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ミゼン‐アビス1

 翌日、彼らはほかの旅団と共にミゼンの町を出発した。別れを惜しむギニョール劇場の上空はあいにくの曇天で、降り注ぐ天使の梯子が僅かに町に夜明けの兆しを伝えている。市場の鐘が鳴る前に宿から出て、馬車が連なる光景を目前にして、バニラは静かにミゼンの総括を考えていた。


 200段の健康階段を登り、日ごろの運動不足を痛感した。その上に聳える壮大な神々の宮殿には、些細な木片を自然光が照らす、「ありのままの姿」に純粋な美意識が詰め込まれていた。人を守る教会の威容は、素朴な日々の健康を推進する為にあった。

 彼は続けて人の恋路に首を突っ込まない方が身のためだと呆れたが、一方で、自分の妄信が白い文明を形作ったかもしれないと、呆れたものである。古今詰め込まれたミゼンの街並みが、古を保ち続ける事の難しさを伝えていた。

 ギニョール劇場の前で戯れた人々は、ペアリス人と変わらない陽気さで、二人の真面目な学生を受け入れた。

 旅の同伴者の意外な一面も見つけた。彼は自らの論理に矛盾する感情に苦しみ続けている。その苦しみが、果たしてどこかで『変わる』ことがあるのだろうか?それを見届ける恩師が、暖かな瞳を向け続ける事だろう。

 ミゼン最後の旅の記憶は、昼から夕方まで梯子をして食べ歩く「美食の巡行」である。それは彼に単純な感想を抱かせた。「美味い」その三文字の呟きが、旅の記憶のすべてといっても過言ではない。食事の楽しみは違いの楽しみ、玉葱が多彩に姿かたちを変えていくのを楽しむ様に、彼は食卓の個性に楽しみを見出した。


 総じて実りある旅であった一方で、ミゼンは一つのターニングポイントであった。


 かつての巡礼旅行では、ミゼンよりさらに長期間ウネッザに滞在することになる。それによって、人々はウネッザに金を落とし、ウネッザは観光地として大いに収入を得たはずだ。しかし、この旅は滞在期間をそれほど長くとらない。元々が収入の安定する中間層に合わせた旅行企画だからである。そして、この事実は「旅の終わり」の折り返し地点を通過したことをも示す。


 すっかり夏の暑さに移り変わったミゼンに鳴く蝉の声が、白い石の壁に反響する。旅の終わりを暗示するように、町は暗い空模様に沈んで見える。


 かつてのバニラはそうでなかったが、今のバニラならば、旅の終わりが惜しいという感覚を覚える事が出来る。研究に没頭した毎日を再び続けたいと思えるのも、旅先で自分の無知を思い知ったからだろう。彼は自分達の馬車が目の前に迎えに来るまでは、黙ってそのようなことを考え続けていた。


 やがて馬車が到着すると、久しぶりの白い外装、豪奢で快適な座椅子に腰かけた。


 新市街の賑やかな色彩の間を突っ切り、旧市街の作られた美麗さを目に焼き付けた後、バニラは馬車に揺られて次の目的地へと向かう。


「いやぁ、しかし、楽しい町だったねぇ」


 ルクスは羽根つき帽を膝に置き、頭を規則的に傾げながらつぶやく。曇天とは対照的な、晴れやかな表情であった。


「玉葱料理美味しかったです」


 寡黙なピンギウが言う。彼は普段通りどことなく素っ気なかったが、口元のほんの些細な範囲で幸福を表現している。


「食の幸福は万国共通のものだ。全世界の料理を並べたら、きっと戦争など起こらないだろう」


「おいおい、お国自慢は戦争の種だぜ?ああいうのは、身内でやるから平和なんだよ」


「リキュールを嗜むものもいれば、エールを仰ぐものもある、というのもあるだろう。私達の味覚は、案外違っているものだからね」


 モーリスは旅程を確認しながら言う。ルクスは改めて帽子を被りなおして笑う。


「なるほど、道理です。これは頭を冷やさなくては」


 市門を抜けて暫くすると、ミゼンの街並みは川面と一体化して細い地平線の僅かな隆起のようになっていく。川沿いの道を馬車で進む旅団は、下る小舟たちに手を振っては、長い草原の道を進む。やがて馬車は川から離れ、南東へと進んでいく。川縁の丸い石が緑の草に侵食されていくと、ミゼンの町はすっかり景色の中から消え去ってしまう。


「しかし、馬車というのはいいものだ。脚の痛みも休まることだろう」


 暫く馬車に揺られた後、モーリスは、足を揉んで自嘲気味に笑う。年長者のルクスは、激しく何度も頷き、同意の意志を示す。若い三人が呆れ顔でルクスを見つめた。


「お前はもうちょっと頑張れよ……」


「何を!ピンギウも似たようなものじゃないか!」


 ルクスはピンギウを指さしてクロ―ヴィスに詰め寄る。指摘された当の本人は気にするでもなく、ルクスの指先をくい、と窓の外に曲げた。クロ―ヴィスは鼻を鳴らして笑う。


「確かに、こいつの生活を見て健康体になるというんなら、俺は砂糖菓子と酒樽を買い占めるだろうな」


「本人がそれで満足していればいいんですよ……」


 ピンギウは不貞腐れたように言う。ルクスの指は方向を変え、クロ―ヴィスの額に向かった。


「そうだ、そうだ!満足いく人生は得難い至宝だ!」


「つまりは『満足した豚』って奴だな」


 クロ―ヴィスは鼻を鳴らして笑う。彼の組んだ腕は自信ありげに拳の形を保っていた。


「いいじゃないか、豚は綺麗好きなんだよ!」


 バニラは思わず吹き出してしまう。この二人の議論のうち、専門的でない議論は非常に滑稽に映る。両者の視線がバニラに向かうと、彼は手を挙げて謝罪の意思を示した。緩んだ口元が謝罪の意味を薄める。二人はじっとりとした目つきのまま、向き直った。


 彼らの不毛な論争は、バニラが風景を楽しむのも阻害しない。少々騒々しいが、それもまた旅の持ち味である。


 ミゼンからアビスへの道程は、何度か川に接近・離脱を繰り返すやや長いものだ。その為、草原を進み、丘陵を降りた先に川面が輝いていたり、聳える山麓が雲化粧をするさまを見つけたかと思えば、次には平野に山の水源から下ってきた川が見られる。いずれの川も名称は様々で、緩急のある道程は見るにも楽しく、退屈とは無縁の快適な旅程である。


「あれがソンヌ川、あれがリーエン川、そこがフィアリエ運河、ダイロック、アヴィエンナ……」


 道中の景色を楽しむ事と川の数を数える事は、この道程においてはほぼ同義である。一夜を草原で過ごした一行は、川沿いの宿場で休み、翌朝には再び出発する。その後は幾つか通り過ぎた川の名前が繰り返され、特にソンヌ川、リーエン川は何度も交差するように(時には並走して)視野に収まる。やがてこれらの川が視界から外れると、次の目的地、アビスの城壁が遠くに見えてくる。


 モーリスはそれを認めると、静かな咳払いをして、学生達を注目させた。学生達も、その咳払いの意味をすっかり理解していたため、馬車の喧騒が一旦鳴りを潜めた。


「では、アビスについて、説明していこうか」


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