待機する馬車に乗車する事が出来た。馬車は出発の遅れからやや早足で道を駆ける。アビスも中腹に近くなると、塵の臭いが薄らぐか、彼ら自身がそれらに慣れるかして、異臭に顔を顰める必要が無くなっていた。
レンガ造りのモダンな街並み、どこか古風なくすんだ朱色の街並みなど、アビスは新旧が入り混じった不思議な雰囲気を放つ。それは、集合住宅や貴族の邸宅、定住した豪商たちなど新たな富豪たちによる建設によって作られたものである。例えばペアリスは町全体を法陣術とするために都市計画を練るなどして、建物の形は時代を通して変化する事が無いが、アビスはその様な王による厳しい統制が難しい程遠く、また文化も多様なため、いわば好みの「ごった煮」の様な、奇妙な街並みが連続する。
一同は昼食を取るために、中央広場から少し遠ざかる。目前にあるダンドロ商会が遠ざかることにもどかしさを感じながらも、バニラは、空腹に腹が鳴くのを感じていた。
「ミゼンでたっぷり食べただけに、グルメになってしまったかい?」
「じゃあ今日は玉葱料理か?」
クロ―ヴィスとルクスはにやけ顔でバニラの顔を窺う。バニラは顔が紅潮させながら、取り繕って笑顔を装った。
「ははは……。あんなに食べれたのは初めてなもので」
「だけど残念、アビスの食事は少し物足りないかもしれないね」
「そうなんですか?」
馬車はゆっくりと減速する。幾つかの教会があるアビスだけに、聖職者が食堂の前で屯しているという不思議な光景がみられる。
クロ―ヴィスはこの聖なる集団をじっとりとした目つきで見つめながら答える。
「そりゃあお前、アビスは聖職者の町だからな。大衆食堂は奔放かもしれねぇが、観光で食べにくるような店ってのは遍歴巡礼者と聖職者をターゲットにしてるからな」
「そして、住み分けが出来ているから、簡単に常連席で埋まってしまう。結果的に、観光客は大衆食堂からは追い出されるわけだ」
ルクスは、「顔を見知った貴族であれば別だろうけど」と付け加える。確かに、現在の場所は市場よりは教区を超えて聖職者が交流する店、という印象を受ける。
「祈りの作法は大丈夫か?これから入るぞ?」
クロ―ヴィスは祈りの仕草を取る。それは、カペル王国の正式な会食ではよく見られる、こめかみを抑えて俯き、女神カペラの花冠に傅く仕草である。
「はい」
バニラはやや緊張した面持ちで中指と人差し指でこめかみを抑える。聖職者らがそれに気づき、先ほどまでの会話を止めて、彼らの為に道を譲った。
モーリスは彼らに恭しく礼を述べ、食堂へと入る。学生達もそれに倣い、どこか過去を懐かしむようなインテリ達の視線を潜った。
食堂は、静かだが清潔な雰囲気であり、アビスの町とは対照的である。家畜の臭いもしない、聖職者特有のハーブの香料を焚いた匂いが柔らかく充満しているに過ぎない。食欲をそそるというよりは喉を浄化するようなにおいであり、学生達はおずおずと隅の席に座った。
ガラスから差し込む光は細く鋭く、教会に赴いたような独特の緊張感が支配する中で、ルクスとモーリスだけは先に聖職者らに挨拶回りをしている。それを眺めながら、クロ―ヴィスは頬杖をついた。
「大人の世界って奴だな。」
「僕たちも十分両足突っ込んでますよ」
「俺達は出来なくても歯牙にもかけられないが、あの年になると色々あんだよ、バーカ。あ、取り敢えず水くれー!」
クロ―ヴィスは歯を見せて笑う。バニラは、それが自分の容姿に対する自嘲であるのか、自分の年齢に対する自嘲であるのかわかりかねた。モーリスは穏やかで楽しそうに彼らと語り、ルクスは含みを持った微笑で彼らの会話の流れに任せている。クロ―ヴィスは、先に頼んだ水を口に運ぶ。
「借りてきた猫ってああいうのを言うんですかね?」
ピンギウが唐突にそう言うので、耐えかねたクロ―ヴィスが水を噴き出した。彼は口元を拭いながら、涙を流してくっくと笑う。
「ちょっ……水代返せよお前!」
「何やってるんですか、全く」
ピンギウは無表情で机を拭く。クロ―ヴィスはピンギウを指さして「だって、お前、だって!」と緩んだ唇を必死に下ろして応じた。
「今のはピンギウが悪い」
バニラはピンギウの頭を小突く。柔和な雰囲気の食堂の隅は、一際賑やかで下品な笑いに包まれている。
「ほら、バニラもそう言ってんだろ?」
ピンギウは視線を逸らした。一通り挨拶回りを終えたルクスとモーリスが戻ってくる。中央には、拭き切れない水滴が微かに光に当てられていた。
「はぁい、お待たせ。……なんか濡れてない?」
ルクスは怪訝そうに眉を顰める。バニラが視線を横に逸らせば、笑いをこらえるクロ―ヴィスが頬を膨らませていた。バニラは取り繕うように笑う。
「いえ、何でもないですよ」
ルクスは席に着く。食堂の開かれた窓際では、黒い尻尾がゆらゆらと揺れていた。
「ならいいけど……。猫でも通った?」
「ブッフォッ!!」
クロ―ヴィスが噴き出す。バニラは咄嗟に彼の口を抑え、誤魔化して笑った。教員である二人が怪訝そうに眉をひそめて顔を見合わせる。タイミングを合わせたように、給仕係が料理を運んできた。




